第4話
若草色を基調とし、金糸雀の羽色をした花々があしらわれたドレスをカノンは纏った。サイズに合うものの中で唯一、肩を晒してる品であり、ローズマリー曰くそれは誰かからの贈り物で一度しか着ていないという。
カノンは、そのドレスが自分の体にかなりしっくりときたので、その贈り主は当時のご令嬢の体格を曖昧にしか知らない人だったのではと邪推した。
「よく似合っているわ。妖精みたい」
「……ありがとうございます」
鏡の中の少女はまるで別人のようで、自分だという実感がカノンは湧かない。それに、妖精と言われて思い描いたのは、有名なおとぎ話に出てくるいたずら好きの妖精だった。
なるほど、もしかするとこの鏡に映った姿は、妖精が現実を捻じ曲げて見せているのかもしれない、そんなことを半ば本気で考えた。しかし顔の部分を確かめれば、そこには慣れない装いに不安げな面持ちをしている自分そのものがいた。
ノーヴェスコア大公国において、顔への化粧は男女ともにごくわずかな場に限られている。すなわち、舞台に立つ役者か宗教的儀式といった場合のみだ。これは国教が大きく影響している。
前者では素顔を人前で隠すのはそれ相応の理由がある人間であり、邪な気を呼び込むと説かれているのだ。
とはいえ、上流階級の社交場においては女性がその顔に下品にならない程度に手を加えるのはもはや暗黙の了解となっていた。
カノンはふと鏡越しにご令嬢を見やって、その優しげな微笑みに、つい数分前のことこそ幻想だったと錯覚しかけた。
だが、まぎれもない現実だ。ローズマリーの心中を知りたがったカノンに、彼女はその気にさせる演奏をしなさいと命じたのだ。無論、そう言われてしまっては反論の余地はなく、尽力する他ないカノンであった。
「あとはメイドに髪を結ってもらうわ」
そう言って離れていくご令嬢の背を目で追っていくと、彼女が出入り口の扉に手をかける前に、ノックの音がした。
そしてご令嬢に入室を求めるその男声には聞き覚えがある。ご令嬢が了承し、扉が開くと果たしてそこにいたのは老執事であったが、その表情は硬い。
老執事に何か耳打ちされたローズマリーは「そう」と言って、共に部屋を出て行く。カノンがそのまましばらく突っ立ているとまたノックの音がして「カノン様、入りますね」とメイドが言って中に入ってきた。
仕事の少なさに退屈を訴えていたメイドだった。カノンの髪をご令嬢から任され、目をきらきらとさせて「ささ、こちらに」とカノンをドレッサーの前へと導く。
「何かあったのですか。お客様でも訪ねて来られたり……?」
「そうなのよ。しかもここだけの話、招かざる客なの」
そのふくよかな体型のメイドは気さくに話す。カノンとしては変にかしこまっているよりも、こちらのほうがありがたい。訛りはないが、雰囲気は村にいた五児の母親とよく似ていた。
「招かざる客?」
「遠方に領地を持つ、さる侯爵のご令息なの。女癖が悪いせいで過去に婚約が一度おじゃんになっているらしいわ。あ、お嬢様とは無関係なところでよ、もちろん」
彼とローズマリーの接点は、亡くなった婚約者の父親である伯爵がその領地で開催した音楽会だそうだ。
音楽会と言っても出席者の大半が貴族で後は平民議員や名のある商家だ。ようは社交パーティーの趣が強い。
ローズマリーはそこにお呼ばれして婚約者と合奏を披露したが、例の侯爵子息もまたイルヴィオンを嗜んでいるようで招待されていたのだとか。
「それぐらいしか知らないんだけどねぇ。まぁ、どこの誰であろうとお嬢様に一目惚れしたっておかしくないわよ」
「ええと、つまりその方は婚約者を亡くして一年が経過したローズマリー様に言い寄りに来たってことですか」
「まっ! カノン様ったら、そんな言い方をしてはなりませんよ」
「す、すいません」
「もしも本人に聞かれでもしたら……言いくるめられて愛人にでもされてしまうかもね。あなた、こんなに可愛らしいんだから」
「まさか。そんなの困ります」
「おや、正妻を狙っておいでで?」
「ええっ!? ないです、ないです。無理ですよ、そんなの」
「冗談、冗談。さぁ、こんなものかね」
気がつけばメイドはカノンの調髪を終えていた。編み込まれた髪に合う髪飾りを彼女がいくつか提案してきたが、カノンには良し悪しがわからず全部任せようとした。
「あ……」
けれど候補として示されたうちの一つが目を引いた。
「これがいいのかい。うん、似合うと思うよ。つけてみるね」
金属製の小さな花の髪飾り。
その金色の輝きはローズマリーの髪を想起させた。それゆえに惹かれた一方で疑問も生じた。これをご令嬢がつけるとしたら、その髪色からすると目立たなすぎるのではないかと。もしかするとこれまたあまり親しくないであろう、誰かからの贈り物なのだろうか。
支度を済ませたカノンは、一度部屋へと戻ってイルヴィオンケースを抱えると所定の場所へと向かった。前もって教えられていた一階のある音楽室だ。
部屋の前まで行くと、そこにいた使用人が室内に到着を伝えて扉を開いてくれた。
まず目に入ったのは黒いグランドピアノ。村の教会にある古ぼけたものと違って、近寄りがたい威圧感をじんわりと漂わせている。閉じられた屋根は決してこちらに気を許しはしないというサインのように思えた。
その大きな楽器から視線を逸らすと、広い室内の中央、ローズマリーと見知らぬ若い男性が向き合っているのが見えた。
いくつか椅子が壁際に寄せられているが、二人は立って話している。
二十代前半と思しきその男性は白シャツに濃紺のウエストコート、下はタイトなズボンを履いていて、すらりとした長身だった。茶と金の中間のような色の髪をしており、彫りの深い中性的な印象を受ける顔立ち。
彼がその淡褐色の瞳でカノンを捉える。
「やあ。君が今日これからローズマリーのために演奏することになっている、イルヴィオン弾きかい?」
「そ、そうです。カノンです」
軽妙で朗らかな声に、正式な礼法など身につけていないカノンは直立したまま応じた。するとローズマリーが「こっちにいらっしゃい」と言ってきたので、ぴんっと弾かれたように彼女の側へと歩み寄る。
「初めましてだよね。君みたいな綺麗な子、前に会っていたら忘れないだろうから。僕はレオンツォ・ブナグール。ブナグール侯爵の不出来な三男坊さ」
「えっと……」
「レオンツォ様、そのように自嘲されるのはどうかおやめください」
「偉ぶるよりはましだろう? それで君は普段どこで弾いているんだい」
「カノンは公の場での演奏経験はありません。そうよね?」
「はい、お恥ずかしながら……」
「え? もしかして行きつけのレストランやカフェで演奏していたのを引っ張ってきた、みたいな話なのかい」
「いいえ。とある有名なイルヴィオン弾きの秘蔵っ子なのですわ。おっと、詮索はおよしになって。先入観抜きで聞いていただきたいので」
ローズマリーの口ぶりから察するに彼女のみならずこの男性の前で演奏しなければならないようだった。
もしやご令嬢と親しくなるために訪問したのではなく、ご令嬢からお呼びになったのだろうか。カノンが置かれている状況を十分にのみ込めずにいると、レオンツォは「うーん……」と宙を仰いで唸った。どことなく芝居がかっている。
「カノン。ここは一旦、僕に演奏の機会を譲ってくれないか」
「え――――?」
「実を言うとあまり時間がないんだ。いや、親愛なるローズマリー嬢のためになら時間は惜しまないけれど……僕のお父様たちはこういった突発的で衝動的な行動を良く思わない人たちでね。いきなりの来訪だというのに、屋敷内に入れてもらって感謝しているよ、本当に」
さも心苦しそうに話す彼にローズマリーは無表情で呆れた。
子爵や男爵の子息ならともかく、同等の爵位の家名を背負う人間をおいそれと門前払いできはしない。しかも体裁としては、婚約者に先立たれて心身の健康を崩しているところに見舞いにきたというものだ。
なお、この一年間でレオンツォがローズマリーの前に顔を出すのは今日が初めてである。手紙の一通もなかったことから、領地間の距離だけが理由ではないだろう。
レオンツォは最小限の従者と共にブナグール領から片道五日かけてここへと来た。ローズマリーは彼について昔、女癖の悪さ以外に放浪癖があるという噂も耳にしていた。
この訪問も自由気ままな旅のついで、彼なりの遊びに過ぎないと睨んでいる。
明朗な声に戻って彼が話を進める。
「さっきも言ったとおり、僕は君のためにイルヴィオンを弾きにきたんだよ、ローズマリー。小耳に挟んだ話では、このクライスラ領では君を満足させる演奏者に出会えなかったとか」
「そう何人も招待しておりませんわ。所詮、私は十八の小娘です。遠方からはるばるレオンツォ様に来ていただいて、演奏を聞かせてもらうに値しません」
「ふふ。自嘲はよせと人に言っておきながら、平然とそんなことを言うなんてね。充分にレディの風格じゃないか。まぁ、一つ聞いてくれたまえよ」
そう言うと、レオンツォは部屋の片隅に置いていたイルヴィオンケースを取りに行く。カノンが今まさに抱きしめているケースよりもやや大きく角張った形状だ。
「悪いわね。でも後からあなたの演奏もきちんと聞くわ」
レオンツォに聞こえない密やかな声でそう謝るローズマリーにカノンがどう返したらいいかまごついているうちに演奏の準備が早くも整ったらしかった。
室内に両家の使用人はいないので、カノンは慌ててまずご令嬢の分の席を用意し、その後で自分の席を少し距離を空けて設置した。
レオンツォは座るカノンたちから目測で七歩分ほど離れたところに立つ。その傍らに譜面台はない。自信に満ちた笑み、そして優雅にお辞儀をして彼がイルヴィオンを構えた。
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