19.三岳拓哉とラップタイム
耳鳴りの中、ぼんやりと声が聞こえる。
「――おい」
誰の声だろうか。なんとなく、セミに似ている?
ただ、ぼんやりと広がる田園風景の中、男の声は俺の耳元で叫んでいる。
「――おい! あんた!」
「!」
全身にのしかかるような重みと、耳をつんざくような騒音によって意識が覚醒する。
迷彩柄の車や白いテントが立ち並び、のどかな田園風景は騒然としていた。
「おい! 聞こえてるか?」
「――え? あ……はい」
見知らぬ男は俺の顔を覗き込むように見つめてきた。
頭には総務班と書かれた帽子を被っている。
「あんた、厚木から逃げてきたのか?」
逃げて……来た?
「……まぁいい、向こうに医療班のテントがある。彼女さん、怪我してるんだろ? 診てもらえ。おーい! 医療班!」
男はそれだけを言い終えると視界から消えていった。
次いで、マスクを着けた女性が俺の前に現れる。頭には医療班と書かれた帽子を被っていた。
「こんにちは、彼女さんの意識はありますか?」
「え……彼女……?」
言われて初めて、背中にのしかかる重みの正体に気が付いた。俺の背中に誰かが乗っている。
「失礼します、彼女さんをこちらの担架に寝かせてもらえますか?」
俺は言われた通り、背負っていた人を担架に寝かせた。
鼓動が早くなっていく。
「ミサ……キ……?」
女性はミサキの身体に聴診器を当てたり、目を開かせたりしながら深刻な表情を浮かべた。
「これは……すみませーん! 手を貸してください!」
というか……いつからミサキを背負っていた?
「赤です、早急に処置をお願いします」
俺はどうやってここに来た?
「いち、に、さんっ! 運びます」
あ、ミサキが連れていかれる……。
「ま、まって……」
「あなたもこちらで手当てします――」
ダメだ。
「――あ、ちょっと、どこに行くんですか!」
「――すみません、手術中ですので外でお待ちください」
「――心停止! ショックちょうだい!」
「――黒のタグを彼女に――」
「――」
……。
「――さん?」
ぼんやりと、ベンチに座って目の前を流れる人の流れを見つめていた。
迷彩服を着た人、白衣に身を包んだ人、頭や足に包帯を巻いた私服の人……。
喧騒に満ちたこの場所には笑顔も憩いの場も無い。
俺の居場所も無い。
「拓哉さん? 大丈夫ですか?」
「あ……カエデ……ちゃん?」
俺の無意識は自ずと声のする方へ振り向いた。
「よかった、無事だったんですね! お姉ちゃんやフィアちゃんとも連絡が付かなくて……青山さんも……」
カエデちゃんはスマホを握りしめながら泣きそうな声で言った。
よほど寂しい思いをしていたのだろう。
俺なんかを見つけて喜んでいるくらいには。
「えっと……お水飲みますか?」
そう言ってペットボトルを差し出してきた。
彼女は震えた笑顔を浮かべている。
「向こうで食べ物も配っていました。一緒に行きませんか? そのあと、みんなを探し――」
「ごめん」
「え?」
思わず、カエデちゃんの言葉を遮ってしまった。
喉が震える。
未だに恐怖が体の中に充満していることを思い出してしまったのだ。
「俺は……何もできなかった……」
この子にそんな情けないことを話しても何も変わらないことは分かっている。
今からしようとしていることが自己満足で誰も得をしないことは分かっている。
ただ、話すことで、何かが晴れればいいと思った。その一心だった。
「ミサキも……師匠も、君のお姉ちゃんも……俺のことを見てくれていたのに……俺は何もできなかった!」
「拓哉……さん?」
「何が魔法使いだ……何が……守るだ、何が抗えだ! 俺は自分のことすら何も出来ないのに……俺には責任が取れなかった……!」
強張った手で目を押さえつけた。ここで涙を流すのはお門違いだと理性が訴えかけたからだ。
「あ、あの……私は……」
「ごめん、俺は君に何もしてあげられない……」
結局、俺は自分のために生きてきたのだ。
「気遣いなんていいから……頼むから一人にしてくれ……」
このままではもっと自分を嫌いになってしまうから。
「えっと……それじゃあ私、ご飯、貰って……きます」
カエデちゃんはそれだけを言い残して去ってしまった。
「……バカ野郎……!」
辛いのは俺だけではない。カエデちゃんも、いや、この場にいる見知らぬ全員が辛い思いをしているのに、さも自分だけが全て背負っていると勘違いしている。
頭では意味ないことだって分かっているのに、ただ自分が憎くて膝を叩いた。
「おい、レヴナントがこっち来てるっぽいぞ!」
「こっちだけじゃねぇ! 神奈川中に広まってるって話だ!」
「おい、移動するぞ、もうじきここも飲まれる! バスにみんなを誘導しろ」
切羽詰まった表情で大人たちが右往左往している。
多分、これから大勢の人が死ぬ。
俺は迫りくる世界の終わりを知っているのに、彼らのために何かできるとは思えなかった。
――これがあやつの終局。
師匠はそう言っていた。
ふさわしいと思う。
他人に優しくするふりをして結局は自分に酔いしれたいだけのダメの男の終わり。
壮大すぎるくらいだと、笑えてしまう。
だが、師匠はそんな俺を助けた。この意味が分からなかった。
「た、拓哉さん! 皆さん移動するみたいです!」
「……」
あんなことを言った手前、カエデちゃんの顔を見ることが出来なかった。拒絶しておきながら、彼女の言葉に甘えることは出来なかった。
「拓哉さん……! お願いだから……一緒に来てください」
カエデちゃんの声をかき消すように、大人たちの怒号が響く。
「急げ! すぐそこまで来てる! 子供を優先しろ!」
一人の男が切羽詰まった表情で、悲し気な表情を浮かべるカエデちゃんの腕を掴んだ。
「ほら、君も来なさい!」
「え、あ、いや、ま、待ってください! 拓哉さん!」
叫び声が耳を刺し、反射的に連れていかれるカエデちゃんの手を掴んだ。
「ま、待ってくれ……俺が連れてくから……」
「そ、そうか、急げよ! 出発まで二分も無いぞ」
カエデちゃんは震えながら俺に抱き着いてきた。
今まで一人で立っていたことが不思議なくらい、弱々しく、風が吹けば飛んでいきそうな身体だった。
「……お姉ちゃん……」
カエデちゃんはポツリと、俺の胸の中に零した。
「ごめん……君のお姉ちゃんだったら、みんなを守れたかもしれない……」
カエデちゃんの背中に触れようとした手を自然と引っ込めてしまった。
「行こう」
カエデちゃんはうなずき、俺の服を掴んだまま後を付いてきた。ただ、人の流れに逆らわないように、一般人の一人として避難用のバスへと向かった。
「レヴナントだ!」
誰かが叫んだ拍子に人の流れが乱れる。
遅れて一体のレヴナントが人々の前に降り立った。
「拓哉さん……!」
人々は発狂し、入り乱れた。
その中でカエデちゃんは必死に俺の服を掴んで離そうとしなかった。
居合わせた自衛隊による射撃が始まり、避難所は一瞬にして戦場と化してしまう。
悲鳴と銃声が連なり、嵐の様に舞い上がる。
「……俺は」
身体の震えが止まらない。いつも以上に首無しの巨人の姿が大きく見えた。
弾丸を当たり前のように弾く姿も、人を虫のように叩き潰す姿も、絶対的存在であるかのように蹂躙する姿も。
「拓哉さん! 逃げなきゃ! 拓哉さん!」
いつも逃げてきた。責任なんて俺には関係無いと思っていた。
違う。
俺は目を背けることで自分を守っていたんだ。
「――絶対に助けるから」
目の前のレヴナントを倒すために何を思っても、『声』は聞こえない。
カエデちゃんを突き放してレヴナントへ向かう。
「拓哉さん!」
いつしか、鳴り響いていた銃声や悲鳴も聞こえなくなっていた。
潰れた人たちを見ながら、地獄へ向かう。
英雄になりたいわけじゃない。誰かのためにレヴナントを倒したいわけじゃない。ただ、今の自分を殺したくて、走った。
「――」
一体のレヴナントが俺の目の前で屈んで待ち構えていた。
そびえ立つ絶望や無謀の壁を理性ごと振り払って、力任せにレヴナントの肉体へ拳を突き立てた。
「……くっ」
鈍い音だけが聞こえた。
まるで少し柔らかい鉄を叩いているかのような無力感。
直後――視界が回った。
何が起こったのか分からないまま、鈍痛が全身を支配する中、地面を見つめていた。
徐々に頬が熱くなっていく。耳鳴りが止まらない。
全身が痛い。左肩が燃えるように熱く、肩から先の感覚が無い。
視界が霞んでいく。悲しくも無いのに涙が止まらない。
「……俺は……」
何もできない。
地面からレヴナントの足音が聞こえてくる。
これが俺の終わり……。
「……あ……れ?」
ふと、目の前に赤い物が落ちているのに気が付いた。
縋るように握りしめ、見つめた。
煌びやかな赤い輝きと共に、金髪の誰かが脳裏を過っていく。
今まで見た誰よりも美しかった。もっと目に焼き付けたかった。もっと声を聞きたかった。もっと笑ってほしかった。もっと知りたかった。もっと……俺の人生にいて欲しかった。
呆れた……出会った時から惚れてたんだな。
――やーっと正直になったのう。
「師匠……?」
握りしめたリングに熱が灯る。
火傷しそうなほど熱いのに放したくない。
――さて、お主はまだ続ける気かのう?
分からない。どうしていいのかも、何が出来るのかも。
もう力なんて無いし。
――力があれば向かって行けるか?
自信も……無いな。
――最後に、もう一度だけ問う。誰を求める? 誰を救いたい?
師匠の問いに、俺は即答できた。
遊佐アカリを助けたい……あいつが望むセカイを見たい。
――良かろう。では、最後の『願い』を授ける。よいか? 力があるなら――
「――抗え……だろ……ははっ……わかってるよ」
考えなんて無い。
熱く灯った右腕を巨人の胸へ突き出した。
レヴナントに触れた感覚が脳に伝わる前に、音が消えた。色が消えた。景色が消えた。カエデちゃんも、眼前に迫っていた地獄も、自分の意識さえも――。
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