第1話
雨の降り注ぐ夕べである。何軒おきの常夜灯の差した光束が、しっとりとした初夏の泥土の匂いに混ぜながら、栄えを歌う都市の輪郭を描きつつある。点滅する高い鉄塔に位置する信号灯が、波紋を広げてゆく。
夏帆のビール瓶の底のようなレンズの中に映ったのは、大阪夢洲の煌びやかな景色に他にならない。「ふっ」と、彼は微かなため息を漏らした。テーブルに散らかったノートとぺんを鞄に収まって肩に掛かった。破棄したはずのカップ麺や弁当箱の群れを敏捷に避けて扉に向かう。
去年の4月から借りているこのアパートは、5畳の部屋にストーブやトイレがついており、最寄り駅から徒歩5分の便利な場所だ。夜になったら救急車の騒音は時々あるけれど、全体として考えば居心地が悪いとは言えない。彼にとって一人暮らしの生活を送らなくてはいけないーー母は小さい頃で行方不明、父では高三の時亡くなった。「二十歳でいる立派な男と咲き誇る時に、何と不幸な状態なんだろう。」と夏帆は時々思った。一人で大学を通うのは容易とは言えないーー父は何百万も残したけど、生活を支えるにはまだ足りてない。バイトを毎週35時間までしてお金を貯めるかろうじて弱いバランスを維持している。
ドッカとドアが戸枠にぶつかって、夏帆は錆の入った階段を下る。すぐ濡れた靴先が、歩きに連れしぶきを色褪せのズボンに巻き上げてくる。何回も繰り返していたように、夏帆は中ふ頭駅2番出口に入っていた。暑いとも涼しいとも言えない嫌げな気流をエアコンが放り出してくる。
「雨のせいでメトロで行かなきゃいけない、か」と囁く始末だった。改札を通って階段を降りる。日々はほぼ半額弁当やカップ麺で生命維持、授業が終わってからバイトモードにシフト。そんな生活を送るというのは、もう感触のない骨肉の塊に近いものである。
「まもなくーー」突如とした放送音が考えを止めさせ、「一番線に住之江公園行きが到着します、扉をご注意願います」予告状のように、腐い泥土の匂いが響き渡る警笛。LEDドットマトリックスの示す斜めな字体が目の前にフラッシュする。
大学へ地下鉄では約一時間がかかる。面白いことに、自転車通勤は40分だけ。夜間の1限目ですので、中心部行きの電車は混んではいない。扉が開いて途端、夏帆は歩を進めた。
「扉が閉まります、ご注意ください。」と、狭い区間が作られていた。
夏帆が取り出したのは、「ゲーム理論」というタイトルが素色のカバーに乗っている一冊。数学部の二年生として、帆夏は小さい頃から数字と相性が良かった。高校に入ってから数学オリンピックとかも熱心だった。良い順位は取っていないが、数学への関心が増えたに違いがなかった。大学に入ってから、数学は高校と比べては分野が多くてそれなりの趣味もある。
「ゲーム理論」というのは、社会や自然における複数主体が関わる意思決定の問題を研究する分野である。数学とは関係が薄いと思うかもしれませんが、実に確率理論と緊密な関係がある。
雨の糸が電車の窓を纏って霧と連携して視界を朧にする。夏帆はメガネを外して、ひとときの休憩を取る。正直にいえば、未来何かになりたいという目標は全くないのだ。それを考えるより、とにかくバイトをする方が効率的に最も最適だと考えていた。「授業を終わって、今日はコンビニと居酒屋のバイト...」夏帆はメガネをかけて携帯のスケジュールアプリを確認する。
大学生活は自由自在だと彼は思っている。それなりに、人間関係も薄くて寂しいというのも時折り彼は思った。
「次は、豊津、豊津です。」と車内放送が夏帆に準備を促す。彼は忙しそうに本を鞄に埋めてファスナーを閉める。また同じ位置に鞄をかけた。肩紐のへりはちょっと色褪せて赤錆色の痕を示す。
プシューっと扉が開いて夏帆は霧の海に身を潜る。彼は雨を好きとも嫌いとも言えない。雨の日になると空気が清々しいと思う一方、傘を差し掛かかって靴もあんまり濡れないように心配するのも大変だ。まぁ、自分でも左右できないから受け入れなくてはならないことでしょうがと。
改札を出て何百メートル歩いて街並みを抜けつつ、坂が彼の目の前に現れた。坂を登るのが、夏帆にとって一番大変だった。タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられたように、彼は坂を登り始めていた。
雨はちょっと弱めになった。青々とした並木に枝から滴るひと雫はぱたっと若葉を軽く叩きつける。夏帆は少し喘ぎながら一歩一歩を歩き出した。
学舎に着いたのは15分後だった。教室は105の階段教室である。夏帆は後ろの脇に寄る席に拘っている。人の行き来に従って膝を動くのもめんどくさそうに思っている、あんまり前に座ると、先生との直接に目で会うのもちょっと恥ずかしい。雨の原因か、今日は平常より人が少ない。
夏帆はいつも通りの席で鞄を下ろした。ジッパーを引いてちょっと折り目のあったノートを取り出す、空白のページを探し始める。
「ねぇ、昨日の試合見たの?」
背後から言葉が耳を尖っていた。
「トムさんのあのリバーのブラフオールイン、本当に素晴らしかったわぁ!」
話しの受け手が自分ではないということを彼が察知した。
「そうそう、俺まで鳥肌立った!」と、男性の声が丸々聞こえた。
「ふふふ、ところでみきさん...」
一旦落ち着いて息が戻ったら、夏帆はちょっと汗かく気分になる。
「授業が始まりますよ!席に戻ってください」田中教授が、 えへんと咳払いして、「今日はですね、囚人のジレンマやナッシュ均衡についてちょっと触れたい......」
***
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