昔話、因縁、本性
ピト。
背中のちょうど中心あたりに、暖かく、湿ったものが触れる。
ビクッ!っと体がはねて、心臓が動くのをはっきりと感じる。
「寄りかかるなよ……」
「え~?なんのこと~?」
「それは無理があるだろ……」
今でも確かに
「まあさ~……いいじゃん。これくらいさ~」
ついさっきまでの勢いはなく、ちょっとだけ弱弱しい言い方。
「まあ……いいけど……」
「ありがと~」
体ごとこっちに寄ってきて、今度は背中全体に熱を感じる。
少し湿っていて、やわらかい。
それでいて、暖かい熱。
「そんなに寄りかかっていいとは言ってないって……」
「え~?ダメなの~?」
「……」
体が熱い。
風邪を引いた時とはまた違う、やけに心臓が動いて、どうしようもなくなってしまう熱さ。
そして、背中を伝わる熱も、徐々にその温度を上げているようで。
もしかしたら見崎も、同じ気持ちなのかもしれない。
そう考えると、もっと熱い。
「なんか小学生の時も、こんなことあったよね~。レンくん、憶えてる~?」
「憶えてるよ。確か……小三の時か」
「そうそう~。レンくん、あの時はすごく怯えてたっけ~」
「見崎は、その時も冷静だった気がする」
「そんなことないよ~。私、すごく怖かったんだよ~?」
「本当か?あんまりそうは見えなかったけど」
「ん~……まあでも~、レンくんがいたからね~」
「俺、なんかしたか?」
「ふふふ。忘れたの~?」
明るい声でそう言ってくる。
背中を合わせているため見たわけではないが、きっと見崎は今、楽しそうに笑っているだろう。
「ほら~、『大丈夫だ見崎!俺がいるから!』って~……」
「やめろやめろ!せっかく忘れた黒歴史を掘り返すな!」
まさに、顔から火が出るというやつだ。
恥ずかしさで、ある意味熱くなったぞ……
「え~?あの時のレンくん、すごくかっこよかったよ~?」
「冗談だろ……」
「違うよ~。だってレンくんは~、本当は自分が一番怖いくせに、怖がってる私にそう言ったんだからさ~」
「そっか……そうだったかもな……」
見崎は意外にも、からかうような言い草ではなかった。
もしかしたら、見崎から見たあの時の俺は、本当にそう見えていたのかもしれない。
「あの頃のレンくんは、寂しがり屋さんだったよね~。それなのにお父さんはいなかったし~、お母さんもお仕事で、ほとんど家にいなくってさ~」
「それで、よく見崎と一緒にいたな」
「そうそう~。だからいつも、私がちゃんとしなきゃ~なんて思ってたのに、いざって時に私、すごく怖くなっちゃって~」
「それが、体育倉庫に閉じ込められた時ってことか?」
「まあね~。そんな時に~、私がいないといっつもオドオドしてたレンくんが、元気づけてくれてさ~。本当に、かっこよかったよ~」
「それなら……よかった」
ちょっと、照れる。
あの見崎に、純粋に褒められることなんて、めったにない。
まあ、過去の栄光ではあるけど。
「でも~、その時レンくん、すっごい足が震えてて~」
「めちゃくちゃダサい奴じゃん……」
「ふふふ。でもね~……
私はその時に、レンくんとずっと一緒にいたいって、そう思ったんだよ~?
守ってあげる意味でも~、守ってもらう意味でもね~」
今の見崎は、いつも通りの、フワフワした笑顔をしているのか。
あるいは、過去を懐かしむ、ちょっと悲しい顔をしているのか。
確かめるために、見崎の方を向きたい……
けど、その前に一つ、言わなきゃいけないことがあって。
「見崎、ごめん」
「……」
「俺……憶えてた。見崎と体育倉庫に閉じ込められた時にした約束、ちゃんとわかってた。でも、俺、忘れたフリしてて……それで、蒼と一緒に生活してた。ごめん……」
『私とレンくんが大人になったら、同じ家に住もうよ~。それで~、二人で~、助け合って生活するの~』
『でも……俺が見崎を助けられることなんか、あるのかな……家事だって、なんにもできないし……』
『家事は、私がやるよ~。だからレンくんは~……私がどうしようもなくなったときに、私のこと、助けてよ~』
そうして、小学三年生の俺と見崎は、二人きりで閉じ込められた体育倉庫の中で、指切りをした。
忘れられない、忘れちゃいけない、大事な約束。
そんな約束を、俺は見て見ぬふりをした。
見崎なら、なんとか許してくれるっていう、安心感のようなものがあった。
確かにそれは事実で、俺が言うまで見崎は、直接そこを聞いてくることはなかったわけで……でもそれが、ダメなところでもあったわけで。
「ねえレンくん……もう一回、この前にした質問、聞いてもいい?」
「……ああ」
「レンくんは……アオちゃんのこと……好き?」
「……」
「もし、アオちゃんと同じ家に住まなくてもいいって言われたら……どうする?」
「……ごめん。答えられない」
だから、もう前みたいに逃げない。
この因縁は、ずっと引きずっていいものじゃない。
「それが……レンくんの答えってこと?」
「ああ。そうだ」
もしここで好きと言ってしまったら、見崎との約束を破ることになる。
でも、好きじゃないとは言えない。
そんな嘘、つけない。
「……ふふふ。それは、零点の答えだね~」
「だろうな」
「でも~、私的には七十点かな~」
「理由を聞いても、いいか?」
「そうだね~……一番大きいのは~、あんな約束を覚えててくれて、深く考えてくれたことかな~。でも~、質問を答えないなんて、もちろん零点だけどね~」
「忘れないだろ。普通は」
「忘れるか笑い話かのどっちかだよ~。子供のころの戯言を高校生にもなって本気にする人、普通はいないよ~」
「それちょっとバカにしてないか?」
「ふふふ。でも、嬉しいな~。
子供の戯言を本気にしていたのが、私だけじゃなくてさ~」
「なんだよ、それ」
嬉しくて、少し笑顔がこぼれる。
「私さ~、その戯言を本気にして、先を越されたアオちゃんに嫉妬して、一人で落ち込んで……そのたびにさ~、もうレンくんは忘れてるからって言い聞かせて……本当に私、馬鹿だよね~……あのレンくんが忘れるはず、ないのにね~」
「ごめん。逃げて、忘れたフリして、ごめん」
「ふふふ。ここで謝っちゃうレンくんも、戯言を本気にしたレンくんも、忘れなかったレンくんも、忘れたフリを続けなかったレンくんもさ~……
……本当に馬鹿……」
「まったく、その通りだな」
見崎が一人で勝手に落ち込んだだけだから、俺が謝る必要はない。
子供の時の約束なんて、忘れて当然。
ましてや本気にするなんて、おかしい。
しかも、何事もなかったかのようにふるまえば、面倒なことにはならないのに。
でも……
「でも、そうするしかなかっただろ。なにせ、相手はあの見崎だぞ?寂しかった俺のそばにいつもいてくれて、なんでもできて、頼りになる、最高の幼馴染だぞ?」
「……レンくん、そういうとこだよ~。平然とそういうとこ言うのも、馬鹿のすることだよ~」
「かもな」
「でも、そんな馬鹿なレンくんだったから、なんだろうな~……
……こんなに好きに、なっちゃったのはさ~……」
最後に、見崎こぼしてしまった一言。
顔は合わせてないし、ボソっと言っただけだし、聞こえなくても、よかったかもしれない。
それでも、体育倉庫が物音ひとつしない狭い場所で、よかったと思う。
「ねえレンくん……さっきの話は、七十点のうちの五十点でね~。残りの二十点は~……」
ドサッ。
合わせていた背中が離れたと思えば、そのまま肩を持たれ、マットに押し倒される。
見崎は横になった俺にまたがり、両手を俺の顔の横につける。
眼前に広がる、見崎の顔。
「答えなかったってことは~、私にもさ~、まだチャンスがあるってことだよね~?」
「み、見崎?なにを言って……」
身動きが取れない。
少しでも動こうものなら、見崎のどこにあたってもおかしくない。
それに、胸が、少しだけ、あたっている感触もある。
「でもさ~、それはつまり、アオちゃんにもチャンスがあるわけでさ~……しかも、今まさに同棲しているのはアオちゃんだしさ~?」
「だ、だから何を言って……」
それだけじゃない。
顔だって、目線だって、どこかにやることはできない。
すぐ上の見崎に見つめられて、その表情で、固定されてしまう。
「だ~か~ら~、今はアオちゃんが有利ってわけだから~、百点じゃなくて~、七十五点でもなくて~、七十点ってことなんだよ~」
「それがなんだって……」
もう、話を聞く余裕などない。
無駄に動く心臓をなんとか抑えるしか。
なんとか話に応答することしか、できない。
「ふふふ。相変わらずレンくんは鈍いね~」
「なにを……」
「つまりさ~……
ここでアオちゃんを負い抜かせば、百点満点って訳だよね~」
眼が、開く。
白目の中心に、宝石のような緑色。
それはまるで、白目の海に浮かび、朝日で輝く一粒のエメラルド。
いつもは開いているのかすら
何十年も開いているところを見たことがないその眼が、今まさにはっきりと開いている。
「ねえレンくん……いい……よね?」
見崎と初めて、眼と眼が合う。
見崎の手の平は俺の側頭部を覆い、額どうしが触れあい、眼を放せず。
「いいか……なんて……」
「ふふふ。残念だけど~、レンくんに拒否権はないんだよね~」
言葉を発するたび、見崎の息が口にかかって、ぞわぞわと背中をなでる。
だんだん近づく口と口。もう何をしゃべれない。
これ、ガチだ。
冗談とか、からかうとか、そういうヤツじゃない。いつものようにフワフワしている見崎じゃない。
見崎は、本気だ。
……だめだ。今じゃない。
今、このまま見崎の口が付いてしまったら……もし、キスをしてしまったら……きっと、戻れない。そのまま最後までいってしまう。
俺は確実に、見崎は確実に、それを選んでしまう。
でもそれは、今じゃなくていい。
今はまだ、早すぎる。
……でも、だからと言って、体が動くはずもなく。
眼を、離せるはずもなく。
あ、俺、このまま……
ゆっくり眼を瞑る見崎とともに、眼を瞑って。
唇から甘い湿度と、暖かい温度が全身をめぐって。
見崎の唇が、もうすぐそこにあるのを感じて、心臓の鼓動がもうワンテンポ速くなって、体温を上げ……
ガチャ!
体育倉庫の、デカい鉄の扉の鍵が、何者かによって開けられる音だ。
慌てて見崎は俺から離れて、俺も座りなおす。
ガガガガ……と錆びた鉄どうしがゆっくり擦れる音とともに、まぶしいくらいの光がどっと押し寄せ、できた一人の影は……
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