第18話

空腹感を刺激されたためか、途端に立っていられなくなってその場に座り込んでしまった。

グルグルと目が回るような空腹感。


立ち上がり、校長室まで戻る余裕も消え失せた。

自分が手に持っているものが人肉だという認識も薄れて、ただ美味しそうな食べ物に見えてくる。


ダメ。

いけない。

絶対にダメ。


もう1人の自分がどこからか話し掛けてくる。

必死に自分の行動とを止めようとしてくるけれど、無理だった。


一度口元に近づけた人肉を元に戻すことはできず、私は口の中に放り込んでいたのだ。

途端に口いっぱいに広がる美味に目を見開いた。


甘くて濃厚で、すごく歯ごたえがある。

それはひどく上質な肉だった。

生のまま長時間ポケットに入れていたものだなんて思えないくらいに美味しい。


「美味しい……」



人肉を咀嚼しながら、気がつけばボロボロと涙がこぼれ落ちていた。

人間としての尊厳を自ら放棄した。

人としての気持ちを捨ててしまった。


そんな絶望的な気分だ。

だけど美味しさが口に広がっていて、満足感が体を満たしていく。


強い空腹感に抗い続けてきたからその分この一口が極上の贅沢になった。

ゆっくりと肉片を噛み締めて、いつまでもいつまでも飲み込みたくない。


ずっと舌の上で転がしておきたい。



「美味しい……どうして美味しいの……」



膝を抱えて頭をたれて、私は泣きながらずっと人肉を味わっていたのだった。





1度美味しいものを味わってしまうと、舌がそれを求め続けてしまう。

校長室へ戻ってきた私はさっきよりも強い空腹感に悩まされていた。

またあの肉を食べたい。

お腹いっぱいに食べたい。


ソファに横になって目をキツク閉じてなにも考えないとするのだけれど、なかなかうまく行かない。

思い出すのは人肉にかぶりついている感染者たちの姿ばかりだ。

麻子に頼めば、あの死体を少しは分けてくれるだろうか。

そんなことを考えて慌てて左右に首を振る。


そんなこと考えちゃダメ。

私はもう絶対に人肉なんて食べないんだから!

おとなしく眠れないのも空腹感のせいだった。


さっきから何度もトイレで水を飲んでいるけれど、全然満たされない。

苦しくて胃がギリギリと押し上げられるような苦痛を感じる。


ソファの上で身じろぎをしたとき、フワリと美味しそうな香りが漂ってきて私は目を開けた。



校長室の中にいるのは私と圭太の2人だけで、他には誰もいない。

圭太はテーブルを挟んで向かい側のソファで横になり、寝息を立てていた。


あぁ……この匂いの正体は圭太だ。

すぐに感づいた。

音楽室で男子生徒の吐息が頬にかかったときにも感じた、美味しそうな匂い。


非感染者の息や唾、体内から吐き出されるそれらは私達にとって食料の香りそのものだった。

まだ新鮮で、食べごたえのある肉。

ゴクリと唾を飲み込んだ私は自分でも気が付かない内に圭太の前に立っていた。


圭太はそれにも気が付かず、規則正しく寝息を立てている。

今ここで私が圭太を襲っても反撃はできないだろう。

そっと顔を近づけて圭太の匂いを嗅ぐ。


甘くて、深い香りがする。

圭太ってこんなに美味しそうな匂いをしていたんだ。

お腹がぎゅるると音と立てて、制服の上から抑え込む。


どれだけ無視しようとしても、できなかった。

圭太の頬に顔を寄せて、チロリと赤い舌を出して舐めてみる。


ほどよい塩辛さと、強い甘みが口に広がっていく。



私はハッと息を呑んで後ずさりをしていた。

今、私はなにを……?


舌先に残る旨味が圭太の肉の味。

私は圭太を食べようとした?


ゾクリと全身が寒くなって慌てて自分のソファへと戻り、横になる。

丸まって、キツク目を閉じて頭の中を真っ白にする。


お願い、早く朝になって……。

そう祈る私を、圭太は薄目を開けて見ていたのだった。


☆☆☆


次に目を覚ましたとき、時計の針は8時を差していた。

校長室の窓から差し込む明かりで朝の8時だとわかる。


昨晩はどうにか空腹感をごまかして眠ることができたみたいだけれど、今日はどうなるかわからない。

ソファで少し無理な体勢で眠っていたから上半身を起こすとあちこちが痛くなっていた。

立ち上がり、伸びをする。

体が少し楽になったところで隣のソファを見やると、そこにいたはずの圭太の姿がなかった。



「圭太?」



声をかけてみても、狭い校長室の中に圭太の姿がないのは一目瞭然だった。

トイレにでも行ったんだろうか?

そう思った瞬間、昨日自分がしてしまったことを思い出して全身がスッと冷たくなる。


昨日の夜、耐えきれずに肉片を食べた私は圭太の頬を舐めてしまったのだ。

あれだけの肉片では全く足りなかったし、圭太からすごく美味しそうな香りがしてきたから。



もしかして圭太はそれに気がついて逃げ出したんじゃ……?

校長室の中を見回してみれば、圭太が持っていたバッドも一緒になくなっている。

少し動くだけでも護身用に必要なものだとわかっているけれど、嫌な予感は加速していく。



「圭太、圭太!」



名前を呼びながら校長室を出て探し回る。

近くのトイレ、食堂、職員室。

そのどれもに誰かの死体が転がっていたけれど、圭太の姿はどこにもない。



「嘘でしょ。私を1人にしないでよ!」



すぐにスマホを取り出して圭太に電話を入れるけれど、充電が切れていることを思い出すだけだった。



「なんでよぉ……!」



連絡を取ることもできず、廊下にずるずると座り込んでしまう。

こんな状況でひとりで行動なんてできるわけがない。


感染者をゲーム感覚で殺してしまう生徒だっている中で、どうしてひとりでいることができるだろう。



「圭太ぁ! 戻って来てよぉ!」



泣きじゃくりながら誰もいない空間へ向けて叫ぶ。

その声が誰に届くかもわからないのに。

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