第3話
ローズマリーが足を止めて「お願い?」と、小首を傾げた。
廊下の窓から差し込む月明かりは頼りないが、そばにいるカノンが彼女の顔を見るには充分だった。そしてご令嬢の冷ややかな眼差しに挫けそうになる自分を奮い立たせる。
「明日の午前中にどこか一時間、いえ、三十分でもかまいません。私にお嬢様の時間をくださりませんか」
「演奏する前にってことよね」
「そのとおりです」
「なぜ?」
「……お話がしたいのです。えっと、つまり演奏をお嬢様にとってよりよいものにするために」
カノンのお願いに今度は目をぱちぱちっとさせ不思議がるローズマリーだった。それから「ああ、そういうこと」と得心する。
「事前に、私が好む曲を聞いておきたいのね。いい心がけだわ。少なくともあのイルヴィオン弾きとは違う」
「というと、もしかして例の領内一の?」
「そう。忙しくしている彼を急に呼び出しておいて、こう言うのはあれだけれど……驕り、高ぶった態度にうんざりしたの」
そのイルヴィオン弾きは平民であるが、クライスラ家の長男と親交がある人だという。その繋がりがあったからこそ、公演の合間を縫って、この別荘地を訪ねてきてくれたらしい。
「おもねるのがいいって話ではないわ。けれど彼ね、自分の演奏で感動しない者がいるとしたら、それは教養がない人間もしくは獣だなんて言ったの」
「えっ。音楽を聞くのに教養がいるんですか。それに鳥たちは聞いてくれましたよ」
「鳥?」
ローズマリーの綺麗な瞳にまじまじと見つめられて、カノンは顔が熱くなった。おかしなことを口走ってしまったかもしれない。
「は、はい。晴れた日には外で弾くことも多くて。師匠が、狭い家の中だけでずっと音を響かせていたら、届けられない世界を作り上げてしまうからと」
「それで?」
「弾いていると自然と鳥たちが集まってきたんです。あ、本当に私の演奏目当てだったかは定かでないですが」
「興味深いわね」
初めてカノンの前でローズマリーが微笑む。月のように美しいそれにたじろぐカノンをよそに、ご令嬢は話を続けた。
「私もね、彼に言ったの。たとえば何も知らない子供でも聴き入るような音楽のほうが優れていると言えませんかと。そうしたら『市井に広く流行る曲が最高とは限りません』って。一理あるけれど、ずれた答えよね」
微笑みは去り、代わりに溜息が加わった。
その憂いげな吐息にすらカノンは品位を感じる。
「さっきのお願い、受け入れるわ」
「え?」
「なぜ驚くの。あなたの申し出は納得できて私にとって良いことよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
勢いよく頭を下げるカノン、その髪にローズマリーが手を伸ばしてそっと触れる。びくっと体を震わせたカノンはおそるおそる顔を上げた。
「もったいないわね」
今度はカノンが首を傾げる番だった。
「黒鍵のように綺麗な髪。でも手触りはまだまだ。ねぇ、洗髪剤を使ったことは?」
「いいえ……」
夜に溶け込む自分の髪と、目の前にいるご令嬢の金色に輝く髪を改めて比べて恥ずかしく感じた。そんなカノンにローズマリーは優しげに囁く。
「身なりが整えば音も整う……なんてね。もしあなたが私の要望に沿う気があるなら明日の朝食後に手配をするわ」
「手配?何をですか」
「一通りの調髪の用意を。それから髪だけでなくて、ドレスもいるわね。よく見れば可愛らしい顔をしているもの。華美でなくてもいいけれど、多少なりとも着飾った姿で演奏してほしいわ」
――でも音楽は耳で楽しむものです。
カノンの喉元まで出かかったその言葉を内へと押し込んだのはローズマリーの「嫌かしら」という台詞だった。無表情で放たれたそれに、カノンは焦りながら「まさか! よ、よろしくお願いします」とまた頭を下げた。
そうして二人はまた歩きはじめた。やがてローズマリーの私室の前にたどり着く。
「おやすみなさい、カノン」
その挨拶に返事をする前に、扉は閉じられた。静まり返った廊下を一人で歩くカノンの心臓はやけにうるさかった。
翌朝、がらんとした食堂にて朝食を終えたカノンは、眼鏡をかけた細身のメイドに声をかけられて浴室へと案内された。
水源豊かなノーヴェスコア大公国では、国教の中で身体を清潔に保つべきと説かれている事実も相まって、入浴は古くから国民に浸透している文化であり日常的な習慣だ。石鹸も安価なものから高級なものまで国内に広く流通している。
そして小さな農村にいたカノンであっても最寄りの河川や井戸の水などで身体を頻繁に洗っていた。ただ、香油の入った洗髪剤というのは本の中でしか知らない。
磨き上げられた大きな鏡のある脱衣所にて、メイドから裸になるように言われてたカノンは髪だけではないのかとぎょっとした。
けれどここまできて拒むのはご令嬢に失礼だと覚悟を決めて脱いだ。
これまでの人生でニコラ以外に素肌を晒した経験などまるでなかった。
その四十過ぎのメイドは余計なおしゃべりを一切せずに、浴室にてカノンの全身を隅々まで洗い始めた。
それが終わると脱衣所に戻ってタオルで水気をとり、薄手のバスローブを着せられたかと思えば、簡易ベッドに横になるよう言われ、あれよあれよと従うカノンだった。
寝転がった状態で頭髪だけが桶に入れられ、粘り気のある液体を塗り込まれる。メイドが指でほぐしてその洗髪剤が馴染んだのを確かめると、ぬるま湯で軽く洗い流した。
髪が乾くと次は別の部屋へと案内された。
そこでローズマリーが待っており、また格好は黒衣に戻っている。
「あとは私がするから、いいわ」
そう言って使用人を下がらせた彼女は、カノンの着る服を選び始めた。
「あなたは運がいいわ。十五歳の私がこの別荘で長い時間を過ごしていなかったら、合う服はなかったもの」
かつてローズマリーが着ていた服を着させてもらえるようだ。だが、カノンの知っている古着とはまったく異なる。見るからに上等な衣装たちに気後れした。
その反対にローズマリーはいそいそとしている。
「な、なんだか楽しそうですね」
「ええ。周りにいるのがすっかり大人だから、同年代の子と会うのが久しぶりなの。それでつい、ね。自分でも饒舌になっていると感じるわ」
ベールに覆われていない口許がほころぶのがわかる。
カノンは、ご令嬢が喪服姿だというのに自分が着飾るのは恐れ多くあったが、他でもなくご令嬢本人からの提案だから甘んじて受け入れようと決めた。
二人して姿見の前に立ち、ローズマリーが服を選びつつ、演奏してほしい曲について話を始めた。まず彼女はいくつか挙げたが、それらは皆、ニコラ曰く大公国のイルヴィオン史に残る名曲であり、カノンはどれも暗譜していた。
「そう。ちなみにピアノとの合奏経験はどうかしら」
「少しだけ。村の教会に古いピアノがあるのですが、ご高齢のシスターと何度かいっしょに演奏しました」
カノンは正直に答えた。
「それなら、私の伴奏相手にもなってもらうかもしれないわね。あなたは大忙しというわけでないでしょう?」
「はい。私は…………ローズマリー様のために演奏しに来たので」
あなたの気分を晴らすため、とは言えなかった。カノンはベールの向こう側に秘められた眼差しを確かめたい衝動に駆られる。
今この瞬間は楽しげであろうと、独りになったときに故人を偲び続けているなら、それをどう癒したらいいのか。それは自分のイルヴィオンで可能なのか……。
「難しい顔をしているわね。こういったドレスを前に心踊りはしない?」
「え? ええと、その……こういったお召し物を着ている女性をあまり見た経験がなく、ましてや自分で着るのは想像できません」
どれもくるぶしを覆う丈があり、歩きにくそうだった。スカート部分に植物柄や幾何学模様の意匠が施されているものもある。
色合いも様々で、十五歳のローズマリーが時と場所に応じて、どんなふうに着こなしていたのかカノンにはさっぱりだった。
ただ、どれを着ていても人目を惹きつける美しい少女だったと信じられる。
「そんなに熱心に見つめられたのも久しぶりだわ。まさか私にもこうしたドレスを着て欲しいのかしら」
「いえっ、あのっ」
ドレスよりもついついローズマリー自身に見入っていたカノンだった。
「落ち着きなさい」
ローズマリーは左手をカノンに肩に置き、そして右手で髪を撫でた。
「見立てどおり素敵な髪。この服に見劣りしない艶やかな黒ね。着替えが終わったら、綺麗に結わないと。そっちは慣れていないから人に任せることにするわ」
落ち着けと命じておいて心をかき乱す言動ばかりするのは意地悪なのか、いいや、そうではないはず。カノンはご令嬢の真意を汲み取ろうと努める。
だが、その瞳の奥を覗き込めば魂ごと吸い込まれる心地がして、考えをまとめるなど不可能だ。
それでもなんとか、やっとのことで空気を震わせる。
「私は……ローズマリー様の心を知りたいのです」
カノンが形にしたのは本心であった。眉をひそめたローズマリーの手がカノンの髪から、そして肩からも離れる。
「私の心?」
「ローズマリー様の好きな曲だけではなく、胸の内に抱えるものを知れば、もっといい演奏ができると思うのです」
ローズマリーは「そう」と短く返してから、姿見の脇に置かれた椅子にすとんと腰を下ろした。ベールに隠れた瞳がどんな色を帯びているのかわからない。
「それはニコラ・パッガーニの教え?」
カノンが静かに首を横に振ると、ローズマリーは「でしょうね」と呟いた。
「つまり聞き手の心を知れば演奏が変わる、とうことよね。面白い発想。……でも、それだけよ」
立ち尽くすカノンを仰いで発せられた声はひどく冷たい。
なのに――――。
「カノン」
「は、はい」
「私が洗いざらい話したくなるような演奏をしてみなさい」
そう口にしたローズマリーの顔には期待と哀しさがあった。
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