運命決定権保持の蟲
成瀬七瀬
私の知り合いに山科という男がいる。
彼はとても良い奴だ。誰にでも分け隔て無く優しく、困っている人間を見るとすっと手を貸す。
かと言って押し付けがましくもなく、どんなひねくれ者でも素直に助けの手を借りたくなるようなスマートさを持っている。他ならぬ私も山科には何度も助けられたのだが、その話はまあ良いだろう。
先日、山科と飲みに行った時のことだ。私は常々気になっていた疑問を山科にぶつけてみることにした。
彼は親切で、素晴らしい人間だと、私も尊敬している。しかし世の中にはそんな良い人間を利用して骨の髄まで絞り尽くしてやろうと悪巧みをする奴だっている。
例えば、山科と同じく私の知り合いで、共通の知人でもある男。そいつは自分の遊び癖と虚栄心のために借金を重ねて、現在どうにも首が回らなくなっていると聞いた。私自身はそいつとはとうの昔に縁を切っているから助けてやる義理もないが、心配なのは山科だ。
頼まれては嫌とは言えずに、借金を肩代わりしたり保証人になったりしてしまうんではなかろうかと思う。山科は充分に大人の男であるし、私が配慮してやる必要もないのだが、理屈ではなく心配なのだ。
私は山科に訊いてみた。まずはかねてよりの謎である、『何故そんなにも親切なのか』と。
山科はグラスの中の酒をしばし見つめ、それからゆっくりと口を開く。
その辺に飛んでる蟲。
蛾でも蠅でも蚊でも、何でも。
あれの頭部には小さな操縦桿がついていて小さな宇宙人が乗っているんだ。
薄緑の顔をして、目は一つしかない。
顔の半分ぐらいを占める大きな目。
彼は私を観察しているんですよ。
いつもいつもいつもいつも見ていて、私が何か悪事を働くと、すぐにどこか遠くへ飛んでいく。
その後どうなると思います?
悪いことが起きるんだ。
いや、私の周りだけのことじゃない。
日本、世界、地球にとって悪いことが起きる。
初めは気付かなかった。当たり前だ、小さな蟲だから。小さな偶然だから。
一番最初に感づいたのは小学生の時、どうしても欲しかったシャープペンシルを万引きしてしまった時のことだ。三日後に祖母が急死した。
次は母親の財布から金を盗んだ時。三日後に遠い国の火山が噴火した。
次は仕事でささいな犯したミスをもみ消した時。三日後に近い国で大規模なテロが起こった。
次は禁煙のところでうっかり煙草を吸ってしまった時。三日後に日本で地震が起こった。
ああ、ただの偶然だと思うんだろう。
それならいいさ。
だが、起きる悪いことは段々日本に近付いてきている。そして、引き金になる悪事はどんどん些細なものになってきているんだ。
怖いんだよ。誰にでも分け隔てなく、優しくしないと、何がきっかけで『悪事』と見做されるかわからない。
そう、蟲たちにね。
だから俺はみんなにお人好しと言われようが、そうするしかないんだよ。
山科は席を立ったが、俺はしばらく動けなかった。蟲が人間を監視していて、悪事を働いたら連帯責任のように、より悪い事件事故災害を起こす?
……馬鹿げた話だ。飲み残したグラスを取ろうとして、気付く。
グラスのふちに蟲がいた。
鈍く光る複眼で、ただじっと俺を見つめていた。
運命決定権保持の蟲 成瀬七瀬 @narusenanase
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