第7話(最終話)
はっ…!
気づくとそこは、同じリビングだった。
ただ、先ほどまでの明るさとは打って変わって、周囲は薄闇に包まれている。
視界は、赤く染まったまま。
目をやると、キッチンの黒い人陰はいまも同じ場所にじっと佇んでいた。
佇む…と、言うよりも、まるでその空間にへばりついていると言ったほうが良いか。
なんとも言えぬ、うそ寒さを感じる。
密度を増した赤い瘴が、ねっとりときいなの体に纏わりついた。
「あれが、お前か…」
もちろん、返事など無い。
黒い人陰はただまんじりともせず、こちらをじっと見ている。
そう、やはり見ているのだ。
いびつに歪んだ視線を、はっきりと感じることができた。
ぱちんっ!
ぱちんっ!
ぱちんっ!
まるでかんしゃく玉の弾けるような音が、ひっきりなしに部屋中に響く。
張りつめた部屋の空気を、その残響が震わせる。
きいなは、ワンカップのグラスに残った日本酒をフローリングに撒いた。
空のガラス瓶を、キッチンのテーブルに置く。
そのまま片膝をついて、右の掌を床に近づけた。
「…」
低い詠唱の言葉が、きいなの唇からもれる。
床の上にある右手の人差し指と中指をのばした。
飛び散った日本酒の滴をなぞり、きいなは指で床に円と直線を組み合わせた簡単な図形を画いた。
ゆらり、と赤い瘴がうねる。
対流するように渦を巻いていた瘴が、きいなの周囲から徐々に薄くなった。
本来ならば、祭壇を祀り正式な祓いの儀式を執り行うはずであった。
しかし、こうなってしまえば仕方がない。
いまできる、最善の方法をとるだけだ。
きいなは立ち上がると、革のジャケットを脱いでキッチンの椅子にかけた。
覚悟は、決まった。
「我は汝に命ず。今生の未練怨嗟を断ち切り、宿りしこの地から離れよ」
そう言って、右と左の掌を胸の前で合わせると、指を立てて印を結ぶ。
「…」
続けて、裏声のような高い詠唱がきいなの口から流れ出た。
ぱちんっ!
ぱちんっ!
まるでその詠唱を遮るように、空間の爆ぜる音がそこここで鳴った。
ガチャンッ!
キッチンの食器が崩れ、皿が床に落ちる。
陶製の皿は、上から潰されたように異様な割れ方をした。
破片も飛散しない。
格子柄のカーテンが、風も無いのにざわざわと揺れた。
きいなの項の産毛が、ちりちりと逆立つ。
…チャチな威し。
それでも、きいなは印を結んだまま詠唱を止めなかった。
威しをかけてくるということは、嫌がっている証左に他ならない。
このまま、最後まで押し切る。
ぱちんっ!
「…っ痛っ!」
むき出しになった左の二の腕を、なにか細い鞭のようなものが打った。
斜めに、ミミズ腫れができる。
ぱちんっ!
右足の太ももが打たれた。
白い肌に、赤いミミズ腫れがじわりと浮き出てきた。
警告のつもり?
きいなは詠唱の声を高めると、リビングからキッチンへむかって足を踏み出した。
べちっ!
厚底スニーカーの表面に、赤黒い紐状の跡がつく。
ぱちんっ!
ばちっ!
ばちんっ!
爆ぜる音が、次々ときいなの周りで起こった。
明らかに敵対的な意思が、この部屋中に満ち満ちている。
天井の近くで、赤い瘴が渦のように回転していた。
ぴたり、ときいなが歩みを止めた。
あの黒い人陰の正面、手をのばせば届く距離だ。
ぐらり、と黒い人陰が傾いだ。
ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああっ
黒い人陰が、初めて声をあげた。
怪鳥が啼くような、甲高い悲鳴がいきなり部屋の空気を震わせる。
きいなは顔をしかめて、反射的に耳を押さえた。
しかし、聞こえる。
耳からではない。
直接、頭の中に響いてくる。
これは物理的、生物的に発せられた声では無いのだ。
脳をきりきりと絞られるような、異様な感覚に襲われた。
激しい頭痛に、目眩がする。
横隔膜がせり上がり、胃液が逆流した。
わきあがる強い嘔き気に、きいなは唇を噛んだ。
心臓の動悸が激しく、速くなる。
脂汗が、全身からどっとふき出した。
ぐ…う…?
喉に違和感がある。
何かが、そこにいきなり湧いた。
動いている。
ぐねぐねと、それが気道の壁を擦りあげた。
ぞわっと、悪寒が背中をのぼってくる。
呼吸ができない。
それは、完全に気道を塞いでいた。
このままでは、窒息する。
きいなは口中に残った空気を吐き出しながら、印を結んだ。
それを、自らの喉に突き立てる。
「…がはっ!」
喉の中で、何かが爆ぜた。
異物感が消え、開いた唇から黒い滓と粘液質の液体が床に滴り落ちる。
「…ぺっ!」
きいなは、異物混じりの唾を吐いた。
新鮮な空気を、肺に送りこむ。
ふたたび両の掌を胸の前で合わせると、指を立て印を結んだ。
「汝の因果、ここで断ち切らん!」
きいなは、そう言って右腕をのばした。
黒い人陰の頭に、右の手首までが埋まる。
臓物の塊に腕を突っ込んだような、なんとも不快なぬるぬるとした感触に思わず怖気がたった。
動いている。
軟体動物のように、それは絶えず蠕動を繰り返していた。
ぐじゅ
きいなは、その塊を掴んだ。
それはなんとか逃れようとするように、ぐにゃぐにゃと手の中で暴れた。
ばちんっ!
ばちっ!
右腕のあちこちに、ミミズ腫れが浮き上がる。
それにはかまわず、気合と共にきいなは腕を引き抜いた。
ばしゃあっ!
黒い人陰が、液体となって崩れ落ちた。
それは、赤黒い血溜まりのように床に飛散する。
きいなの右手には、異様なモノが握られていた。
赤黒く太い、ミミズのような紐状の軟体が幾重にも絡まりあっている。
透明な粘液を滴らせ、ぬめぬめとした表面はしかし、爬虫類ともなんともつかない質感だ。
それは絶えず蠢き、形を変えていた。
生物…ではない。
動いてはいるが、それはこの地球上に生息するいかなる哺乳類、爬虫類、昆虫類とも似て非なるものだった。
きいなは左手で印を結ぶと、その指先を蠢く塊に突きつけた。
「散穢!」
裂帛の気合をこめて、それを床に叩きつける。
べしゃっ!
赤黒い塊が、鮮血のように飛び散った。
黒い滓が、ぶわっと巻き上がる。
悲鳴すらあがらない。
それだけだった。
なんの余韻も、断末魔もない最期。
「はぁ…はぁっ…はぁっ」
きいなは、しかし崩れるように片膝をついた。
肩で息をしている。
どっと、疲労が押し寄せてきた。
それに加えて、全身を包む不快感と痛み、猛烈な嘔き気。
穢に触れた、代償だ。
祓いは、肉体と精神をすり減らす。
特に精神面での疲弊は、例えようがない。
一歩間違えば、自らも穢に飲み込まれて最悪の場合は命を落とす。
穢と対峙することは、それほど危険を伴うものなのだ。
こんなのは…しばらくゴメンだ。
きいなはそうつぶやくと、その場に座り込んだ。
部屋から出てきたきいなを、倉科と肘井が迎えた。
外は、すっかり陽が落ちている。
マンションの廊下を、蛍光灯の光が照らしていた。
「大丈夫か?」
心配する倉科に、きいなはそれでも小さく笑った。
「心配しなくても生きてる」
辺りを見渡して、きいなが言った。
「阪崎と、あのバカは?」
「救急車を呼んで、運んでもらった。気を失ってはいたが、命に別状は無い。阪崎は付き添わせた」
「あぁ…」
きいなは、疲れ切った顔で頷いた。
どうやら最悪の事態は免れたらしい。
「あ、あの…部屋は…どうなった…んですか?」
おずおずと、肘井が口を挟んだ。
きいなは鋭い視線で肘井を見返すと、おもむろに2人を促した。
「ついて来て」
きいなを先頭にして、3人が302号室に入る。
暗い廊下を進み、リビングへと入った。
さんざん散らかった室内を見て、肘井が泣きそうな声を上げる。
「あぁ…部屋が…」
きいなは壁際に歩み寄ると、壁紙の境目に爪を差し込んだ。
べりっと、壁紙が破れた音がする。
慌てて、肘井が制止した。
「ち、ちょっと、これ以上なにを…!」
「黙って見てろ」
そう言って、きいなはそれを一気に引き剥いだ。
べろり、と壁紙が垂れ下がる。
「う…!」
「ひぃ…?」
倉科と肘井の口から、驚きの声がもれた。
壁紙の下からは、赤黒く変色した文字で「ノロウ」と一面にびっしりと書かれた古い壁紙が、現れたのだ。
肘井は、その場にへたり込んだ。
「これは…」
「たぶん、この部屋で最初に自殺したヤツが書いた」
倉科の言葉に、きいなが答えた。
「この部屋は地雷だったんだ」
「地雷…?」
「踏んだら終わりってこと」
薄暗い部屋に、重い沈黙がのしかかる。
肘井は、ただ呆然と壁を見上げていた。
あの倉科でさえ、言葉を失っている。
誰かの問いかけを待たずに、きいながふたたび口を開いた。
「そいつは、呪詛を行った」
「呪詛…呪いか。相手は?」
「自分自身」
意外な言葉に、倉科は驚いたようだ。
「自分で、自分を呪った…?」
「そう。そして呪詛が成就する前に自殺した。ここで」
きいなが、床を指さしながら言った。
肘井が、思わず後ずさる。
「宙に浮いた呪詛は、穢となってこの場所に凝った」
「だから、入居者が次々に…」
倉科の言葉に、きいなが頷く。
「しかし、なぜだ。なぜ、そんなことを…?」
「そこまではわかんない…ただ」
「ただ?」
きいなは、一言一言を区切りながら言った。
「誰でも、良かったのかも。ただ、誰かを呪いたかった。一人でも多くの誰かを」
「そんな…」
倉科が、きいなの言葉に絶句した。
「あるよ。そんなことが…無作為の呪いほど、厄介なものはない」
「大丈夫なんですよね?…もう、大丈夫なんですよね?」
きいなに縋りつくように、肘井が言った。
きいなは、小さく首をふる。
「呪いは消えた。けど、一度忌み地になった場所には穢が凝りやすい。気をつけんだね」
「そんな…」
肘井が、がくりと肩を落とす。
「こんな雑なやり方じゃ、次の穢もすぐ凝るよ」
破れた壁紙を見ながら、きいなは言った。
「アタシは祓い屋。鎮めるのは別口を頼んで」
椅子にかけた革ジャケットをとると、きいなはリビングを後にした。
ゴツゴツと、厚底スニーカーの靴音が響く。
きいなの背に、倉科が声をかける。
「送るか?」
「今夜は…いいよ」
きいなは手を振ると、部屋を出ていった。
…おわり。
※ この小説は筆者の創作であり、特定の団体、事件、個人とは一切関係ありません ※
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◆ 事故物件・赤い部屋 ◆ 能仲 賢円 @hage_metal
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