第15話 雪解け
痛っ。右膝に何かが落下した感覚があった。コーヒーカップか。リラックスし過ぎて気を失っていたようだ。
時間は四時。もう少ししたら恵美が帰ってくるな。もう少し部屋を片付けようか。
恵美が帰ってくるまで、細かな家事もしながら待つことにした。
作業中、頭を擡げていたのは恵美やさつきちゃんのことだ。さつきちゃんとは唯ならぬ関係を持ってしまった。心も傾きかけている。でもなぁ…。
何か心に引っ掛かっていたのは順番を間違えたこと、恵美への気持ちが本当に離れているのかということである。
さつきちゃんと一緒になれば今よりも楽しく生活が出来そうだけど、恵美とは大学時代から楽しいことや苦しいことも共有してきた。まさしくパートナーなのだ。
それに、僕は本当に恵美との生活を大切にしてきただろうか。仕事や娯楽にかまけて恵美と向き合うことを避けてきただけではないだろうか。
もう手遅れかも知れないが、恵美と腹を割って向き合うことにしよう。
決意を固めた僕はスマホを手に取った。
「あのさ、今日外でご飯食べようよ。」
「え?疲れたんだけどな。どうせご飯とか作れないだろうしいいんじゃない。」
「了解、店は探しとく。」
結局市街地からやや外れた焼肉屋の予約が取れた。
急いでシャワーを浴び、着替えを済ませて駅まで車を走らせた。
駅前のロータリーで停車させ、十分程待つと、恵美が荷物を抱えて歩いてきた。
「ありがとう。荷物多くてさ。」
「いいよ。お疲れ。」
恵美を助手席に乗せ、郊外へ再出発した。
夕方だったこともあってやや渋滞したが、何とか予約時間に到着した。
明日は二人とも仕事なので、二人とも烏龍茶を注文した。
注文の品を待つ間、僕達の間には沈黙が続いていた。
結婚から数年が経ち、愛を誓い合った僕達の関係性はすっかり熱が冷めていることを改めて実感した。
話そうとするが口が金縛りのように動かない。
恵美も気まずそうにスマホをポチポチしている。
二人の沈黙は注文の品が到着したことで一旦中断された。
「タンから食べようか?」
「うん」
ぎこちないながらも少しずつ張り詰めた雰囲気が解れてきた。
食べていくうちに恵美も群馬での話をしてくれるようになり、最後の方は何とか和やかな雰囲気になった。
会計を終えて、車に戻り、エンジンをかけた。
「真っ直ぐ帰るよね?」
「いや、ちょっと二人で行きたい場所がある。」
「何それ怖いんだけど。ホテルとかは辞めてよ。」
「勘違いすんなや。誰があんたと行くんだ?違う場所や。」
「何その言い方?ムカつくんだけど。」
また口論になってしまったが、更に言い返したい気持ちを押し殺して車を走らせた。
小山付近に車を停め、恵美を降ろした。
「この場所に見覚えはない?」
「え?何だろう。初めての感じはしないんだけど…」
「まあ、着いたら思い出すさ。さぁ、行こう。」
僕は恵美の手を引っ張って草むらの中の階段を上がっていった。
「え?ここってもしかして?」
「うん、思い出した?」
「引越した日に来たよね?」
「うん。」
「久しぶりに来たいなと思って。」
「ふーん。」
恵美は黙ってベンチに腰掛け、夜景を眺めた。
「ここに初めて来た時の気持ちをもう一度思い出そうと思って連れて来た。勿論気分転換もあるけど。」
「あの頃は色々と希望に満ち溢れてたな。」
「正直俺と結婚したの後悔してる?」
「うーん、半々くらいかな。まぁ、自分で決めたことだから仕方ないし、職場の方達は良い人ばかりだから一概に後悔してるとも言えないかな。」
「そっか。もう一回恵美とちゃんと向き合いながら頑張るから見ててほしい。」
「…ホントにできるの?私にはそうは思えない。」
「正直今のままじゃいけないと思うし、向き合って無かったなと。危機感を持ってるから。今後変わらなかったら離婚してくれていいから。」
「分かった。」
その後はどのくらい時間が経っただろうか。互いに無言で夜景を眺め続けたが、不意に着信があった。
「もしもし。今電話できる?」
「いや、今はちょっと厳しい。また掛けます。」
僕は慌てて電源を切った。今は最も相応しくない人物だからだ。
「誰から?別に電話してて良かったのに。」
「ああ、大野からだったからまた掛け直すよ。」
「そう。一瞬女かと思ったよ。」
「あはは。まさかね。」
恵美の目は笑っていなかった。僕は努めて冷静さを保ちながら返答した。
帰りの車中、車内は無音だったが、恵美は僕の肩に頭を預けて眠った。
僅かに雪解けを感じ、僕の心は暖かくなった。
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