第8話 一線

僕は一旦ハグを解き、さつきちゃんの唇に顔を寄せた。しかし、さつきちゃんは両手を僕の胸に押し当てた。

 「ごめん、まだチューは出来ない。不倫になっちゃう。本気だったら奥さんと別れてよ。」

 いきなり上から冷水をぶっかけられた気分だったが、努めて冷静を装った。

 「ごめん、冷静じゃなかった。確かにそうだよね。実際、奥さんとは不仲で、大分長いことしてなかったのもある。別れたら一緒になってくれるの?」

 「うん、東くんのことは好きだし、ちゃんと順番を守って来てくれるなら一緒にいたいな。」

 さつきちゃんの気持ちを確認し、僕の中では踏ん切りがついた。別れよう。

 僕達は気を取り直してお酒を飲んだり、おつまみを食べたりすることを再開した。

 食べたり飲んだりしているうちに、二人とも眠くなってしまった。

 寝室に案内されたが、ベッドは一つだけだった。

 「ありがとう、横にソファあるみたいだしそこで寝るわ。」

 「ダメ、一緒に寝て。」

 「それは困るよ。我慢出来なくなるから。」

 「いいじゃん、別れてくれるんでしょ?別れてくれるなら…いいよ。さっきあんなこと言ったけど、ホントはチューもしたいし、その先も…」

 もう我慢出来なかった。一度はポケットにしまった本能を再び取り出した。

 さつきちゃんの唇を奪うと、桃のような甘い香りがし、僅かに残った理性も吹き飛ばした。

 さつきちゃんをベッドに押し倒し、僕達は激しく求め合った。お互い想いを封印していた分、反動で欲望と快楽が爆発していた。

 寝室に来た時には窓の向こうは漆黒だったが、ふと我に返ると濁った水色に変化していた。

携帯で時間を確認すると、時刻は四時だった。隣ではさつきちゃんが静かな寝息を立てていた。

 状況の把握が終わると、下腹部に痛みがあった。最早覚えていないが、相当に酷使したのだろう。

 まだ疲れていたので、もう一眠りすることにした。

 しかし、中々寝付けなかったので、ネットサーフィンで時間を潰した後、一旦リビングに出ることにした。

 さつきちゃんを起こさぬよう静かに寝室を出て、冷蔵庫に入ったペットボトルの水を体内に流し込んだ。

 水を飲み終わると、僕は賢くなった。

 客観的な事実で言えば、不倫関係になってしまった。あれだけ燃え上がっていたが、今は恵美への罪悪感が頭を占めていた。僕とさつきちゃんはこれからどうなるのか。恵美と離婚するのかどうか。次々と襲って来る現実に頭を抱えるしかなかった。でも、よく考えてみれば僕と恵美は数年単位で夫婦の営みは無かった。僕が悪いのは大前提だが、ここまでレスならば僕も欲求を抑えきれなかったのは仕方ないのではないか。人間の三代欲求は食欲・性欲・睡眠欲だったはずだ。何も食べるな、寝るななんて不可能であろう。同じくセックスをするななんて誰が強要出来ようか。

 一通りそれらしい言い訳を並べて現実逃避しないと落ち着かなかった。

 一先ず落ち着くためにテレビを点けた。丁度民放のニュースはエンタメコーナーで芸能人の不倫の話題を取り上げていた。

 コメンテーターが様々な表現で不倫をした芸能人に厳しいコメントを投げかけていた。いつもなら何気なく眺めていたが、僕に言われている気がして居た堪れなくなったので慌ててチャンネルを変更した。お天気コーナーで、キャスターが天気予報をしていたが、そのキャスターも数年前に不倫報道があったことを思い出した。

 テレビも見ていられないと、電源を切ったところで、さつきちゃんが目を擦りながら起きてきた。

 「ふぁぁー、おはよ。」

 「おはよ。よく寝たね。」

 「だってけんちゃんが激しかったんだもん。」

 さつきちゃんが揶揄うように笑った。僕も愛想笑いで応じたが、顔は引き攣っていた。

 「…別れてくれるんだよね?」

 さつきちゃんは僕を真っ直ぐに見つめながら確かめてきた。

 「う、うん。」

 「やることやったんだから分かってるよね?」

 さつきちゃんは僕の顔を覗き込んで念を押してきた。

 すっかり賢くなった僕は即答出来なかったが、怖くなったので頷いた。

 さつきちゃんは安心したのか、僕の唇を奪ってきた。先程までの僕の葛藤も吸い取られた気がした。

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