10.魔法使いと青春長者

 ――「来るなっ! 化け物!」

 夢を見た。

 忘れ去ったと思っていた記憶が鮮明に蘇ってしまった。

 体にまとわりつく不快感と強い拒絶によって目を覚ます。

 すぐに俺の部屋のリビングだと認識できたが、心臓だけは未だに落ち着きを取り戻さない。


「……はぁ」


 詰まった息が強制的に吐き出される。

 暗いリビングには自分の呼吸音と冷蔵庫の鈍い音しか聞こえなかった。

 寝る分には十分すぎるほどの静寂。

 俺が目覚めてしまった理由は悪夢と、もう一つあった。


「暑いな」


 一般的に言う熱帯夜だろう。

 冷静に考えれば現在は七月の上旬、例年に比べて遅いが、夏の到来である。

 手の届く場所に置いてあったスマホを持ち上げ、時刻を確認する。

 午前三時。

 あろうことか夜明け前に目覚めてしまった。

 寝直そうにも、先ほどの悪夢が脳裏にこびりついて意識が沈んでいかない。

 中学から高校にかけての記憶。

 俺にとっては空白であって欲しかった黒歴史だ。

 夢の中で俺に対して恐怖の視線を向けていた少年が誰だったのかすら、今はどうでもいい事だった。

 俺は一息ついてソファから立ち上がり冷蔵庫の前に移動する。

 封が切られていない五〇〇ミリリットルの飲料水を取り出してキャップを捻る。

 そのまま、乾いた喉へ大量の水を流し込んだ。

 一気に半分ほどの水を飲んだところでキャップを閉めて冷蔵庫へ戻す。

 することも無いので夜明け前の外へ行こうとした。


「拓哉くん?」

「っくりした……!」


 俺の行く手を阻むようにミサキが暗闇の中に立っていた。


「おはよう」

「おはよう……どうしたの?」

「なかなか眠れなくて」


 ミサキはそう言って微笑んだ。

 寝起きによる覇気の無さと言うより、彼女の立ち姿には疲労を感じる。


「拓哉くんも、同じ理由かな?」

「まぁ、うん」

「暇ならさ、散歩に行かない?」

「えっと……」


 海老名市での一件からミサキとレヴナントの関係が浮き彫りになりつつあった。

 ミサキか、ミサキの中にいる何かが、レヴナントを引き寄せている。

 正直、散歩ですらリスクでしかないのだが、断ればミサキに不安な思いをさせてしまうかもしれない。


「少しだけなら」

「うん。あ、その前に着替えて良いかな、寝汗かいちゃって」


 ミサキはそう言うと、リビングの隅に置いてあったリュックからTシャツと短パンを取り出した。続いて、躊躇いもなく着ている服の裾を持ち上げる。


「え、ここで着替えるの?」

「しーっ、フィアちゃんが起きちゃうから」


 俺が心配したのはそこではない。

 だが、ここは俺が空気を読む場面だろう。

 生着替えを見逃すのはとても惜しいがここは紳士としてミサキに背を向けておく。

 すぐ後ろで布が擦れる音がしている状況に悪夢とは別の理由で鼓動が早まる。


「はい、お待たせ」

「……うん」


 着替えを済ませたミサキと共に家を出た。

 外の空気は部屋の中と比べて少しひんやりとしていて、朝と夜の境目ということも相まって空気が普段より澄んでいるように思えた。

 空の色はまだ暗闇に包まれており、星の光も街灯の光に負けて見えない。


「静かだね」


 マンションから出てすぐに、ミサキが呟いた。

 確かに静かだが、俺にとって静寂はレヴナントが現れる前兆だった。

 意識は朝の空気よりもミサキの表情、立ち振る舞いに向かっていた。


「こんなに早起きしたの、高校生の時以来かな……ね?」

「そう、だね」


 ミサキの笑顔がいつもより少し、空っぽに見えた。

 他愛のない会話、他愛のない空気を演出しているため、気のせいで流されてしまいそうになるが、どうしても違和感を覚えてしまう。

 マンションから出てすぐに有刺鉄線が張り巡らされた場所が戒めのように姿を現す。


「拓哉くん?」

「ん?」

「もっと遠くに行ってみない?」


 ミサキは俺の心を見透かしたかのような笑顔で提案した。試されている気がする。

 受け入れても断っても、彼女は答えを用意しているだろう。


「拓哉くん?」

「いや、何でもない……行こう」


 ミサキは足取り軽く俺の前を歩いた。

 街灯に照らされた道を歩くこと三〇分。

 その間、これと言った会話は無かった。

 居辛さは無く、ミサキは夜明け前の静けさを楽しんでいるように見えた。


「お、川まで来ちゃったね」


 俺たちの前に姿を現したのは相模川と呼ばれる神奈川県でも有名な一級河川である。

 暗すぎて景観を楽しむことは叶わなかったが、辺りは駅周辺と違って住宅街に囲まれており、普段であれば喧騒に紛れて聞こえない水の流れる音が聞こえて新鮮な気持ちになる。


「随分歩いたな」

「そういえば、今年のアユ祭り、開催できるみたいだよ? 海老名市が大変なことになっちゃって怪しかったけどね。今年はみんなで一緒に行こうよ!」

「あぁ、うん」


 ミサキの言う「みんな」に誰が含まれているのか考えていたら、空返事になってしまった。


「てかもう夏だねー……そろそろセミが鳴き始めるかな」

「そうだね」


 ミサキは川を見つめながら俺の前を歩いた。度々、風がミサキの髪の毛を揺らし、横顔を覗かせた。


「あ、ちょっと空明るくなってきたね」


 ミサキは徐に足を止めて空を見上げた。

 彼女の言う通りに見上げると、空の夜色が徐々に白みがかっている。

 俺はすぐに視線を下ろしてミサキを見たが、彼女は幻想的な空の色に見惚れていた。

 静寂に包まれて、どれくらいの時間が経っただろうか。早送りの様に空が明るくなっていく。

 明るくなるにつれて、ミサキの笑顔に隠れた違和感が露わになっていく。

 どこか、体調が悪いようにも見える。


「ミサキ……」

「――拓哉くんさ」


 不安があるなら吐き出させようと、声を掛けた。だが、ミサキは言葉を遮って会話の主導権を握った。

 言葉を飲み込んでミサキの声に耳を傾ける。


「高校の時のこと、覚えてる?」

「もちろん」


 さっきも夢に見たくらいだ。


「あの時は大変だったよね。体育祭も文化祭も、夏休みも卒業式も、全部、政府の人たちに監視されて……何も楽しく無かったよね」

「そうだね。ミサキは何だかんだで楽しんでなかった?」


 ミサキは高校の時から読者モデルだった。

 クラスの女子連中からは反感を買っていたが、男子たちは別だ。

 誰がミサキの彼氏になるか、大々的なレースがあったことを覚えている。ミサキと一番距離が近かった俺がその飛び火を貰ったことも覚えている。


「見た目はだけは強かったし、シャルウィダンスの嵐だっただろ」

「そうだったかも! 結構、鬱陶しかったなぁ」

「ほんと良い性格してるよ。撃沈した男子たちの冥福をお祈りしよこうかな」

「何それー。……まぁでも、楽しめていたかは別の話かな。唯一の友達である拓哉くんは誘ってくれなかったし。てか私に興味なさそうだったし」

「……そうだったか?」


 俺にとってミサキの存在は大きかったはずだが、思っても無いことを言われてしまった。


「拓哉くんに余裕が無かったっていうのは分かるけどね。今もそうでしょ?」


 余裕が無い。

 ミサキは今の俺は余裕が無いように見えていた。

 そうだと分かった途端、形にならない不安が胸の中で渦を巻き始めた。

 俺が不意に足を止めると、遅れてミサキも足を止めて振り返ってきた。


「俺、もしかしてだけど、ミサキに何もしてあげられて……ない?」


 今思えば、自分が自分に課した責任に追われてばかりで、何も問題は解決していない、それどころか、悪化している。


「あーいや……ごめんごめん、気を遣わせたかったわけじゃないんだよ……ごめん、今のは失言だったね」


 自分に呆れて彼女の顔が見られない。


「海老名の時も、その前も……ミサキを怖がらせているだけだっただろ。もっと安心できるように、しなきゃいけないのに……」


 俺はミサキを守ると決めた。現状、ミサキは生きている。

 彼女も俺を頼ってくれた。

 だが、それだけだ。彼女にとって、平和とは程遠い。


「何やってんだろうな……俺」


 気まずい空気になってしまったのは分かっている。

 だけど、面目なくて何と言えば良いのか分からないのだ。


「良いじゃん、何してたってさ」

「……!」


 顔を上げると、ミサキは優しく微笑んでいた。


「だって私たち、まだまだ学生だぜ? 大人になった時に思い出せる思い出を作ろうよ。今が楽しかったって、笑い飛ばせるようにさ!」

「……」

「はぁ……」


 俺が言葉選びのために沈黙すると、呆れたため息を吐かれてしまった。


「どうせアカリちゃんでしょー? わっかりやすいんだから君は」

「い、いや」

「分かるよ、私が拓哉くんを助けた時も同じこと思ったからねぇ。あ、この子、私と一緒で高校、楽しくないんだ。って」


 ミサキは「うんうん」と頷きながら俺の両肩に手を置いてきた。

 ふざけた態度だが、ミサキの言葉はスッと胸に入ってくるからムカつく。


「類友なんだから仲良くしようよ。ほら、夏なんだし、アカリちゃんも含めたみんなでどこかに出かけるとかさ!」

「なんでそこまでして遊佐アカリを巻き込むんだ?」

「私のワガママが半分、あと半分は私のお節介だよ。だから拓哉くんには手伝ってほしいな。私から頼んでも来てくれなさそうだし」


 と、強気な笑顔を浮かべて近づいてきた。

 お節介……か。ミサキらしいと言えばらしい。俺も彼女のお節介には何度も助けられた。

 まぁ、これも責任をとるということなのだろう。半ば俺の中で諦めが付いている。


「俺から頼んだら逆効果な気がする」

「わかってないなぁ、拓哉くんはぁ……君が頼むことに意味があるんだよ!」


 めちゃくちゃ強引にアイスブレイクでもさせようとしているのだろう。

 呆れすぎて溜息すら出ない。


「わかったよ、善処する。」

「あはは、まぁダメだったらダメだったでさ、こんどは二人で考えよう?」


 夜色の空が山の方へ逃げていく。朝と夜の境界線が俺の頭上に出来上がっていた。

 どんな障害があろうと、どんなに縛られていようと、今しかできないことがある。俺は高校の時に後悔した。だから、もう後悔はしない。

 無理矢理でも良い。今度こそ自分のやりたい様にやってみるのも良いかもしれない。


「やってみるか……」


 責任を取れるかどうかなんて分からない。それでも、俺はミサキに恩返しがしたい。

 俺が辛かった時、楽しませようとしてくれた彼女のように。

 彼女が辛くないように、青春を謳歌できるように。

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