かくも世界は汚らわしく美しい

成瀬七瀬

 

 虹が空にかかる。それが毎日のことではなかったなら感嘆の息もひとつ上がるだろうが、ここ一年ほど、空にはいろんなものが見えていたので、別段誰も珍しがりはしない。


 窓を開けると排気ガスが部屋に入り込むので、窓は開けない。カーテンも普段は閉めているのだが、何やら暗い部屋で根を詰めているのも嫌になってきたので開けたのだ。


 缶詰めの魚とレトルトの白米を暖めずに、もそもそと口に運ぶ。不味いんだか美味いんだかわからないが、これが最後の晩餐と思えば何がしかの感動も湧いてくるだろう。


 いや、湧かなかった。




 人類滅亡のカウントダウンが始まって、1からマイナスに進んでも人類は滅亡していなかった。しかしながらまた繁栄することは無いらしく、ニュースで専門家(専門家という職業が職業として成り立つのかは知らない)が解説していた話によると地球はもう人類が住むのには向いていないようだ。


 ガタガタに壊してしまってから、最後の最後に核を爆発させた。無意味な戦争だった。意味がある戦争はあまり無いが、それにしても勝者がいない闘いだった。


 人類の三分の二以上が死滅し、残る人間もそう長くはない。けれども命とはしぶといもので、人類は糸を切るように簡単には絶えなかったのだ。




 そうだったなら寧ろ良かったのに。




 私の家族は既に死んだ。私が生活必需品を手に入れる為に外出していた際に、まず一人娘が、戦争の混乱に乗じた暴徒に強姦され、拷問されて死んだ。


 その時一緒にいた妻によると、娘は通帳の在り方を教えろと強要されて、しかしその通帳が使えなかったために激昂した男に頭を割られたのだという。


 法治国家というものの肩書きは糞みたいな落書きになっていた。大体が普段制御されている人間達は、一度枷を外されたらブレーキの掛け方を知らない。どこまでも暴走するのだ。


 ……その頃にはもう銀行などは機能していなかった。娘はただの紙切れのために死んだのだ。




 それを止められなかったと悔やみ、暴徒を呪いながら、妻は自殺した。失意の中で私自身も死を選びかけたが、妻が生前『困らないように』と買い集めていた食糧の山を見ると死ねなかった。


 妻の行動を否定するような気がしたからだ。


 しかし……本当は勇気がなかっただけかもしれない。




 だが食糧ももう底を尽きた。このマンションで生き残っているのは私だけなのか、物音がしなくなってから久しい。盗賊めいた暴徒も既にめぼしい獲物は無いと理解しているのか、誰もやって来なかった。




 さて、と腰を上げるとふらつく。かすかにきな臭い匂いがし、どこかからサイレンが聞こえてきた。放火だろうか。面倒だが確認はしない、そもそも珍しいことではないのだから。


 何日かぶら下げたままであった、輪に作ったロープの前に立つ。踏み台の横には妻が気に入っていたバレッタが転がっていた。ふと彼女の遺体を思い出すが、それは妻とは言い難い物体だった。


 踏み台に登り、妻と娘の写真を見る。ふたりともカメラを見つめて笑っている。遊園地で私が撮ったものだ。


 懐かしい。


 懐かしくて……愛おしい。


 こんなにも愛おしいものが、今はもうない。信じられなかった。信じたくはなかった。すべてが悪夢になるのだったら、私は悪魔に魂を捧げてもいい。




 ぐずぐずと鼻を啜りながら輪に頭を入れる。ああ、もうすぐだ。私の長い独りきりの時間はもうすぐ終わる。もういい。もううんざりだ。早く楽に……。




「竹本さん。竹本春樹さん。いらっしゃったら表に出てきてください」




 心臓を掴まれたように身体が硬直する。誰……誰だ? タケモトハルキ? ああ、私か。私じゃないか。


 玄関のドアを凝視する。その向こうに、何人かの気配が確かにしていた。ドアが力強くノックされる。そういえばチャイムは壊れていたのだった。




「竹本さん! 政府の者です。日本政府の鮎川と申します。先日、人間が棲むのに適した惑星が発見されたので移住するために只今生存者を救出しています。お聞きですか? あなたは保護されるんです!」




 何だ……? 保護? 日本政府?


 生存者を。私を助けに来たというのか。妻でもなく娘でもなく私を。無力に死んでいった彼女たちに、助けを求めて走った私に何もしなかった国が。助けるというのか。


 馬鹿にするなよ。一人で生き残って安全にのうのうと、知らない星で余生を過ごせと言うのか。そんなことは耐えられない。誰が何と言おうと耐えられない。




 ドアノブが破壊音をさせながらぐるりと一回転する。扉が開きかけたところで、私は足元の踏み台を蹴った。がくりと体重が頸にかかる。意識が遠のくなか、誰かの叫び声と、よく知った声が聞こえた。妻と娘が私を呼ぶ声だった。












「死んだか?」


「いえ、意識不明ですが心肺停止はしていません。ロープから下ろしますか?」


「死なない程度にしておけ。障害が残るように。下半身不随だったらいいんだが、出来るか?」


「努力します」


「全く、こっちは新しい惑星で人類史をつくる遺伝子が欲しいだけなのに実験体だモルモットだって五月蝿いからな。せめて動き回れないように出来りゃいいんだが人権問題がこれまた五月蝿い。その点、こいつみたいに自分から死にかけててくれりゃあ楽ってやつだ」


「心音微弱。蘇生開始」


「しかし汚い部屋だな。この男が人類再生の鍵を握る遺伝子を持ってるんだぜ? あーあ、信じられねえな」




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かくも世界は汚らわしく美しい 成瀬七瀬 @narusenanase

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