第6話
「ゲホッ!なんだ…これ…ゲホッ!ゲホッ!…くるし…げぇ!」
喉を絞られるような息苦しさとその奥からせり上がってくる違和感に、デデンはリビングの床に突っ伏した。
何か粘液質のものが、ずるりと食道を逆流してくる。
悪寒が背中を這い上ってきた。
「ぐぇぇっ!」
口腔に溢れ出たそれを、デデンがこらえきれずに吐き出した。
ぼとぼとっ!ぼとっ!
フローリングに、黒く粘ついた液体がぶち撒けられる。
タールのようなその液体は、たちまち床に黒く濁った水溜りをつくった。
な、なんだこれ…!
驚愕と、恐怖。
それに苦痛で涙が溢れた。
「ぐがはっ!…げぶっ!」
大量の黒い液体を嘔吐したデデンが、喉をかきむしるようにして床に倒れる。
立ち上がれない。
全身の筋肉が弛緩してしまったかのように、体に力が入らなかった。
その時、明るさを落としていた天井の蛍光灯が、ぱっ!ぱっ!と瞬いた。
デデンが持ち込んだ配信用の撮影機材…照明灯や暗視カメラのパイロットランプも、明滅を繰り返す。
ぱちんっ!
ぱちんっ!
何かが爆ぜるような音が、連続で部屋の中に響いた。
ぱちんっ!
ぱちんっ!
ぱちんっ!
天井の蛍光灯が、すっと消える。
バツン、とカメラの電源も落ちた。
照明灯まで、弱々しく光を失う。
カメラの横に置いてあったノートパソコンも、液晶画面がブラックアウトした。
カーテンを締め切った部屋に、薄闇の帳が下りる。
「だ…だれ…か…た…」
デデンが、かすれた声で助けを求めた。
しかし、言葉にならない。
たちまち顔面が蒼白になり、みるみる血の気が失せていく。
呼吸ができないのだ。
気道を、まだ何か得体の知れない塊が塞いでいた。
「か…ひゅー…!」
かすれた笛のように、喉が鳴った。
視界がぼやけ、徐々に意識が遠のいていく。
三脚に立てたカメラが、ぼんやりと目に入った。
さきほど電源が切れたため、パイロットランプが消えている。
もちろん、いまは配信もされてないだろう。
あ…配信、切れて…。
なぜか、そんなことが気になった。
がっ!
その時、誰かの手がデデンの腕を掴んだ。
そのまま、ずるずるっと床をひきずられる。
遠くから、悪態が聞こえた。
「くっそ重いな!こいつ!」
きいなだ。
デデンの背中側から脇に両手を入れると、きいなはずずっとその体を後ろに引きずった。
ただでさえ、デデンはきいなより一回り大きな体格だ。
しかも弛緩して脱力している人間の体は、数倍の重さに感じる。
きいなは、ゆっくりと床に尻もちをついた。
「このやろ…!」
力仕事は嫌いなんだよ!と、口の中でつぶやく。
それでも、きいなはあらん限りの力をこめて、デデンを引っ張った。
ずずっ
なんとかデデンの体をリビングから廊下まで引きずり出すと、きいなはその背中に右手の人差し指と中指をあてた。
何かを小声で唱えながら、空中に十文字を切り印を結ぶ。
「ふっ!」
鋭く息を吐いた。
「がはっ!」
何かがぐぐっと、デデンの喉を這い上がってきた。
「げぇえっ!」
ぬらぬらと照り輝く黒い塊が、廊下に吐き出された。
いや、塊ではない。
廊下の上で、それはばらりと解けた。
太い紐のような黒い物体が、まるで蛇のようにうねり、のたうつ。
透明な細長い袋に、真っ黒な煙が充満しているようにも見える。
物質化した、瘴だ。
きいなは躊躇せずにその黒い紐を掴むと、気合とともに廊下の壁に打ちつけた。
びちゃっ!
黒い紐は水風船のように爆ぜて、たちまち霧散した。
消し炭のような細かな滓が、廊下に舞い落ちる。
「げほっ!…げっ!げほっ!」
デデンが激しくむせかえった。
しかし、その様子からどうやら呼吸は戻ったようだ。
肩が大きく上下し、荒い息をついているのがわかる。
「おっさん!はやくっ!」
きいなが、後ろにむかって叫んだ。
騒がしい足音がして、玄関で待っていた倉科と阪崎がきいなたち二人のもとに走り寄ってきた。
倉科が、きいなに聞く。
「いいんだな⁉」
「とりあえずは無事!はやく連れ出す!」
背後の阪崎に、倉科が怒鳴った。
「阪崎!そっち持て!」
「はい!」
倉科と阪崎が、両側からデデンを抱え上げた。
そのまま、玄関に向かう。
倉科の背に、きいなが言った。
「出たら玄関を閉めて!アタシが出るまで入ってこないで!」
「出て、来るんだな⁉」
こちらを振り返った倉科が、念を押すように聞いた。
きいなと倉科の視線が、一瞬だけ交錯する。
廊下の壁を背に立ち上がると、きいなはサングラスをとった。
口元に、薄っすらと笑いを浮かべる。
「そのつもり。行って!」
倉科は阪崎を促すと、デデンを連れて302号室を出た。
ガチャン!と鉄製の扉が閉まる。
きいなは、畳んだサングラスを革ジャケットの襟にひっかけると、リビングへ足を向けた。
相変わらず、土足のままだ。
厚底のスニーカーが、ゴツゴツと硬い足音を響かせる。
赤い。
この暗さでもはっきりとわかるほどに。
リビングは、毒々しいまでの赤い瘴に満たされていた。
一週間前に訪れた時よりも、さらに濃さが増しているように思える。
きいなはキッチンに向き直った。
いた。
霧のような、煙のようなあの黒い人陰がそこにうっそりと立っている。
両手をだらりと垂らし、ゆうらゆうらと左右にゆっくり揺れていた。
足元に行くにつれ陰は薄くなり、その先は判然としない。
「よぉ…」
腰に手を置くと、きいなはそう言って頭をかいた。
「決着…つけに来たぜ」
黒い人陰は何も言わず、じっとこちらを見ている。
表情が、はっきりとわかるわけではない。
目も鼻も口も、そこには顔を判別できる人間らしい造作は一切見受けられない。
まさに陰だ。
ただ、なぜかこちらを見ていることだけはわかった。
きいなは左手に下げていた、白いビニール袋に右手を突っ込んだ。
透明の液体が入った、円筒形のガラス瓶を取り出す。
ワンカップの日本酒。
この部屋に来る前、コンビニへ立ち寄って買い求めたものだ。
「一杯、やるかい?」
きいなは蓋を開けると、躊躇わず中身を口に含んだ。
日本酒特有の香りが、一気に鼻へぬけた。
ぶーーっ!
口中のそれを、きいなは中空へ吹き出した。
霧雨状になった日本酒が、リビングにぶち撒けられる。
「安いけど、ウグス」
ウグスとは、沖縄の言葉で「御神酒」を意味する。
正式な祓いの儀式に用いる、神棚の御神酒を取りに戻る時間は無かった。
気休めながら、浄化の神酒だ。
その途端。
リビングに充満する赤い瘴が、人陰を中心にして渦を巻くようにうねり始める。
黒い人陰が、その密度を増した。
そう…イヤだろ。
きいなの目つきが鋭くなる。
視れるか…。
自らの額の一点に、意識を集中させた。
唇の隙間から、歌のような詠唱がもれ出た。
ぱちんっ!
ぱちんっ!
ぱちんっ!
瘴による空間の捻れが、そこここで音を立てる。
汝…今生に未練ありや!
きいなが、両手の掌を打ち合わせた。
パァァン!
突然。
視界がぱぁっと明るくなった。
カーテン越しに、明るい陽光がやんわりキッチンとリビングを照らし出す。
窓の外から、昼間の喧騒までが聞こえてきた。
男が一人、そこにいた。
リビングの床に座り込んで、壁にもたれている。
極端に色が白い肌に、切れ長の目。
こけて落ち窪んだ頬。
ぼさぼさの髪を、肩まで垂らしている。
よれよれの白いYシャツに、白いスリムパンツを履いたその男は、リビングの壁にむかって一心不乱に何かを書いていた。
手に握られているのは、ありふれた赤いマジックペンだ。
そう、リビングとキッチンの壁は、一面赤い文字がギッシリと書き込まれていた。一分の隙間もなく。
ぐねぐねとのたくるようなその文字の羅列は、やがて形をなして見えてきた。
ノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウノロウ…。
呪詛。
強烈な呪いの念が、壁に刻み込まれている。
汝、その怨嗟はナニモノに向いしか?
きいなが、男に意識を放った。
ぴた、と男の手がとまる。
ゆっくりと、その顔がこちらを向いた。
まるで、陽炎が立ち上るようにやんわりと、男が立ち上がった。
男はひきずるような足取りでキッチンに向かうと、包丁を取り上げた。
こちらを振り返る。
ずぶっ
ためらいなく、男がその鋭い切っ先を自らの喉に刺す。
肉と血管が断ち切られる音が、響く。
ざぐっ!ざぐっ!
男は、包丁を横に引いた。
喉に出来た切創から、どす黒い鮮血が噴水のように飛び散る。
壁や床、天井までが血に染まった。
「俺は…俺を呪う」
男が、そう言ってにたりと笑った。
…つづく。
※ この小説は筆者の創作であり、特定の団体、事件、個人とは一切関係ありません ※
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