第3話 板書

 クラス落ちしてからも私は時々以前の教室に顔を出していた。


 あの日の休み時間もそうだった。

 教室の黒板には、国語の授業の板書がそのまま残されていた。


 私は徐に教壇に上がると、何かを物色するかのように黒板を見渡した。


 人差し指を伸ばすと、何文字かをなぞった。

 小学校でもやったことがある。

 たしか図画工作の先生の真似だったように思う。シェードがかかってオシャレに見えた記憶がある。


 K大医学部は、黒板の袖に置かれた折り畳み式の椅子に座り、両肘を膝の辺りについて、顔だけ私の方に向けていた。


 私は得意な気もちで、今度は板書の括弧の部分を指でなぞって、彼の方を見た。


 すると、いつもより幾分か細く見えた横目と目が合った。何秒間か、いや、実際には1秒くらいの間か、そのまま静止した状態だった。


「邪魔すんなよ」


 不意な一言だった。私は俄かに呑み込めなかった。


「直せよ」


 怖かった。蛇に睨まれたような支配感に凍りついた。

 慌ててチョークを手に取り、最初になぞった何文字かに上書きした。


 これでいいでしょうか…


 そんな面もちで恐る恐る彼の表情を窺った。


「括弧も!」


 はっとしてチョークを手に取り、円弧をなぞった。ミスを指摘された、情けない気もちにもなった。


 最前列に陣取る男子生徒達が無言でその様子を見ていた。


 私はその後の自分の行動を覚えていない。が、きっと晒しものとなった自分を一刻も早く消し去りたい思いで、教壇を下りて退室したに違いない。


 その時の自分は、そこにいるべき者ではなかったのだ。


 数ヶ月後、私はその教室に復帰した。


 彼はもういなかった。


  (了)

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黒板 one minute life @enorofaet

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