第2話

 魔女との取引によって超絶技巧を得たイルヴィオン弾き。

 カノンの育て親かつ師匠であるニコラはかつてそう呼ばれていた。

 たしかにノーヴェスコア大公国のおとぎ話の中には魔女の力を手にする演奏家の話がある。とはいえ、演奏されるのは打楽器であったり管楽器であったりもするので、イルヴィオンに特定されない。

 いずれにせよ、ニコラの腕前が超常的で周囲を驚かせていたのには違いない。

 そんな彼女の出自はパッガーニ子爵家の次女であるが、二十代の終わりに義絶を言い渡されており、それ以降は社交を避けて、ひたすらに公演を繰り返してたという。


 それから十数年後に音楽界から突如消えたニコラについては、魔女そのものであった説や冥府に連れ去られた説などがまことしやかに噂された。そして、音楽の流行が移り変わる中で大多数の音楽家同様に忘却の一途を辿っているのであった。


 こうしたことをカノンは、ローズマリー嬢のいるクライスラ侯爵家所有の別荘へと向かう道中で老執事から聞いたのであった。

 無論、ニコラが魔女が如く音色を響かせるイルヴィオン弾きであっても魔女でないことはカノンがよく承知していた。


「ローズマリー様は、師匠の演奏について詳しいのですか」


 そうカノンが問いかけたのは夕食の席であり、相手は老執事であった。


 ご令嬢が早々と去った応接室に残された後、寝泊まりするのに貸し与えられた部屋に移動して休憩を挟み、夕食となったのだ。

 シミひとつない真っ白なクロスの敷かれた細長いテーブルについたのはカノンだけで、ご令嬢の姿はなかった。私室で食事をとるらしい。


「書物の中でしか知らないはずですが……作者によっては甚だ誇張して書くものですからね。ひょっとするとお嬢様はニコラ様を魔女と信じているやもしれないですな」


 料理の感想をうかがいにやってきた老執事であったが、カノンの質問に生真面目に応じた。


「なるほど……。想像力が膨らんで怪物を頭の中に生み出すこともありますよね」

「ふむ。なかなかに含蓄のある言葉ですな」

「いえ、大した話ではないのですが……」


 十一歳の誕生日にニコラはカノンに数冊の本を贈った。文字の読み書きは教会で基本を習った後、ニコラが毎日のように課題を出してくれていた。

 それらの本のうちで妖精が出てくる物語があり、当時のカノンは妖精の外見や特性の描写が上手く読み取れず、話が進んでいくうちに混乱してしまった。

 それでニコラに教えてもらおうとしたものの、一部の語彙は彼女も馴染みがなく、二人して教会にある辞書を調べに行ったという過去がある。


「音楽って良くも悪くも文字とは違いますよね。いつの日か、本のように記録できるようになって誰もがいつでも聞ける世界がくるのでしょうか」

「しかしそうなると、演奏会に足を運ぶ人が少なくなるかもしれませんな」

「たしかに」


 食後にカノンは、ローズマリー嬢と今から会って話せるかどうかを老執事に尋ねた。

 

 演奏はカノンの旅の疲れを考慮して明日の午後と予定されているが、それまでにもっとご令嬢自身について知りたかったのだ。師匠からは、聴き手というのを一個人に限定した演奏法なんてのは教わっていない。そもそも、そんなのがあるかどうか怪しい。


 けれど、とカノンは思案した。

 この一件に関しては、ただ自由気ままに演奏するのが最善だと思えない。ご令嬢がどんなふうに婚約者の死を悼んでいるのか、その心中をほんのわずかでも垣間見て、奥深くに触れられたら、とカノンは望んでいる。


 しかし老執事は「難しいですな」と答えた。

 本家から別荘に移って以降のご令嬢は口数が大変少なく、つい先月まで使用人はおろか、訪ねてきた家族や友人ともろくに話さなかったそうなのだ。今も決して多いとは言い難い。


「夕食後から就寝までの時間は、ピアノを弾くか、読書や詩作に耽っているかがほとんどだと聞いております」


 ご令嬢がピアノを嗜んでいるのはカノンも道中で既に聞いていた。

 亡くなった婚約者は、趣味としてイルヴィオンを弾いており、月に一度か二度の頻度であった両者の交流には合奏が必ずと言っていいほどあったという。


 ご令嬢本人との接触を一旦諦めたカノンは、老執事の許可をとって他の使用人からの聞き込みをしてみることにした。


 一時間後。

 成果は芳しくなかった。

 わかったことは大きく分けて二つ。


 一つ目はどうやら例の老執事も含めて、ローズマリー嬢個人に長らく仕えてきた人間はいないこと。本家にいた頃の、彼女の側仕えや侍女に該当する人物はここにはいないことが判明したのだ。 

 その経緯を知る者はおらず、また無闇にご令嬢の噂を話す人もいなかった。


 二つ目は合奏相手について。五歳上の婚約者以外にもう一人いたということ。とはいえ、意外でもなんでもない人物で、婚約者の妹だった。彼女もまたローズマリー嬢と親交があったと使用人の一人から聞いたのだった。


 ちなみに使用人の年齢層は、全員が三十を過ぎており、テキパキと仕事をこなしていた。カノンが唯一聞けた不満というのは、業務が少なくて退屈というものであった。





 覚束ない足取りで窓際まで移動したカノンがカーテンを少しだけ開く。

 瞬間、月明かりが彼女がいる部屋へと射し込んだ。カノンはそれを頼りに壁にかかっている丸い時計で時刻を読む。午前十一時過ぎだ。

 部屋へ戻り、ベッドに横たわってからまだ二時間しか経過していなかった。


 与えられたのは二階にある一室。

 室内にある高級な調度品の一つ一つが、この場所が自分に不相応であるのを証明しているみたいにカノンは感じた。

 落ち着かない。ふかふかのベッドに寝転がった時は快眠を保証された気さえしていたのに、目を覚ましてしまった。


 カノンはぼんやりと月を仰ぎ見る。

 村を出発する前夜に目にしたそれは半分余りが欠けていたが、今見えているのは満月に限りなく近い。


 視線を徐々に下ろしていくと、そこに庭があった。使用人によると、本家の立派な中庭からしてみればささやかで慎ましい庭だそうだが、カノンたちの家が優に入る広さの芝生だ。


 ――――月光を浴びながら弾いたら、インスピレーションを得られるかもしれない。 

 

 村にいた頃、真夏の夜に師匠と月下で弾いた記憶が鮮明に蘇った。試してみる価値はある。


 もしも誰かを起こしたらどうするんだと自制心がカノンを引き止めようとしたが、好奇心が勝った。ネグリジェ姿で外を出歩くのは寒いと考え、クローゼットにかけられている薄い水色のガウンを借りて羽織る。そしてイルヴィオンケースを抱きかかえて部屋を出た。


 幸いにもカノンは誰にも会わずに一階へと降りられた。窓から注ぐ月明かりが階段を照らし出していたのが救いだった。廊下に並んだ大きな両開き窓のうちの一つへ近寄り、留め具を外して開くと、そっと外へと抜け出す。


 庭まで来るとカノンは履き物を脱いで、芝生を足の裏で感じた。ひんやりとしている。

 そしてイルヴィオンを取り出し、ガウンを羽織ったままで構えた。


 なるべく静かなゆったりとした曲、繊細なボウイングこそが必要で大胆さをそこまで要求しない曲。暗譜している中でそれに合うものを探して、はたと気づく。

 月の光をモチーフにした曲があると。うってつけの曲だ、そう思った時には手が動き、弓が弦に触れていた。


 伸び伸びと音が月下に舞って旋律を成していく様をカノンは楽しむ。

 ローズマリーと対面してから身体を支配していた妙な強張りがとれていく感じがしたのだった。


 三楽章構成を持つその曲が第二楽章の終わりに、つまりカノンにとって特に弾きがいのある箇所へと差し掛かった時、彼女の耳はイルヴィオンとは別の音を拾った。

 それだけなら演奏を止めることはない。しかし軽く閉じていた目をしかと開き、前方にその人物の姿を捉えたとき、弓が手から滑り落ちそうになる。


「なぜやめてしまうの」


 そう言われてカノンは背筋が凍りついた。

 一歩、また一歩と近づいてくるその白いシュミーズドレスを着た女性は、ローズマリーだった。

 

 黒衣から一転して、月光浴に興じる白百合の出で立ち。その赤みを帯びた金色の髪を覚えていなければ、彼女がご令嬢だと判断できなかっただろうか。

 いいや、できただろうとカノンは思う。

 全身から漂う気品はカノンがイメージしている貴族令嬢そのものであり、それに何よりその声は応接室で聞いたものと同一だから。


「も、申し訳ございません!」

「本当よ」


 慌てて謝るカノンのそばまで来たローズマリーが深い溜息をつく。

 逆にカノンは、初めて間近で目にするご令嬢の顔の全体に息を呑んだ。

 目鼻口の位置と数はカノンと違わないと言うのに、それらの調和、作り出されている美に圧倒されてしまう。村の教会にあった薄汚れた女神像よりもよほど女神らしい。


「あの子が迎えに来たのかと思ったわ」

「え?」

「なんでもない。はぁ……窓から抜け出したなんていつぶりかしら。ねぇ、部屋まで送ってくれる? それともここでまだ弾くつもりかしら」


 ぶんぶんっとカノンは首を横に振る。演奏を中断したことを非難するような声をかけてきたご令嬢であったが、今や演奏を続けることを望んでいない様子だった。


「あの、えっと、魔女ではありませんから」


 靴を履き、屋敷内に入り直して、ローズマリーの隣を歩き始めたカノンが深い夜の沈黙に耐えかねて言う。


「師匠の、ニコラのことです。私の……育ての親でもあるんです」

「そう」


 脈絡のないカノンの話にご令嬢が寄越したのは、つんとした短い返答。


 そしてまた否応無く沈黙に包まれる。階段を上がり切る頃には、カノンはご令嬢の隣というよりも半歩後ろを追いかける形となっていた。

 このままではいつ、ここまででいいから戻りなさいと命じられてもおかしくない。カノンは意を決して再びご令嬢の隣につくと声をかけた。


「ローズマリー様、お願いがあります」

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