第20話

「逃げる?」


「私、人を食べたんだよ? 嫌でしょう?」



聞くと圭太が驚いたように目を丸くして私を見つめた。

そして、キツク抱きしめてくる。

息が詰まるほど強い力で抱きしめられて私は困惑する。



「嫌なもんか」


「え?」



自分の耳を疑った。

どれだけ相手のことを好きでも、人肉を食べる恋人なんて嫌に決まってる。

けれど圭太は嫌じゃないと言った。



「感染者は異常なくらいの食欲があるんだ。そのことは他の感染者を見てわかってた。それでも薫は今までずっと我慢してたんじゃないか。俺のためでもあったんだろう?」



そう質問されても胸がいっぱいで返事ができなかった。

そこまで私のことを考えてくれているなんて、思ってもいなかったから。



「本当にありがとう。でも俺は大丈夫だから、薫にはちゃんと食事をしてほしい」



その優しさに涙が止まらなくなってしまう。

次から次へと溢れ出す涙を手の甲で拭って、泣き笑いの顔を浮かべた。



「ありがとう圭太」



圭太の首に両手を回して自分から抱きつく。

ずっとずっとこうしていたい。



感染しているとか、していないとか、そんなことは関係ない。

そんな次元に私達は存在していない。

そう、思いたかった。


でも……。

私はそっと圭太の身から離れた。

私はもう人肉の美味しさを知ってしまった。


無意識の内に圭太の頬を舐めてしまったということは、無意識の内に圭太を襲う可能性だってあった。

それだけは避けないといけない。

圭太だけは、守りたい。



「私は、圭太のその気持だけで生きていける」


「薫?」



次の言葉を感づいたように圭太が不安げな表情を浮かべる。



「そんな顔しないで、笑っていて」



私は圭太の頬に手を伸ばして両手で包み込んだ。

とてもあたたかくて、優しい体温をしている。

でも、圭太に触れるのはこれで最後にしようを思っていた。

これ以上一緒にいることはできない。



「別れよう、圭太」





私の言葉に圭太が唖然としている間に私はその場を離れた。

圭太からの返事を聞かずに離れるなんて自分に都合がいいと思うけれど、これ以上負担をかけるわけにはいかなかった。

圭太がどんな気持ちで死体を運んできたのか、それを考えるだけで胸が苦しくなってしまう。


本当はひとりでいるなんて耐えられない。

圭太と別れることだって辛くてたまらない。

だけど、圭太ひとりだけならこれほど困難な状況に立たされることもなかったはずなんだ。


私が圭太の足を引っ張っている。

下手をすれば、私も圭太も共倒れになってしまうかもしれない。

それだけは避けないといけないことだった。


食事を済ませた私の体力は自分でも驚くほどに回復していた。

足取りも軽く、さっきまでの体の重さもどこかへ吹き飛んでいた。


このまま昇降口へ向かい、自衛隊員に撃ち殺して貰えばいい。

ここで自分の人生が終わるのは最初から決まっていたことなんだ。

自分にそう言い聞かせて昇降口へ近づいていく。


自衛隊員の姿が視界に入った瞬間、思わず足を止めてしまっていた。

殺されるためにここまで来たのに。



空腹に苛まれていたときには一刻も早く殺してほしいと思って、必死に足を前に進めていたのに。

満腹になった今は恐怖心が湧き上がってきてしまったのだ。

ここまで来てなにを迷っているの?


これ以上、ここで生きることにしがみつくつもり?

自分に言い聞かせて早鐘を打ち始めていた心臓を鎮める。

ここで生き続けるということは人肉を食べ続けるということだ。


それはできない。

私にそんな度胸は備わっていない。

小さな肉片ですら、食べるのをあれだけ躊躇してしまった。


それなのに、自分で非感染者を殺すなんてこと、不可能だ。

また一歩前に足を踏み出す。


自衛隊員たちはまだ私の姿に気がついていない。

まだ引き返すことができる距離にいるけれど、もう回れ右なんてできなかった。

勇気を出してまた一歩前へ移動する。



もう少し。


もう少しで自衛隊員が気がついて私を撃ち殺してくれるはずだ。

恐怖から握りしめた拳にじっとりと汗がにじむ。

呼吸を整えて、もう一歩前へ……。



「みぃつけたぁ」



粘っこい声が後方から聞こえてきて振り向いた。

そこに立っていたのは音楽室で見かけたあの男子生徒だった。

男子生徒は圭太の攻撃によって右肩が折れていて、ダランと垂れ下がっている。

けれど左手にはしっかりと包丁が握りしめられていた。



「ヒッ」



小さく悲鳴を上げて逃げようとするが、すかさず廊下を塞ぐように立ち塞がられてしまった。



「こんなところにいたんだね、薫ちゃん」



ペロリと赤い舌をのぞかせて舌なめずりをするその姿は、まるで獲物を見つけたハイエナみたいだ。

男子生徒の目は血走り、そして口角は楽しげに歪んでいる。

人を殺すことに快楽を覚えた殺人鬼そのものの姿だ。



全身に寒気が走り、早く逃げないとと警告音が脳裏に鳴り響く。

だけど後方は昇降口で、廊下は彼によって塞がれていて逃げ道はどこにもない。

いっそ、昇降口へ向けて駆けたほうがいいかもしれない。


緊張からゴクリと唾を飲み込んで後方を確認する。

それを彼は見逃さなかった。



「もしかして外へ逃げようとしてる? 無駄だよ。その前に撃ち殺される」



彼は楽しげな声で言う。

私は歯噛みしたい気持ちを押し殺して彼を睨みつけた。



「そんなのわかってる」


「そっかぁ。じゃあおとなしくこっちにおいで」



男子生徒がおいでおいでと手招きをするけれど、行くわけがなかった。

後ろへ逃げることも前へ進むことも敵わない中、男子生徒がジリジリと距離を詰めてくる。

野球バッドを校長室に置いてきてしまったことが今更ながら悔やまれる。



「さぁ、僕が殺してあげようか。どこを刺してほしい? お腹かな? それとも太ももかな?」



弱いものを嬲るように声をかけて近づいてくる。



「あんた、イジメられてたんだったっけ? それなのに、よくそんな非道なことができるよね?」



私はジリジリと後退して距離を保ちながら、必死に去勢を張る。

それでも声は震えてしまって、うまく行かなかった。

男子生徒は笑みを浮かべたままで怯んだ様子はない。



「あぁそうだよ、僕はイジメられてた。こうやって、ジワジワと追い詰められたこともある」



彼は当時のことを思い出すように目を細める。

それはごく普通の記憶を呼び覚ましているような雰囲気だった。



「だから、感染したヤツらにも同じようなことをしてやった。僕をイジメていたヤツらを、とことん追い詰めてゆっくり殺したんだ」



その表情はうっとりとしたものに変化していた。

自分がしたことを自分で称えるように声を張り上げて笑う。

その様子は狂っているとしか思えなかった。



「この状況になって僕はやっとヤツらに復讐ができたんだ! それだけじゃない。普段から僕をバカにしていた連中全員を殺すことができたんだ!」



両手を天へ向けて吠える。

その言葉に私はハッと息を飲んだ。

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