京子

 由衣は翌日の朝には居なくなっていた。

「行ってきます」とだけ手紙を残して。

何の準備もしてなかったようだけど大丈夫なのか?

結局市内なのか市外なのか、何県なのかも聞かなかった。

まあ帰ってきたら聞けばいい。変わった奴だからさほど意外でもないし。

その夜仕事を終わらせた俺は、早速京子にラインを送った。

有給を取っている京子は昼過ぎには俺の家に居るとのことだったのだのだ。

やれやれ、まるで女房気取りだな。

心地よさと優越感を感じながら、あと30分くらいで帰ると送ろうとしたが、ふと昼過ぎに送ったラインが未読のままになっていることに気付いた。

京子は朝、夕食に何を食べたいか知りたいから、お昼までに送って欲しいと言っていた。

アイツからの要望で送ったのに、5時間経っても読まれていないのか。

先ほどの心地よさが不快感に塗りつぶされていくようで、大きなため息をつくと家に車を走らせた。

こういう遊びは今回限りだ。


家の駐車場に着いた俺は思わず眉をひそめた。

すでに19時過ぎなのに家が真っ暗だったのだ。

12月なので周囲は完全に夜の闇に覆われている。

なのに灯りが付いてない。

と、なれば考えられるのは一つ。

京子の奴、すっぽかしたな。

舌打ちして、京子に電話をかける。

ふざけやがって。

だが、いつまで経っても出る気配が無い。

上等だ。今回限りと言ったが予定変更だ。

今日限りでアイツとは終わり・・・

その時、俺は違和感に気付いた。

家の中から音が聞こえる。

揺れるカーテンに溶け込むように小さく、だがハッキリと聞こえる音。

それは、今まで何度も聞いてきた京子の携帯の着信音だったのだ。


俺は驚いて家の方を見る。

リビングの窓が半分開いていて、そこから聞こえていた。

なんで・・・

京子は家に居る。

ならなぜ灯りが付いてない?

なぜ電話に出ない?

呆然と窓の方を見たが、すぐに苦笑いしてため息をつく。

携帯を忘れていったんだろう。

あの馬鹿が。

大げさに舌打ちすると、車を降りて玄関のドアを開ようとしたが、俺の足は動かなかった。

いや、動けなかった。

何だ・・・この匂い。

それは開け放たれた窓から漂ってくる鉄にも似た生臭い匂いだった。

俺の家にこんな・・・匂いは無い。

俺の脳内に最悪の想定とその光景が浮かんだ。


まさか・・・強盗?

いや、大丈夫だ。

京子は生肉を使おうとしたんだ。その途中で・・・じゃあなぜ、家を出た?

俺は震えながら携帯を取り出したが、深く息をついた。

いや待て、警察に連絡してもし違ってたらどうする。

下手したら職場に京子との関係がバレる。

昇進争いでは俺が頭一つ有利。

ここでバレるわけには・・・

「クソ!京子の野郎。由衣もこんな時に家、帰ってんじゃねえよ!使えねえ」

周囲に聞こえることも構わず大声を出すと、鍵を取り出しドアを開けた。

その途端、あの匂いが吐き気を催すほどの臭気となっていた。

家中に広がっている。

「ちくしょう!なんだよこれ!」

俺はもはやヒステリーに近い状態になっていた。

「おい!京子!せっかく家を使わせてやったのに」

俺は靴を脱ぎ捨てると乱暴に足音を立てて中に入った。

頭の隅では何かが「逃げろ」と言っている。うるさいくらいに。

うるせえんだよ。

気のせいだ。こんな事あるわけ無い。

明日は大事なプレゼンの日だ。

これが上手くいけば確実に昇進出来る。

あの誰もが知る大企業で上層部に上がれる。

こんな事に邪魔されるわけには・・・プレゼンどころじゃ・・・

手探りで灯りのスイッチを探す。

自分の家なのになんで見つからない?

うなり声を上げながら、吐きそうなほどの生臭い匂いの中、バタバタと手を動かす。

「畜生!」

怒鳴り声を上げながら携帯のライトを照らそうとするが、手が震えて上手く触れることが出来ない。

クソ、クソ、何でこんなにヌルヌルするんだよ。

クソ携帯が。

叫び声を上げながら、周囲を探るとようやくスイッチを見つけて灯りが付いた。

「遅いんだよ!馬鹿」

思わず声が出たが、みっともないほど声がひっくり返っていた。


畜生、汗でスーツがベタベタだ。

まずはビールを飲もう。

そうだ。この家では何も起こっていない。いつも通りの家なんだ。

家に帰ってビールを飲んで何が悪い?

荒っぽく歩きながら冷蔵庫に近づき中を開けるとビールの缶を取り出し、一気に飲む。

深く息をついた俺は、風呂を入れようと思った。

汗を流したい。

当たり前だ。当たり前だろうが。畜生。

音を立てて鳴っている歯を無理矢理食いしばり、酷くけいれんしている足を無理矢理動かすと浴室に向かった。

そして、荒っぽくスイッチを入れて、ドアを開けた。


その灯りにうっすらと照らされたその光景が何を表すのか最初、理解できなかった。

ああ・・・何て手の込んだイタズラなんだ・・・

そう思うと笑えてきたが、すぐ後にようやく脳が理解し喉が潰れるかのような大きな悲鳴を上げた。

バスタブの中に居たのは・・・いや、あったのは京子・・・だったものの残骸だった。

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