第2話

「宿題は来週までウェブにて提出してください、今日はここまでです。」と、教授は教壇から降りて講義資料を整理しそめる。


授業が終わる時点の教室が一番騒がしいに違いない。ノートを捲る音、ファースナを閉める音、席を立つ音、歩く音、話し合う音。夏帆は文房具やノートを片付けて、一刻も早く教室から脱出したいと思ってジッパーも閉めずに席を立って歩き出した。

それと同時に、ある姿が教壇から後ろの席へ戻って、夏帆とぶつかってお互いに資料が散々地面に散らかった。


「本当にすみません!!人が多くてうっかりしてつい...」と女の子が慌てて腰をかがめて資料を拾う。


「いや、大丈夫ですけど...」と夏帆はペンやノートとプリントを拾い上げる。ファスナーを閉めたらいいのにと彼は不意に思っていた。


教室から出て夏帆は校内コンビニに向かった。平日7時から11時までの遅番を担任している。1100円時給というのは多額とは言えないけれど、退勤後は期限切れ弁当放題だから、好きなだけ持ち帰って一日3食を補うことは満足できる。


まっすぐ職員室に行って制服を着替えて、「お疲れ様でした」と言って、レジ交代をする。


レジの仕事は簡単だと思う人が多いけれど、実には商品を点検してお釣りをお客様に渡す仕事だけではなくて、チケットを予約するとか、代金を払うとか、荷物を送るや受け取るなどもレジ係の役割の範囲に収まっている。しかし、夏帆にとって一番難しいのがタバコや揚げ物の名前をよく覚えることだった。カタカナにはいっぱい入ってることもあって、さらに記憶力の良くない彼に圧力をかける。


「夏帆ちゃん、こんばんは!」スタミナの込めた挨拶が、店舗の入り口に彼の顔をぎょっと振り向けさせる。目の前に現れたのは、栗色の長髪を伸ばしている女の子である。爛漫な紫色の瞳から無限な希望が溢れているように、彼女は微笑みながらレジへ歩き出した。白と水色の縞模様のセーターが華奢な体つきを包み込んで、カーキ色のチェックスカートと黄色い小柄なレインシューズがコントラストを作る。


もし知らない人であれば夏帆はきっと目を避けて「多分あの人が人見違えかな」と断念して背を向いて遁走するつもりだろうに、平然と頷いて「うん、こんばんは。」と淡々と返事をした。


「夏帆ちゃんは今日も四時間?ずっと頑張ってるね。」と彼女は慣れそうにレジカウンターの小扉を開けてレランドセルを下ろした。


「うん、心も?」


「うん、よろしくね!」


河野心は、夏帆ちゃんの幼馴染だった。家が近くていつの間か仲良くなって遊んでいた。大学生になって二人の専攻は別々。夏帆が数学専攻に対して、心は商学部ファイナンス専攻。


「これ重いから、僕がやってあげる」と言って、夏帆は心の代わりに商品パックを抱き上げて戸棚に入り込む。ピークタイムではないから、品出しの仕事もレジの仕事範囲に属する。


「ありがとう夏帆ちゃん!」と心は元気な声で返事をして、「今日は授業中ね、『株価市場で千万円を失った』って、ファイナンスの先生が言ったの。面白くない?!ファイナンスの名誉教授なのに!」


「そう?まあ」とさりげなく夏帆は返事をとった。千万円って、ほんまに金持ちかなと、夏帆はこれ他考えられない。


「夏帆ちゃんは授業中何か面白い事あったの?数学のことよく分かんないんだけど」


「まあね、今日はゲーム理論の授業があった。」


「へえ?夏帆ちゃんはゲームをやったことある?」


「そういうゲームじゃない、博奕とか計略とかいう事を指すゲームなんだ。英語ではこの学科を『game theory』と言うから、日本語はそれを直接に『ゲーム』や『理論』を当て嵌まて訳したと思うけど。」


「そっか。なんかゲームを言うと、夏帆のイメージとはちょっと違う感じ...まあとにかく、何について話したの?」


「『囚人のジレンマ』という例を先生が挙げた。例えば、囚人太郎・花子が共同で犯した疑いで逮捕されて、検事は囚人らに司法取引をもちかけた。それに工夫をして次の三つの策を練った:」と夏帆は言いながら、缶ジュースを冷蔵商品棚に並び始めた。


「一、もし二人とも黙ったら、証拠不足ということで、2人とも懲役2年を科する。」


ぐるぐるとコーラ缶がホイールコンベアに冷蔵庫の前へ進ませ、前の缶に突き当たってこもった音がする。


「二、もし片方だけが自白したら、そいつはその場で釈放してやる。一方、自白しなかった方は懲役10年を科する。」


心は掃除の仕事からちょっと気を散らして夏帆の言うことに耳を傾けた。


「三、2人とも自白したら、2人とも懲役5年で。」


「やあ、めんどくさそう」


「もし心が花子だったら、何の選択肢を選ぶ?」


「そうね〜夏帆ちゃんの言った懲役の年数はよく覚えないけど、やっぱり太郎くんと事前に相談して一緒に黙った方がマシじゃない?」


「一理がある。けど、『花子が約束を守る』というのを大前提にして太郎が二人の約束を破って自白したら、その場で釈放できる。」


「裏切るってこと?」


「そうだね。だから花子もこういう自分にとって最悪の事態になる可能性を考えなくてはいけない。つまり、二人はお互いの約束で選択肢を選ぶわけではない、その代わりに...」と夏帆が爪先立ってブラックコーヒー一本を冷蔵庫の奥に据えて、「自分の利益に基づいて別々で選択する。」


「私ちょっと手がかりがあるかも!」と心が高ぶって、「二人はきっと自白する!そうでしょ?」と叫んで箒を近くの陳列棚に持たれさせて夏帆に近寄る。夏帆の視界に入ったのは、光ってるアメジストのような双眸しかない。


「うん...」と夏帆はちょっと頷いてツバを飲み込んだ。


「あっごめん、つい...」と心はガクンと身を後ろに退く。それと同時に、職員室の扉がチャっと開いて、中年のおじいさんが現れた。


「この時間では、お客さんが多くないけど、勤務中にサボるのはよくないよ。」


「あっ、店長さん、申し訳ございません!」と夏帆さんが謝る。


「いや、夏帆くんはいいけど。」


「わたし?ちゃんと掃除をしたのに!」心はふくれっ面をした。


「口で?」と店長さんが微笑みながら入り口へ向かう。


「ふふふ...」と夏帆も笑い止まずじまいでレジカウンターに歩き出す。


「夏帆ちゃんさえ?しょうがないね......」心は口角を秘かに上げてまた箒を手にして掃除を続いた。


今から考えてみれば、この日は穏やかな日常の終章であることだけは、夏帆は確信している。

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