◆ 事故物件・赤い部屋 ◆
能仲 賢円
第1話
東京都五浦市。
都の北西部に位置する五浦市は、近年でこそ24区のベッドタウンとして新興住宅地が増えつつあるが、それまでは長閑な田園風景や奥多摩、青梅市に続く緑あふれる山地が連なる、ありふれた地方都市の一つに過ぎなかった。
都内中心部から直接乗り入れている志田急線五浦パークタウン駅の周辺は、市役所などの行政機関や企業ビル、アーケード街などが集まり繁華街として賑わっている。
駅前の大通りを進み、しばらくオフィス街を歩くと行き当たるのが数年前に建て替えたばかりの警視庁五浦中央警察署新庁舎だ。
モダンな庁舎の一階、生活安全課では制服姿の警察官が忙しく立ち働いていた。
生活安全課とは、ひらたく言えば市民の生活に比較的近い要件…少年犯罪や家庭内暴力、ストーカーなどの迷惑行為や風俗営業、経済犯罪などを主に扱う部署である。
デスクで書類束を片手にパソコンのディスプレイを睨んでいるのは、生活安全課の倉科正巡査長だ。
白髪交じりの短髪に、日焼けした角張った顔つき。
顔に刻まれた深い皺が、倉科が壮年かそれに近い年齢であることを示している。
倉科は背を丸め、太い指で辿々しくキーボードを叩きながらしきりに中指で眼鏡を直していた。
そんな倉科の肩を、後ろから誰かが軽く叩いた。
「倉科くん」
「課長?」
倉科の肩を叩いたのは、生活安全課の課長である笹岡雄吉巡査部長だった。
笹岡は細面の顔に微笑を浮かべながら、倉科のデスクに持っていた書類を置いた。
見た目では、倉科よりも笹岡の方がやや若いかも知れない。
「いまの要件は少し遅れてもかまわんから、こちらを優先させてもらえるか?」
「これは?」
「今朝、一係さんから降りてきた調書だ。昨夜、通報があった不審死の」
「あぁ」
市内の住宅地にあるマンションで、数日前から連絡がとれなくなっていた男性が変死体として発見された。と、聞いている。
倉科は、その書類…調書を取り上げるとぺらぺらとめくった。
「現場検証も、鑑識も終わってますね。身元も照会できて、司法解剖も済んでいる。事件性は…無し」
「刑事事件で無いことははっきりしてる。ただ、ね」
「ただ?」
笹岡が、口を歪めてため息をついた。
なんとも言えない表情だ。
「どうやら、上は君の担当案件だと判断したらしい。詳しいことは調書に目を通してくれたまえ。ま、例のようによろしく頼むよ」
「はぁ」
気のない返事をしながら、倉科は頭をかいた。
眼鏡をケースに入れ、椅子から立ち上がった倉科は向かいのデスクにいる若い巡査に声をかけた。
「阪崎、ちょっと良いか?」
阪崎と呼ばれた若い巡査は、パソコンのディスプレイから顔を上げた。
やや茶髪に近い栗色の髪に、これと言って特徴の無い平凡な顔立ち。
年齢はまだ、二十代半ばといったところか。
なんとかという新人俳優に似ているらしいが、あいにく倉科はその俳優を知らなかった。
昨年、警察学校を出てこの五浦警察署に赴任してきた新人巡査だ。
「倉科さん、なにか?」
「いまから出る。付き合ってくれ」
「どういった要件ですか?」
「おいおい話す」
そう言うと、倉科は笑顔で手招きした。
装備を整えて五浦中央警察署を出た倉科と阪崎は、阪崎の運転する小型警ら車で15分ほど市内を南に走った。
小型警ら車の助手席で、倉科は行き先を告げた後は一言も喋らずに笹岡から渡された調書を読んでいた。
不審に感じると言うより、拍子抜けしたのは阪崎の方だ。
…話すんじゃないのかよ?
そうは思ったが、こちらから無理に話しかけるわけにもいかず、阪崎もまた運転中は無言のままだった。
繁華街から少し離れた新興住宅地の近くにある駐在所に小型警ら車を停めると、二人は連れ立って歩き始めた。
「俺がもうすぐ定年退職だってのは知ってるよな?」
歩道を歩きながら、倉科がぽつりとつぶやいた。
阪崎が、慌てて頷く。
「はい。来年…でしたよね?」
「そうだ」
制服の襟の階級章を指しながら、倉科が続けた。
「この年齢で巡査長だ。まぁ出世とは縁のない警察官人生だったがな」
「そんな…」
なんと言っていいかわからず、阪崎が言葉を濁す。
巡査長は、巡査の一つ上の階級だ。
これは勤続10年を越えれば、昇級試験を受けなくても警察官ならば誰でもなれる。
いわば名誉職のようなものだ。
倉科がなぜ昇級試験を受けなかったのか、または受けられない事情があったのかまでは阪崎も知らない。
「交番勤務から始まって、生活安全課に配属されて20年…そんな俺にも、任されてた仕事がある」
「任されてた…仕事ですか?」
警察官として、生活安全課の職務以外に何があると言うのだろう。
阪崎は首を傾げた。
「着いた。ここだ」
倉科が立ち止まったため、阪崎も自然に歩みを止めた。
二人の目の前には、かなり築年数の経過した古びたマンションがあった。
壁のタイルはあちこち欠け、色褪せたコンクリートがなんとも言えない寂れた雰囲気を醸し出している。
「ここって…あ、倉科さん!」
勝手知ったると言うやつか、倉科はマンションの玄関から中に入った。
阪崎が、慌ててその後を追う。
扉が開くだけでやたらと騒音を立てる年代物のエレベーターに乗ると、倉科は三階のボタンを押した。
「阪崎、お前オバケって信じるか?」
エレベーターの中で、倉科がいきなり問いかけてきた。
阪崎が、怪訝な表情で返事をする。
「は?…オバケ…ですか?」
「そう。オバケ」
阪崎は一瞬、自分がからかわれているのかと思った。
「いや…自分は、そういったものはあまり…」
「気が合うな。俺もだ」
エレベーターの階数表示を見上げながら、倉科はそう言って軽く笑った。
「そのくらいで、ちょうどいい」
「はぁい。ユタカさんスパチャいただきましたぁパチパチパチ!」
甘ったるい女性の声に、阪崎は面食らってその場に立ち尽くした。
玄関から少し入ったところにキッチンがあり、そこから奥に廊下が続いている。
雑然としたキッチン越しに見える奥の部屋は、ピンクのカーテンで三方を仕切られていた。
部屋の西側にあるデスクの上には、パソコンや丸型のライト、カメラ、それにいささか大きなマイクなどが設置されている。
インターネット配信の為の機材だろう。
大ぶりな椅子の上には、若い女性の姿があった。
倉科が、小さく咳払いをする。
女性は一瞬だけ、こちらに目を向けた。
すぐにカメラに視線を戻す。
「みんなゴメンねぇ。朝からなんか機材の調子が悪いみたいだから、今日の配信は終わります。あぁ〜レインさん来たばっかりでゴメンなさい!」
女性はカメラに向かって、泣き真似をしながらそう言った。
すこし舌っ足らずな甘え声はそのままだ。
「あ、ゲンゴロウ1号さん最後のスパチャありがとぉ〜。じゃあ、今日はちょっと早いけど申し訳ない〜バイバァ〜イ!LOLLIPOP SEESAWのきいなでした!またね!」
女性はカメラに向かって微笑みながら手を振ると、カメラとマイクのスイッチを切った。
デスクの上を片付けながら、パソコンのマウスを器用にあやつってあちこち機材や配信ソフトを点検しているようだ。
「よし…切れてんな」
そう言うと、女性は椅子から立ち上がってこちらへ向かってきた。
足取りに怒りがこもっている。
キッチンのシンクを平手で叩くと、女性がまくしたてた。
「倉科のオッサン!何度言えばわかんだよ!配信中は入ってくんなって言っただろ!」
「インターホン鳴らしたけど出なかったからな」
「壊れてるって知ってんだろうが!」
倉科の答えに、女性はさらに眉を吊り上げる。
先程までの甘え声とは百八十度違う、ドスの効いた高音だ。
年齢はまだ若い。20代はじめくらいだろうか。
薄いピンクに染めた長い髪を両側頭部で縛る、いわゆるツインテールという髪形だ。
大きな瞳に、やや高めの鼻梁。長いまつ毛。
どちらかと言えば、日本人と言うよりハーフのようなはっきりとした顔立ちの美少女だ。
肌は白く、少し痩せ気味に見える。
ビッグサイズのTシャツにボクサーパンツという、ラフというよりもほとんど下着か寝間着のような出で立ちだ。
「鍵が開いてたから、居るかと思ったんだが」
倉科はそう言うと、玄関に腰掛けた。
「鍵が開いてるから勝手に入るってのは、不法侵入とか言うんじゃなかったっけか?」
「あ、コイツはうち(生活安全課)の新入りで、阪崎」
阪崎を指さしながら、倉科が素知らぬ顔で言う。
慌てて敬礼すると、阪崎は背筋を伸ばした。
「阪崎雄一郎巡査です」
「知らねぇよ!」
「そう言うな。阪崎、この人が眞境名沙織さん」
「だから、本名は嫌いだっつってんだろ!」
眞境名沙織と呼ばれた女性は、シンクに転がっていた空き缶を拾うとキッチンに置いた。
ボクサーパンツのポケットに入っていたグシャグシャのマルボロを取り出すと、一本だけ咥えてライターで火を点ける。
「煙草は喉によくないぞ」
「うるっせぇ!」
キッチンに立てかけてあった、脚の長い折りたたみ椅子を起こすと、眞境名沙織はそこに座って脚を組んだ。
右足首の内側に、小さな梵字のタトゥーがある。
「倉科さん、この方…あ、いや眞境名さんがいったいどうゆう…?」
阪崎が、所在なく制帽を直しながら倉科に尋ねた。
「きいな」
「は?」
「本名は嫌いだって言っただろ。きいなでいいよ」
眞境名沙織…いや、きいなはそう言うと紫煙を一気に吐き出した。
先程の空き缶に、煙草の灰を落とす。
「きいなは芸名だろう?」
「いいんだよ。うっせぇな」
倉科の言葉に、きいなが面倒くさげに答える。
そのまま、押し黙った。
状況のわからない阪崎にとっては、やや気まずい空気が流れる。
束の間の沈黙を破ったのは、倉科だった。
「彼女は、祓い屋だ」
「はらい…や?」
聞き慣れない言葉に、阪崎は返答に窮した。
きいなは相変わらずそっぽを向いたまま、無言で煙草を吸っている。
「月に一件…いや、二件くらいかな。警察官じゃどうにもならないヤマが出ることがある。やれ祟りやら、呪いやら、霊やら、物の怪やら…六法全書には答えが載ってないヤマだ」
「霊…ですか?」
意外な倉科の言葉に、阪崎はなんと返答すれば良いか答えが出てこない。
「そんな時には、祓い屋が呼ばれる。それで上手くいく時もあるし、どうにもならない時もある。結果はまちまちだ」
「まさか…」
阪崎は次の言葉をのみこんだ。
霊?…呪いに、物の怪だって…?いくらなんでも、そんなものがこの世に存在するわけがない。
それを祓う、祓い屋?
眼の前のこの女性がそうだと言うのか?
「言いたいことはわかるよ」
煙草の煙を吐き出しながら、きいながそう言った。
「え…?」
内心を見透かされたような気がして、阪崎は息をのんだ。
「正直なとこ、アタシにもよくわかんないからね。まぁ、アタシのは母親の見様見真似だから」
「母親…?」
「そういう血筋なんだって。見えるし、感じるし…ものによっては祓える。全部が全部じゃないし、わけのわかんないのもある」
「俺は、警察と祓い屋の折衝役だよ。こいつが、俺の任された仕事だ」
倉科はそう言うと、笹岡課長から手渡された調書を廊下に置いた。
「また頼むよ」
「今週末は現場があんだよ、知ってんだろ」
「ライブか。それまでに済ませれば良いだろう」
「やったこともねぇヤツが偉そうに言ってんじゃねぇよ。そんな簡単なもんじゃないのは、あんただって知ってるよな。それに、アタシにとって祓い屋はあくまでバイトなんだからね」
きいなはそう言うと、空き缶で煙草をもみ消した。
シンクの上に、灰がバサッと落ちる。
「そのバイトのおかげで、本業のアイドルができてるんだから少しは感謝してもらいたいもんだがな」
「あ、アイドル?」
倉科の言葉に、坂崎が呆れたような声を上げる。
「アイドルの何が悪いんだよ?」
きいなが、阪崎を睨みつけた。
「や、別に悪いとかそんな意味じゃ…」
「じゃあ、なんだよ?」
問い詰められた阪崎が、しどろもどろになる。
にやにやしながら、倉科が口を開いた。
「アイドルっても、アレだ。地下アイドルってヤツだ。滅多にテレビなんかにゃ出ない。そんなに恐れ多いもんじゃないさ」
「一言余計なんだよ!アイドルのことなんて、知りもしねぇオッサンがよ」
きいなはひったくるように調書を取ると、それでもページをめくり始めた。
倉科がゆっくりと説明する。
「同じ部屋で、今年にはいってから不審死が4人だ。いずれも事件性はなく、司法解剖の結果から自殺が1名、自然死が3名ということになっている」
「そ、そうなんですか?」
初耳だった阪崎が、驚いて声を上げた。
「事故…物件とかってヤツですか?」
「バカか、おめぇ」
きいなが、ため息交じりに言った。
「人が死んだとこが事故物件なら、病院なんて大事故物件だっつうの」
「そりゃ…まぁそうですが…」
「一番可能性が高いのが、偶然」
きいなはそう言うと、また煙草に火を点けた。
さすがに、阪崎が声を上げる。
「偶然って、それはいくらなんでも」
「あるんだよ、そういう考えられないような偶然が」
阪崎の反駁に、きいながぴしゃりと言い放った。
不承不承、阪崎が口をつぐむ。
「もちろん、事故物件とかってのが無いわけじゃない」
「え…?」
きいなのその言葉に、阪崎がぽかんと口を開く。
「穢が凝った場所には、人を惹く力がある」
「けがれ?」
「母親がそう言ってたから、アタシも言ってるだけ。穢ってのは、まぁあれ。水ってさ、流れてないと溜まって腐るっしょ?ああいうこと…って、まぁわかんないか」
きいなが乱雑に頭をかいた。
「…さすがに写真じゃ無理だよ」
「遺体か?」
「死んだ人間見たって気持ち悪いだけっしょ。部屋を見たいけどできる?」
「必要なら話は通す。なんせ、泣きついてきたのは不動産屋だからな」
きいなは調書を廊下に放り投げると、折りたたみ椅子から立ち上がった。
くわえ煙草のままで、大きくのびをする。
「やるならちゃちゃっと片付けよう。着替えるから出て」
きいなはそう言うと、奥の部屋に向かった。
…つづく。
※ この小説は筆者の創作であり、特定の団体、事件、個人とは一切関係ありません ※
※ 本作品の無断転載は、かたくお断りいたします ※
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