夢見のイルスカ

小米波菜

第1話 選ばれた少女


 茉更は、神社をこっそり抜け出し、ソッタ山の麓の丘に来た。夜の木々は静かに揺れ、ひんやりとした風が吹く。


「上衣でも羽織ってくれば良かった。」


丘から村を見下ろしながら、茉更は呟いた。村にはまだ少し灯りがあり、家族の時間を過ごしているのだろうか?


「あの...」


後ろから、男の声がした。茉更の背中に一瞬、ひやりとした汗が落ちる。

(野盗かしら...安全な場所を選んだつもりだったけど)

茉更は背筋を伸ばし、毅然とした様子で振り返った。野盗だったとしても、このイルスカ村で茉更に手を出すことはできないはずだ。この村の絶対的な存在である夢見の神子(みこ)。その継承者である自分を知らない者などいないのだから。


「一応、護衛なので付いてきましたが、そろそろお戻りになるべきかと。」


長身で、いかにも衛士(えじ)に相応しい体つきをしている。短髪の黒髪に、同じく澄んだ黒い瞳の青年が、無表情で茉更を見ていた。彼はつい最近、茉更付きの衛士として任命された、董太(とうだ)であった。彼の姿を見ると茉更は深い溜め息を付いた。


「来て欲しいとは言ってないけど。なぜ、あなたがいるの?」

「言われずとも、必要があれば付いていきます。それが私の役割です。」

「たまの息抜きに、抜け出すことももうできないのね。私は籠の中で過ごせと言われてるんだわ。」

「あなたは次期神子様です。何かあれば村の存続に関わります。」


(何か辛いのかとか、少しは私の気持ちに寄り添えないの?)

茉更は少し不機嫌な様子を見せ、董太の脇をズカズカと通りすぎた。董太に比べると、茉更はひどく小柄に見える。細く白い手足に、ふわりと柔らかい栗色の美しい髪をゆったりと横に結んでいる。大きな瞳は不思議な光を帯びていて、茉更を見た人間は、少女なのか、大人の女性なのか、話をしなければわからない印象を受ける。次期神子だと言われれば、誰もが納得せざるを得ない神秘的な少女である。しかし、当の本人は17歳になったばかりで、次期神子などこの上なく面倒だと思っていた。


「待ってください。」

「今度は何?私が今日、抜け出したこと、神子様にでも伝える気なの?」


半ば怒り気味に茉更が睨むと、董太は自分が着ていた黒い羽織りを彼女の肩にかけた。茉更は突然のことに、さっきの自分の悪態が恥ずかしくなった。


「貴女は、私たちの大切な神子になる方です。夢見の神子にイルスカ村は守られてきました。村を導き、守る力が貴女にはある。怒られても、俺はあなたを守ります。」

「...怒ったのは悪かったわ。ただ、こうして外に出て、風を感じたかったの。」

「....」


董太は少し口ごもったが、何も言わずに歩き始めた。

(何か言いなさいよね。本当につまらない人だわ。もっと話ができる人が衛士なら良かったのに。)

茉更と董太は少し距離をとりながら、神社へと戻っていった。



 翌朝、茉更は大神子の部屋である、無垢の間に呼ばれた。襖を開けると、そこにはこの村の生きる伝説である、大神子の史埜がいた。歳は70歳をこえ、白髪をきつく括り、同じく真っ白な装束に身を包んでいる。体は大きくはないが、ふっくらとしており、大神子としての威厳を感じる女性である。


「昨夜、社を抜け出したんだね。」


史埜は茉更に目を向けずに、儀式のための薬草をすり鉢で擦りながら声をかけた。


「董太が言いましたか?」

「あの子が言うわけなかろう。お前が思っている以上に、董太は真面目で口の固い子だよ。幼い頃から、衛士になるために厳しい鍛練を積んできている。お前の幼い欲求など、董太にとっては子どもの駄々こね程度だろう。」 


茉更は口を膨らませながら、史埜が煎じた薬を清めた紙に入れていく。大神子はその様子を見て微笑みを浮かべながら話を続けた。


「何か言いたいことがあるのかい?私がお前を後継者に指名してから、もう7年目。親と別れ、普通の少女としての生活を捨て、私と共に暮らしてきた。不満があるのも当然だろうと思うよ。私もそうだったからね。」

「史埜様との生活に不満などありません!」

茉更は顔を赤くし、口調を強めた。

「あなたが私をあの親から引き離してくれた。ぼろ切れのように扱われていた私を...。端から普通の生活などなかったのです。ここが、この神社が私の家。史埜様が私の母です。ただ....」


茉更は史埜の膝に頭を乗せ、横になった。史埜は優しく茉更の髪を撫でた。


「私はこのまま、ただ夢見の神子として生きて、死んでいくのでしょうか。世間から離れ、社の中で、ただ夢だけを見て...村を守ることはできるかもしれない。役に立つ人間になれるかもしれない。でも、何かわからない虚しさが胸の中から消えないんです。」


茉更の瞳から、一滴の涙がこぼれた。史埜と過ごした7年は、間違いなく茉更のそれまでの人生で一番幸せな時間だった。茉更の家庭は、村の中でも裕福な家柄だった。美しい母親と、力ある父親。しかし、茉更は二人の顔をよく思い出せない。二人はいつも、茉更に立派であることを求めた。娘として恥ずかしくない振る舞いをすること、それが茉更の生きる条件でもあった。少しでもその条件に合わなければ、暴言や暴力は日常であり、そこから外れた人間はあの家では価値の無い存在と見なされる。


「役に立つ娘になれ。」


それが両親の口ぐせだった。そしてその願い通りに茉更は役に立つ娘になった。イルスカ村の最高権力者であり、民を導く夢見の神子の後継者に選ばれたのだ。現在の神子は約55年、その地位に付いており、半世紀ぶりの新たな神子の誕生に村人たちは大きな興奮を感じていた。両親は自分たちの教えの賜物だと鼻を高くし、民からも羨望の眼差しで見られるようになった。茉更は10歳になったばかりであったが、すぐに神社に入り、史埜からの神子としての教えを受けるようになったのだ。


「そうか...。そうだね。夢見の神子は自分が望まずとも選ばれる。私たちのイルスカ村の初代神子、灯手瑠様に選ばれた乙女だけが。お前も目覚めの時が近づいているんだよ。だからこそ何を心で選ぶのか、それを決めたいと感じているんだろう。」

「選ぶ?私には選ぶことができるのですか。未来は決まっているのに。」

「初めてお前の夢を見た時を覚えているよ。お前は小さくてか細く、不幸な子どもだった。虚ろな目で私の着物の裾を握ってね。でも、その目の奥に見えたんだよ。」

「何が見えたのですか?」

「誰にも消すことのできないほどの、輝き。命の光。私はわかったんだ。ああ、この子がイルスカの運命を変える子だと。だから、たんと悩みなさい、迷いなさい。どんな道を選んでも、私はお前を信じてるんだ。私の可愛い娘は、幸せにならないわけがないと。そのために今、何かを見つけようと踠いているのだから。」


史埜はにっこりと微笑み、茉更の涙を拭った。茉更は史埜の言葉が嬉しかったが、意味が全てわかったわけではなかった。

(運命を変える?私が....?そんな未来が本当に来るのかしら。)





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