弦奏恋路譚〜侯爵令嬢に捧げるカプリース〜

よなが

第1話

 亡き婚約者を偲んで塞ぎこみ、別荘に引き籠もっている侯爵令嬢がいるという。


 彼女の気持ちを晴らすために演奏する。

 カノンがその役目を引き受けたのは、ノーヴェスコア大公国に夏季が訪れてすぐの頃だった。

 

 侯爵領の北端にある、小さな農村でカノンは二人暮らしをしていた。

 家主は七十手前の女性で、六歳で孤児となったカノンを引き取って以来、早十年が経とうとしている。名をニコラと言い、かつては貴族の身であったのをカノンはそれとなく察していた。そして国内屈指のイルヴィオン弾きであったことも。


 イルヴィオン、それはこの大公国に起源を持つ弦楽器だ。

 顎と肩とで挟んで固定し、弓と弦、そして指を使って旋律を紡ぐ。国内の伝統的な音楽を奏でる上で欠かせない楽器の一つである。また他の弦楽器と比較すると無伴奏曲が好まれる傾向があった。

 ようするにイルヴィオンは大公国の音楽界で特別視されている楽器なのだ。


 四十歳になる前に表舞台を去ったニコラが二十年近くを経て、一人の少女にイルヴィオンの弾き方を教える気になった理由は本人さえもよくわかっていない。

 カノンはいわゆる神童ではなかった。しかし妙に惹かれる音を出す。そう感じた時には、母親ではなく師匠という立場を選んでいたのである。


 事の発端は、侯爵家に仕える老執事がカノンたちの家を訪れたことだ。


 昼下がりの穏やかな微睡みの中にいたニコラを規則正しいノックの音が起こした。カノンは教会の手伝いから帰ってきたばかりで、後ろで一つに束ねていた黒髪を下ろしたところだった。


「つい一週間前のことです。お嬢様がおっしゃいました。イルヴィオンが聴きたい、それもとびっきり上等な演奏が、と」


 カノンたちの小さな家、その食卓でニコラと向かい合わせに座った老執事がそう話した。話し合いをするのに他に手頃なスペースがなく、椅子も二つしかなかったので、カノンはニコラの傍らに立ち成り行きを見守っていた。


 クライスラ侯爵の末女にあたる十八歳のローズマリー・クライスラ嬢が、婚約者に先立たれてこの一年間、喪に服していたのをカノンたちは知らなかった。

 中規模以上の町ならともかく、村にはそうした情報は入ってこない。


「解せないねぇ。それでどうしてあたしの居場所を突き止め、土産まで持ってきたってんだ。今はもう演奏家を名乗っていない老いぼれでしかないよ」


 ニコラがそう言って、老執事から貰った木苺のジャムの瓶を手の中で転がすのをカノンは訝しんだ。

 師匠の演奏が錆びついているどころか、自分にとって遥か遠い、深淵なる領域にあるのをカノンは理解している。長時間の演奏に耐えられずとも、彼女が今なお凄腕のイルヴィオン弾きであると信じているのだ。

 そしてこのことはどうやら老執事も同じであった。ただし、少女にはない思い出を彼は持っていた。


 聞くところによれば、およそ五十年前に彼は現侯爵夫人に同行してニコラの演奏を聴いたという。それがどんなに素晴らしかったかを遠い目をして話すのだった。

 ニコラを訪ねたのは、ローズマリー嬢の意思ではなく彼個人の判断であるそうで、動機はその美しい思い出なのだ。


「実は……まずは領内一と謳われるイルヴィオン弾きに依頼し、演奏してもらったのです。しかし、お嬢様はあまりいい顔をされなかった。そしてそれが悪いふうに広まってしまい、領内のイルヴィオン弾きは皆、敬遠しているのです」


 カノンは、ご令嬢がいい顔しなかったというのはどういう意味なのかを考えてみた。それは遠回しな言い方で、その演奏家と一悶着ありでもしたのだろうか。

 そうでなければ悪評が広まり、イルヴィオン弾きがこぞって演奏したがらない結果に繋がらないのでは。


 老執事の話に、ニコラはくすんだ金髪をかきあげて溜息をついた。

 そして脇にいるカノンを見やって言う。


「カノン、あんたが行ってやりな」

「……えっ?」


 ニコラの指示にカノンは愕然とした。

 

 師匠からこれまで褒められた試しなど一度あったかどうかだ。まだまだ師匠から学ぶべきことがあり、一端のイルヴィオン弾きであると胸は張れない。

 それにもかかわらず、領内一の演奏家に満足しなかった令嬢の前に立つなど身の程知らずではないか。


 動揺したのは老執事もである。

 彼の調べでは、ニコラに弟子がいるという話はなかった。少なくとも自称する音楽家がどこかの楽団に所属していたり、コンクールに出場したりという情報は聞き及んでいない。


 カノンの姿、襟付きの白いブラウスに青いスカート、汚れていない履き物からすると、たしかに田舎の村娘にしては品のある風貌で顔立ちも整っている。

 目鼻の造形と、黒髪からニコラの血縁者でないのは間違いないだろうが、愛情を注がれているのは老執事からも見て取れた。

 もちろん、だからと言って優れたイルヴィオン弾きとは限らない。


「二人とも、そんな顔するんじゃないよ」


 食卓を指でトントントンと鳴らしたニコラが苦笑する。


「執事さんよ、この子を連れて行くかどうか決めるのは演奏を聞いてからでも遅くないだろう? そしてカノン……あんたは弾かずに諦めるのかい? あたしはそんな腑抜けに弾き方を教えていたってのかい。泣けるねぇ」


 師匠の挑発的な物言いは今に始まったことではない。他でもなく師匠に似て負けん気の強いカノンは、何もしないうちから諦めるのはいけないと思い直した。ここにいる老執事一人、唸らせられないようでは傷心中のご令嬢の心に響く演奏など無理だろう。


 そうだ、弾いてみよう。

 カノンはそう意気込み、さっそく部屋の奥にイルヴィオンケースを取りに行き、戻ってくると老執事に尋ねた。


「聞きたい曲はありますか」


 音楽に精通してはいない老執事は、カノンの力量を確かめるのにどんな曲が適切かわからなかった。

 ゆえに、彼は彼自身の中で最上の音楽を形作っている曲を選ぶ。すなわち、五十年前に聞いた、ニコラが演奏した中でもっとも記憶にある一曲だ。


 肩にかかる長さの髪を再び結い、イルヴィオンを構えたそのとき、カノンは緊張をまったく感じていなかった。


 老執事が指定した曲というのが、大公国の音楽史に燦然と輝く音楽家の作曲した無伴奏イルヴィオンソナタ集のうちで、カノンの一番のお気に入りで自信がある曲だったから――――というのは理由の半分でしかない。


 もう半分はカノン自身にもうまく言葉にできない。かつて表舞台に立っていた頃に師匠が大勢の前で披露したものである事実はカノンにとって重圧となるはずだ。

 しかし、そうはならなかった。カノンはこの不思議を心地よく受け入れた


 師匠がいつか口にしていた言葉をカノンは思い出す。

 

 ――――時として、膨大な時間を費やしてきた鍛錬に裏付けされる技術よりも、不意に湧き上がってその身を焦がすインスピレーションが至高の旋律へと奏者を導く。


 突き動かされるままに弾き始めて、弾き終わる。


 すべての音が点ではなく線として繋がり、さらに面を成し、そこで終わらず、より高次な旋律を構築する感覚をカノンは味わった。


「どうだい?」


 消えゆく余韻、静寂を破ったのはニコラであった。

 

 演奏中は意識の外にあった師匠の顔をカノンは見て、目を疑った。ニコラは得意げだった。どこか誇らしげでさえある。

 認められた。カノンは胸が熱くなった


 やがて老執事が拍手をし始める。たった一人の喝采は部屋を満たした。


「ニコラ様が推すのも納得がいきました。ぜひともお嬢様のために演奏していただきたい。いつ頃なら出発できますかな。馬車でお迎えにあがりましょう」


 興奮した様子で訊いてくる老執事にカノンはどう答えていいか戸惑っていたが、ニコラに「明日の朝一番に。それでいいね?」と言われて反射的に肯いた。





 旅立ちの朝には申し分ない。

 カノンは馬車の窓から見える景色、日が昇りきっていない時間帯の朝靄に浮かぶ、遠ざかっていく故郷を目に焼き付けていた。


 昨夜、ニコラは「結果がどうであれ、一度帰ってきな」と言った。

 その「一度」というのがカノンは気になった。ローズマリー嬢のために演奏し、その反応しだいでは外の世界で生きることになるかもしれない。

 村の外とりわけ自分と師匠以外のイルヴィオン弾きが集まる場がどんなふうであるのかは前々から関心があった。衣服や食べ物の流行りはどうでもよくても、自分の知らない音楽が日々、通りを流れている、人々の耳に届いているのを想像するとそれらを聞き、自分も奏でたいと思っていたのだ。


 二日後の夕方、カノンたちはローズマリー嬢のいる、クライスラ侯爵家の別荘の一つに到着した。

 広々とした応接室に案内され、老執事がご令嬢と共に戻ってくるのを待つことになる。彼の話では別荘にいる使用人はほんの数名であるそうだ。


 部屋の中央に置かれた向かい合わせのソファの片側にカノンが座ること数分、彼が戻ってきた。その傍には黒衣の女性がいる。


 カノンは見惚れた。

 喪に服するその装いがあまりに彼女を神秘的に美しくしていたから。


 顔の上半分を半透明の黒のベールで隠しているが、赤みがかった金髪は鎖骨のあたりまで長さがあった。カノンと比較すると凹凸がある体つきで、背丈も高い。

 部屋の空気がその女性の到来によって変わるのをカノンは肌で、そして耳で感じ取った。とくんっと胸の高鳴りが内側でこだまする。カノンに未知の響きをもたらしたその女性――ローズマリー・クライスラが目の前に座った。


 白いソファーに映える黒。目が離せない。

しどろもどろになりながらも自己紹介するカノンを、ローズマリーは黙って見つめた。

 

 カノンの言葉が途絶えると、その可憐な唇が動く。


「あなたがあのニコラ・パッガーニの弟子だというの?」


 カノンは固まる。

 その声は氷のように冷たく、棘のように鋭く、それでいて弦を指で巧みに弾いたように洗練されていた。


「失望させないでね」


 ローズマリーはそう囁くと、立ち上がる。

 躊躇のない足取りで退室する彼女の背中をカノンは眺めるしかなかった。

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