第17話
次の瞬間、鉄ザビのような匂いが鼻腔を刺激した。
けれどそれは食欲をそそられることのない、感染者の血の匂いだとすぐに理解する。
「血だ!」
圭太が私の手に気がついて声を上げ、私は咄嗟にその場から離れた。
もともとマットが赤色だからそこに染み込んだ血の色に気がつくことができなかったんだ!
私は懸命に自分の制服で血を拭い取る。
食べられない血液はただ気持ちが悪いばかりだ。
「どうしてこんなところに血が……」
圭太がそう呟いたときだった。
教室後方の壁が大きく開いて1人の男子生徒が姿を見せた。
私達は身を寄せ合って机の下に身を隠す。
壁だと思っていたその奥には大きな楽器を片付けておくスペースがあったみたいだ。
それに気が付かずに、音楽室には誰もいないと思い込んでしまった。
自分たちの犯した失態に下唇を噛みしめる。
男子生徒が出てきた奥の部屋をどうにか確認してみると、楽器だけではなくて沢山の生徒たちの死体が積み重なっていることに気がついたのだ。
思わず上げそうになった悲鳴を、両手で口を塞いで押し込める。
男子生徒の手には包丁が握りしめられていて、その刃先は血で染まっている。
ここに隠れていてもすぐに見つかってしまう。
男子生徒がやってくるまでに逃げないと!
圭太と目配せをして逃げるタイミングを見計らう。
幸いにも出入り口は私達の背中側のすぐ近くにある。
身を屈めたままでも移動することは可能だ。
床はマットになっていて自分たちの足音を消すこともできる。
男子生徒の動きを確認すると、彼はキョロキョロと教室内を見回して首をかしげている。
早くも教室内の異変に気がついたのかもしれない。
私と圭太は目を見交わせて同時に動き出した。
身を屈めたまま出口へ近づいてドアに手を欠ける。
圭太がドアを開いた瞬間立ち上がり、駆け出した!
教室から一歩踏み出した次の瞬間、私は男子生徒の腕を掴まれて音楽室へと引き戻されていた。
「イヤアア!」
目いっぱいの悲鳴に圭太が振り返り、駆け戻ってくる。
バタンッとドアが湿られたとき、圭太はすでに音楽室に戻ってきてしまっていた。
「お前ら、誰?」
男子生徒はやけに色白で、細い目を更に細めて私達を観察する。
その目に体中をなめ上げられているように感じられて寒気が駆け上がってきた。
「俺たちは3年生だ。ここに、逃げ込んできた」
圭太が男子生徒から視線をそらさないように注意して説明する。
男子生徒の手はまだ私の手首を掴んだままで、すぐにでも包丁を突き立てられる距離にいる。
心臓はバクバクと音を鳴らし、恐怖で喉の奥が閉まるのを感じた。
「へぇ。ここは俺のテリトリーなんだけど?」
男子生徒が首をかしげて伝えてくる。
勝手に入ってきてしまったことを怒っているんだろう。
「それならすぐに出ていく。だから、薫を離してくれ」
「薫って言うんだ?」
男子生徒の吐息が頬を撫でる。
気持ち悪さを感じる前に、非感染者のおいしそうな匂いだと本能が理解する。
「可愛いね? でもさ、ここから出られるのは感染してないヤツだけなんだ。だって、感染した連中は殺さなきゃいけないから」
男子生徒はそう言って、開け放たれている楽器部屋へ視線を投げた。
そこにあるおびただしいほどの死体は全部感染者たちなのだろう。
「全員……殺したのか?」
質問する圭太の声が震えている。
「そうだよ? 僕さぁ、学校ではイジメられてたけど、オンラインゲームでは世界でトップを取ったことがあるんだ」
男子生徒は嬉しそうに語る。
「得意なゲームはゾンビを撃ち殺していくサバイバル系だよ。ウイルスに感染したヤツらをどんどん殺していくのなんて、僕にとっては簡単なことだったんだ」
彼にとっては実際の感染者を殺すことも、ゲーム感覚だったんだろう。
だから、あれだけの人数を殺すことができたんだ。
普通の神経であれば、そんなことは決してできない。
「感染者の中に僕をイジメてたヤツらもいたよ。あいつら、僕に向けて泣きながら土下座をしたんだ。笑えるよなぁ」
カラカラと乾いた笑い声を上げる彼に吐き気がこみ上げてくる。
ウイルスが蔓延してからの学校内で、こんな風に楽しんでいる人がいるなんて考えてもいなかった。
彼にとってはここはオアシスなのだろう。
「俺たちは感染してない。だから、解放してくれ!」
常軌を逸している男子生徒に圭太が震える声で訴えかける。
「本当に感染してない? 証拠を見せてもらってもいい?」
男子生徒に言われて圭太は頷き、自分のシャツの袖をまくりあげて見せた。
そこにはきれいな肌が存在している。
「感染者には赤い斑点が現れる。それはもう知ってるだろ?」
「あぁ。確かに感染はしてないね。薫ちゃんは?」
話を向けられてヒッと小さく悲鳴を上げる。
ここで私の体を確認されれば、殺される!
どうにか逃げることはできないかと周囲を見回したとき、机の下に自分たちが持ち出したバッドが転がっていることに気がついた。
あれを持っていれば多少なり時間稼ぎができるのに!
男子生徒の手が私のブラウスの袖に伸びる。
それと同時に圭太がジワリと移動して足先でバッドを自分の方へ引き寄せた。
袖がめくりあげられるのと、圭太がバッドを振り下ろすのが同時だった。
ガンッと鈍い音がして男子生徒が肩を押さえてうずくまる。
その空きに私は圭太の後ろへと逃げてきていた。
左肩の骨を砕かれた男子生徒がくもんの表情で私達を睨みつける。
「その子、感染者じゃないか! どうして一緒に行動してるんだ!」
右手でどうにか包丁を突きつけながら叫ぶ。
「薫はまだ食欲をセーブできてる。人を食べたりはしない」
圭太の説明に男子生徒は目を見開いた。
そして大声で笑い出す。
「そんなの不可能だ! 僕が見てきた感染者は残らず人肉を食べてたんだ。きっとその子だってすぐにそうなる! 今殺しておかないと、一番最初に食べられるのはお前になるぞ!」
唾を吐きながら叫ぶ男子生徒の言葉が突き刺さる。
私の空腹感はすでに限界を超えている。
今以上になったとき、一番近くにいる圭太を襲ってしまうかもしれないという懸念は、私自身もずっと持っていたものだった。
「そのときは喜んで食われてやる」
圭太はそういい捨て、私の手を握りしめると音楽室を出たのだった。
☆☆☆
1階の校長室には誰の姿もなく、ソファもあって横になることができることがわかったので、私達はひとまずそこに落ち着くことになった。
鍵もちゃんと内側からかけることができる。
「さすがに疲れたなあ」
ソファに横になって大きな溜息を吐き出した圭太は、ポケットに入れていたおにぎりを取り出した。
壁掛け時計を確認するといつの間にか夕方を過ぎている。
色々とありすぎて時間の感覚はすでに失われていた。
それでも学校が封鎖されてからまだ1日も経過していないのだという事実に背筋が寒くなる。
これから先どんどん生徒の数は減っていくだろう。
やがてこの学校からは誰もいなくなるかもしれない。
そしてこの街にはそんな建物が沢山あるということだ。
国はこの街ごと消滅させてしまおうと考えているのかもしれない。
圭太が袋から取り出したおにぎりを頬張ったとき、その香りが異臭に感じられることに気がついて思わず身を離した。
「どうした?」
「な、なんでもない。ちょっと、トイレ」
早口に言って校長室から逃げ出し、近くのトイレに駆け込んだ。
同時に大きく息を吸い込む。
感染前には美味しそうだと感じていた食べ物の匂いを受け付けられなくなっている。
食べるだけじゃなく、匂いまでダメになるとは思っていなかった。
「このままじゃ、本当になにも食べられなくなる……」
絶望的な気分で水をがぶ飲みする。
幸い、水だけはまだ受け入れうことができていた。
けれど、水を飲めば飲むほどに空腹感は募っていくようだった。
なにか食べたい。
固形物を、少しでいいから……。
私はほとんど無意識のうちにスカートのポケットに手を入れていた。
そしてそこに入っている弾力のあるものを取り出す。
手のひらに転がっているのは感染した純一が隠れてくれた人肉だった。
それはほんの一口分でしかなかったけれど、見た瞬間に喉が鳴った。
そしてお腹が痛いほどに空腹感を訴えてきている。
肉片をそっと鼻先に近づけてみると美味しそうな香りが漂ってくる。
また、ゴクリと喉がなる。
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