第2話


「この車さぁ。目立つんだけど」



後部座席で、シートの背に肘をついてもたれながら、きいなが不満気につぶやく。


あまり車通りが多くない県道を、阪崎の運転する小型警ら車が走っていた。


運転席の時計によれば、時間は15時を少し回ったばかり。



「まるで、アタシが捕まったみたいじゃね?」


「乗り慣れたもんだろ。地元じゃ相当ご厄介になってたはずだぞ」


「ちっ!」



助手席に座る倉科の言葉に、きいなが舌打ちしてそっぽを向く。


結んでいた髪を下ろし、派手なプリントTシャツとズタズタのダメージジーンズ。

それに厚底の革ブーツを履いたきいなは、一見すればロックミュージシャンのようだ。


ご丁寧に、厚手のサングラスまでかけている。



「お二人は、古くからのお知り合いですか?」



阪崎が、とりつくろうように明るく声を上げた。



「上京してきてからだから…何年になるかな?」


「忘れたよ」



倉科の問いかけを、きいながにべもなく受け流す。


かまわず、倉科が続けた。



「こいつは沖縄の出身でな。こっちへ上京する時に、俺の一期上だった沖縄県警の金城さんて人から紹介されたんだ」


「むかつくヤツの話をすんな。万年ヒラ巡査のくせにやたらウチらの保護者ぶって、キンポが」


「金城さん、だろ。お前ら地元のクソガキ共は、あの人には頭が上がらないはずだ」


「ポリの金城だからキンポ。単なるお節介なオッサン」



その言葉に、倉科が鼻で笑った。



「憎まれ口だけは、上京当時と変わらないな」


「その時から、その…祓い屋…なんですか?」



おずおずと、阪崎が口をはさむ。



「コイツ、こんなだろ?バイトもなかなか続かなくてな。ちょうど先任の祓い屋が引退だって言うんで、俺から上に具申したんだ。話は金城さんから聞いていたんでね」


「な、なるほど」



合点がいったのかどうなのか、阪崎があいまいな返事を返した。



「他人のプライベートを、勝手にべらべら喋んな」


「阪崎は俺の後任だ。知っておいてもらわないとな」



聞き逃してしまいそうなほど何気ない倉科の言葉に、阪崎は驚いて急ブレーキを踏んだ。


小型警ら車の車体がガクガクと揺れ、エンジンが咳き込む。


エンストを起こす寸前だ。



「おいおい、あぶねぇわ!」



きいなが後部座席からずり落ちそうになりながら、声を上げた。


阪崎が慌てて、ハンドルを握りなおす。


車と阪崎は、数分してなんとか落ち着いた。



「こ、後任て…え?」


「俺が定年退職したら、お前がこの仕事を引き継ぐんだよ」


「えぇぇぇっ⁉」





小型警ら車は、郊外の住宅地にあるマンションの駐車場に停車した。


建物は、県道に沿って北から南にのびる長方形で、正面にはやや広めの駐車場がある。


裏側は新興住宅地になっており、ブロック塀を挟んですぐ建売の住宅が隙間なく並んでいた。 


まだ真新しい外観の、5階建ての賃貸マンションである。



小型警ら車から降りたきいなたち3人に、駐車場の軽自動車から降りたスーツ姿の男が小走りに近づいてきた。


おどおどと、声をかける。



「生活安全課の倉科さんですか?」


「あ、ご足労どうも。萬福不動産の…」


「肘井です」



整髪料で頭をぴったりと撫でつけた、年齢不詳の痩せた男が、名刺を差し出しながらそう言って頭を下げた。


このマンションを管理している、不動産会社の社員だろう。



「五浦中央署、生活安全課の倉科です。こちらが阪崎」


「で、では…そちらが…?」



きいなを見て、肘井が不安げに眉をひそめる。



「専門家の先生です。わけあって名前は明かせませんので、先生とお呼びください」



倉科が、とりなすように言った。



「行きましょう」



倉科に促された肘井の案内で、4人がマンションに入った。


東側に少し張り出した玄関ロビーは明るく、部屋番号のプレートが貼られた郵便受けが北側の壁に並んでいる。


管理人などはいないようだ。


ここだけを見れば、特に変わったところもないよくある賃貸マンションに見える。


郵便受けを見ると、一つの階にある部屋は01から04を飛ばして06号室までの5部屋。


5階建てのマンションなので、全部で25部屋か。



「こちらへ。302号室です」



ファイルを抱えた肘井が、西側の突き当りにあるエレベーターを指し示した。




エレベーターの扉が開いて、4人が3階に降り立った。


南にのびる通路を行くと、すぐに鉄製の扉に黒い鍵がぶら下がっている部屋がある。


302号室だ。



「中はまだ、そのままなんですが…」



肘井がそう言いながら、ナンバー式の鍵を外した。


ドアノブを回すと、軽い音を立てて扉が少し開く。



「待ってて。一人で行く」



きいなが、肘井からドアノブを奪った。


玄関口には、男性用のスニーカーや革靴が雑然と並んでいる。


カーテンを締め切られた室内は、やや薄暗かった。



「悪いけど、脱がないよ」



そう言うと、きいなが土足のまま廊下に上がった。



「あっ…ちょっ…!」


「すいませんね。このままで」



慌てる肘井を、倉科が押し止める。


ガツ、ガツとブーツの音が廊下に響く。



 臭い。



まず、きいなが感じたのが部屋中に漂う異臭だった。


おそらくは遺体の腐臭であろう。


当たり前のことだが、人間に限らず動物が死ねば遺体は腐敗を始める。


発見まで数日間あったと言うことは、よほど寒い時期ででも無ければ遺体が腐乱を始めるには充分な時間だ。


部屋は、およそ3LDKか。


廊下の途中、北側の壁に半開きの引き戸がある。


きいなは、ちらりと中を覗いた。


大小いくつかのダンボール箱と、衣服を吊った金属製のハンガーラック、パイプベッドが据付られていた。


どうやら寝室のようだ。


整頓されているとは言い難いが、特に変わったところは無いように見える。


腐臭も薄い。


遺体はここには無かったようだ。


きいなは、サングラスを外してTシャツの首にかけた。


そのまま、靴音を鳴らしながら廊下を奥に進む。



 しゃっ



なにかが、空を切るような音がした。


その場に立ち止まると、きいなは耳をすます。



 しゃっ



もう一度、先ほどと似た音がした。


長い紐を振り回して、それが空気を切るような鋭い音だ。



「…」



きいなは、ふたたび歩きだした。


南側のドアは、トイレとバスルームだろう。


ちらりとそちらを見ると、あまり関心がないようにそのまま素通りする。


廊下の突き当りに、ガラス格子のドアがあった。


下段の1枚だけ、ガラスに割れ目が走っている。


きいなは、躊躇なくドアを開く。


その途端、澱んだ空気と腐臭がむわっと体に纏わりついた。


東側がこじんまりしたダイニングキッチンで、いまは開け放たれている引き戸で仕切られた、西側の部屋がリビング。


赤い。


いきなり、視界を赤い色が支配した。


血のような、粘液質のどす黒い赤では無い。


真紅の花の花弁のような、鮮やかな真っ赤だ。


カーテン、家具、目に入るもの全てが赤い。


もちろん壁紙や床が赤く塗られているわけでも無く、この空間そのものが赤いのだ。


まるで赤いセロファン越しに、部屋を見ているような錯覚に陥る。


きいなは唇の前に右手の人差し指を上げると、ぶつぶつと何事かを呟いた。


「…」


小さすぎて聞き取れないが、なにか意味のある言葉ではあるようだ。


神社で神主が唱える祝詞のような、しかしどこか異質な言葉の羅列だ。


しかし、赤く染まった光景に変化は無い。


きいなは、リビングに足を向けた。


部屋の真ん中、小さなガラステーブルの前にソファがある。


そこに、なんとも言えない色の染みが広がっていた。


ちょうど、壁際に置かれた液晶テレビの真向かい。


ソファの背もたれから床にかけて、じんわりとその染みが続いている。


かなり大きい。


そう、成人男性1人分くらいの幅と大きさだ。


おそらく、この部屋の主はこの場所でソファに腰掛けたまま亡くなったのだろう。



 しゃっ



先ほどと同じ音がした。


きいなの髪が、風もないのに数本だけふわりとなびいた。


もちろん、窓はすべて閉め切られている。



 瘴がつよい。



日本で瘴という言葉は、熱帯性の病やそれを生み出す風土そのものを指す。


しかし、きいなの言う瘴はもちろんそれとは全く異なるものだ。


悪い気…汚れた気とでも言うべきか。


そう言った類のものを、まとめて瘴と呼んでいる。



 なんだ、この…赤い瘴は?



いま、この空間に充満する赤い色は、実はきいなにしか見えていない。


いや、見えない。


それは、瘴の色だからだ。


我々、普通の人間がこの部屋に足を踏み入れたとしても、せいぜいが「怖気を感じる」くらいだろう。


瘴は、穢に呼ばれる。



 穢の始まりは、なんだ?



きいなは、ソファの染みに顔を近づけた。


いまはもう嗅ぎ慣れた腐臭が、一層強く鼻をつく。


なにも感じない。



 これじゃない。



キッチンの方を見ると、きいなは目を細めた。


小さめのシステムキッチンは、皿や食器が無造作に重ねられている。


炊飯器のランプは、点きっぱなしだ。


と一瞬、その光景がぼんやりと滲んだ。


きいなの項に生えている産毛が、一斉に逆立つ。


そこに、黒く濁った排煙のようなものが、渦巻きながらゆらゆらと揺れていた。


最初から居たのかすら、わからない。



「お前が…」



いつの間にか、きいなの喉はからからに渇いていた。


舌が、下顎にへばりついたようだ。


その黒い排煙は、少しずつ凝り固まって人の形を成した。


赤い空間に佇む、黒い人陰。


それは、まさにこの世ならざる光景だ。


だらりと垂れ下がっていたその黒い右手が、うねりながら上がっていく。


ちょうど自分の喉の辺りで、右手が止まった。


じわりと、横に動く。



 しゃっ



また、あの音がした。


黒い人影の喉から、生々しい真っ赤な鮮血が飛び散った。


それは中空に霧散し、たちまち赤い瘴となる。


横隔膜を下から押し上げられたように、いきなり胃が押し潰される感覚があった。


胃液が逆流し、きいなは激しい吐き気を催していた。



…つづく。



※ この小説は筆者の創作であり、特定の団体、事件、個人とは一切関係ありません ※


※ 本作品の無断転載は、かたくお断りいたします ※

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