第3話
こみあげてくる嘔気に耐えながら、きいなは両手を前にのばすと人差し指で中空に円を描いた。
そのまま胸の前で手のひらを合わせ、合掌する。
「…」
唇の隙間から、先ほどとよく似たアクセントの祝詞のような言葉がもれた。
黒い人陰が、一瞬だけゆらりと揺らめく。
ぱちんっ
ぱちんっ
なにかが弾けるような小さな音が、天井の辺りから立て続けに響いた。
足下から背中に、寒気が駆け上る。
室内の温度が、急激に下がったように感じた。
ざわざわと、全身に鳥肌が立つ。
間違いない。
穢の凝りは、この黒い人陰だ。
この部屋…特にリビングとダイニングキッチンに、穢から湧いた瘴がむせ返るほど充満している。
穢が形をとったことで、瘴から向けられる「あるもの」が先鋭化された。
赤い瘴から感じ取れるのは、純粋な「悪意」
皮膚がピリつくほどの剥き出しの悪意が、瘴から発せられている。
これでは、ひとたまりもない。
普通の人間がこれほどの瘴にさらされたら、よくて数ヶ月しか保つまい。
精神か、肉体か。
弱いほうが先に疲弊して、果てる。
それほどの邪な瘴だ。
汝、今生に未練絶ち難きものありや?
きいなが、黒い人陰に意思を投げかけた。
心の扉を少し開く。
もちろん、実際に扉があるわけではない。
その方が想像し易い、あくまで比喩的な表現だ。
その途端に、瘴が黒い奔流となってきいなに流れ込んできた。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…。
「…っ!」
危うくそれにのみ込まれそうになり、きいなが心を閉ざす。
冷や汗が吹き出した。
なんという悪意。
なんという殺意か。
これほど強く凝り固まっている穢は、きいなにとっても初めてだ。
ぱちんっ
ぱちんっ
ぱちんっ
部屋のそこここから、小さな破裂音が鳴る。
いわゆる心霊現象と呼ばれるものの一つに、ラップ音またはラップ現象がある。
何もない空間や部屋で、発生源のはっきりしない様々な音がするという怪異だ。
だがこれらの殆どは、気温や気圧、湿度などによって起こる自然現象にすぎない。
家鳴り、などと呼ばれるものだ。
しかしこれは、そんな生易しいものではない。
建材や金属が音を発しているのではなく、空間そのものから破裂音がしている。
瘴が部屋の空間を圧縮して捻り、音を鳴らせるのだ。
穢によって生じた瘴が、なんらかの物理的な作用を起こすのはかなり稀なこと。
それだけ、穢の凝りが強いと言える。
きいなは口中で詠唱を続けながら、ゆっくりと腰を屈めた。
吐き気はまだ、治まっていない。
片膝をつき、フローリングの床に右手をのばす。
人差し指の先で、一筆書きのようにして床に図形を描いた。
それは、円と短い直線を組み合わせた単純なもので、なにか意味があるのかは見ただけでは分からない。
ぱぁんっ!
一際、大きな破裂音がした。
「…痛っ!」
フローリングの床に、ぽたりと赤い滴が落ちる。
人差し指の腹が、斜めに切れていた。
そこから、血が滴っている。
瘴が障った。
空間の歪みに触れて、皮膚が裂けたのだ。
突然、床の小さな血溜まりから、ぶわっと黒い霧のようなものが立ち昇った。
きいなは右手を引いて、傷口を押さえた。
数歩、後ろに下がる。
こいつ…!
きいなの血から立ち昇った黒い霧が、天井付近で渦を巻いていた。
その中ほどから、だらり、と紐のようなものが垂れ下がった。
いや、紐ではない。
黒い霧の滴が凝縮したようなその細長い物体は、まるで意思をもつ生物のようにうねうねとのたくっていた。
穢が、実体化した…!
新しい血を糧にして、瘴が形を成した。
きいなは、胸の前で一度両手を打ち合わせると、ためらうこと無く左手でその物体を掴んだ。
なんとも言えない、軟体動物のようなねめついた不快な手触りに眉をしかめる。
左手を思いきり引いた。
「…ふっ!」
鋭く息を吐きながら、その物体を床に叩きつける。
びちゃっ!
水を含ませた布で、硬いものを叩いたような音がした。
黒く細長いその物体は、フローリングの床にまるで液体のように飛び散った。
その途端に、また湯気のように霧散する。
きいなは、小さく息を吐いた。
ダメだ。コイツは…儀式がいる。
ジーンズの尻ポケットから、真空パウチに入った白い粉を出すと、きいなはキッチンに向かった。
食器棚を開け、小皿を4枚取る。
キッチンのテーブルに皿を並べ、真空パウチから白い粉を等分に移した。
塩だ。
一度天日に晒して、3日にわたり自室の神棚に祀っていたものだ。
きいなはスマホを取り出して、アプリを起動した。
方位磁石…コンパスのアプリ。
かなり細かな目盛りがついており、現在位置からの方角がすぐに分かる。
スマホを見ながら、小皿の盛り塩を部屋の東西南北に配置した。
小皿を置くと、きいなはその真ん中に立った。
黒い人陰は、先ほどと変わらぬ場所にいる。
ただゆらゆらと揺らめきながら、こちらをじっと観察しているかのようだ。
「…」
きいなの口から、また祝詞のような詠唱がもれた。
すっ…と、黒い人陰が薄くなった。
真っ赤だった部屋も、いくらか色褪せた気がする。
時折おこっていた、破裂音も鳴りやんだ。
結界は、繋がった。
きいなは、ひとまず安堵の息をついた。
結界とは、元来は仏教用語だが後に密教の神秘主義と混ざり合い、通俗的には「特殊な力を有した界」という意味合いで使われる。
端境や、境という言葉は、この結界の大和言葉だ。
しかし、この部屋できいなが行ったのは、それとはまた異なるものだった。
きいなは、我々の世界から盛り塩で囲まれたこの部屋を「霊的に切り離した」のだ。
つまりは隔離した、と言える。
穢による影響を、最小限に抑えるためだ。
これで、しばらくは…。
きいなは踵を返すと、足早に廊下を走った。
自然に、息が上がっている。
外にいた誰かが閉じたであろう、鉄製の扉が見えた。
ドアノブを、乱暴にひねる。
302号室から飛び出し、後ろ手に扉を閉めた。
気づけば、今まで赤く染まっていた世界が、色を取り戻していた。
通路にいた倉科と阪崎、肘井が、普通ではない様子のきいなを見て驚いていた。
「ど、どうした?」
倉科が、きいなの肩に手をかけた。
肩が、小刻みに震えている。
今まで見たことも無いきいなの表情に、倉科の顔が険しくなった。
「無理、だったのか?」
「…いまできる鎮だけはした。本当の祓いには…少し準備がいる」
倉科の問いかけに、きいなが荒い息をつきながら答えた。
扉にもたれたまま、ずるずると尻もちをつく。
「ど、どういうことですか?」
心配そうな表情で、倉科ときいなの顔を見比べながら肘井が言った。
「い、一体この部屋になにが…?」
「わからない」
天を仰ぎながら、その問いかけにきいなが答える。
肘井の顔が、みるみる歪んだ。
「そ、そんな…先生あなた、霊媒師さんでしょ!」
「うっせぇな!霊媒師じゃねぇ、祓い屋!」
「おんなじじゃないですか!」
「ちげぇわ!だいたい、霊媒師も祓い屋もそんな便利じゃねぇ!なんでもかんでもわかるわけ無いっつうの!」
ファイルを抱えたまま、肘井がその場にへたり込んだ。
がくり、と頭を垂れる。
「どうすりゃいいんだ…社長からは、とっとと片付けろと急かされてるのに…」
「肘井さん、待ってください。彼女は祓い屋です。このまま放ってはおきません」
とりなすように、倉科が肘井に声をかけた。
「そうだろう?」
念を押すような倉科の言葉に、きいながため息をついた。
投げやりな口調で、言う。
「二週間…」
「え?」
「二週間だけ、誰もこの部屋に入れんな。その間に準備をする」
扉にもたれながらのろのろと立ち上がると、きいなはサングラスをかけた。
乱れた髪を、手ぐしで乱暴にかきあげる。
ファイルをめくりながら、肘井が弱々しく言った。
「近日中にはご遺族が荷物の整理に来ますし、特殊清掃ももう手配して…」
「ダメ。理由はなんでもいいから、誰もこの部屋には入れんな。さもなきゃ、また死人が出ると思って」
「そんな…まさか…」
肘井が、がくりと肩を落とした。
「ここの穢は普通じゃない。もう、忌み地だ」
「いみち?」
阪崎が、遠慮がちに口を開く。
忌地とは、厭地とも呼ばれ作物を連作したことにより枯れてしまった土地のことを指す。
しかし、忌み地は違う。
穢が凝った挙げ句に、足を踏み入れた人間に害を及ぼすまでになった場所のことだ。
そこでは、踏み入った人間に何が起こるか誰にもわからない。
そんなことを知るよしも無い阪崎が、言葉に詰まった。
「…すげぇヤバい場所っ…てこと」
きいなの言葉に、その場に居合わせた全員が顔を見合わせた。
重い沈黙が、垂れこめる。
遠くから、町内放送の声が微かに響いてきた。
…つづく。
※ この小説は筆者の創作であり、特定の団体、事件、個人とは一切関係ありません ※
※ 本作品の無断転載は、かたくお断りいたします ※
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