四、『最後に残った魔法は〝希望〟』その8

「有り難う、助かったよ」


 箒を降りると、転法輪はイーヴリンに対し短く礼を言った。


「礼など要らん。これでも私は君の上司だ。上司には部下の要望を聞き入れる義務がある。恩を感じるならば、今度旨い鰻の店を教えてくれ」

「構わないよ。ひつまぶしの美味しい店があるんだ」

「ヒツマ・・・・・・? 何だ、それは」

「一つの料理を三種類の方法で食べる鰻料理の事さ。僕の地元ではポピュラーな料理でね、鰻重よりこっちの方が僕は好きだ」

「初めてだな」

「え?」

「君が、自分の身の上話をした事だ。今度ゆっくりと聞かせて貰おう」


 強風の中、箒を浮かび上がらせるとイーヴリンは転法輪へ向けて敬礼した。


「生き残れ。それが上司としての絶対命令だ」

「精々、善処します」


 肩を竦めて失笑すると、転法輪 循は踵を返して向き直る。

 トレンチコートが風にはためいてひるがえり、打ち付ける雨粒が全身の汚れを乱暴に拭った。


 眼前には、ペスト医者の仮面を被ったマーフィー・マー。

 着陸と同時に確保した星見 恵那を手中に収め、値踏みするように佇んでいる。


「最期のお別れ、終わりました?」


 仮面に遮られ、マーフィーの表情は伺えない。

 しかしじわりと滲む殺意が、転法輪へ全てを理解させた。


「彼女、人質になると思っているのか?」

「いいえ。正直俺としては今すぐ殺しても良かったのですが、どうしても貴方に言いたい事があるそうなので」


 くぐもった声で嗤うと、マーフィーは星見を解放して強く突き飛ばす。

 前のめりになりながら転法輪の前に立つと、星見はしっかりとした双眼で転法輪の顔を見た。


「貴方は一体何者?」

「は――――」


 星見の問いに転法輪が答える前に、マーフィーが失笑した。


「またですか。先程も言ったでしょう、彼は――」

「黙れ、わたしはお前に聞いていない。わたしが問うているのは転法輪 循、ただ独りだ!」

 風雨で重たくなった髪を振り乱し、もう一度星見は転法輪へ問う。

「貴方は何者なの?」

「――何で、」


 真剣な表情をした星見 恵那を見据え、転法輪 循は口を開いた。


「何で、そこまでして僕の正体が気になるんだい?」


「分からない、わたしにも」首を横へ振って星見は答えた。「けれど、何故だか不公平に思ったのよ。貴方はわたしの事を色々知っていて、わたしは全然貴方の事を知らない。それが何だか、とても腹が立つの! 分からないけれど、とっても!!」


「これは傑作だ!」


 くぐもった大声を上げ、マーフィーは両手を強く叩く。


「愉快だ、すごく愉快な気分です。やはり彼女を生かしておいた俺の目論みは、決して間違っていなかった!」

「貴方、何を言って――」

「転法輪 循、貴方は星見 恵那にとって、どうやら貴方の想像以上に大きな存在になっていたようです。こういうの何て言うんでしょうね。吊り橋効果? 雛の刷り込み? それとも単なる発情期? まあ、どうでもいいです。取り敢えず、彼女は貴方のことを憎からず思っているようですよ」

「そんな、わたしは――」


 否定しようと言葉を紡ぐ星見を制し、マーフィーはさらに続けた。


「別に俺はね、盛りの付いた女子高生の恋バナを盛り上げるつもりはないんですよ。ただ単純な興味なんです。慕っている異性を前にして、転法輪 循がどのような反応を示すのか。若しくはその異性を俺が目の前で傷付けた時、果たして人間と同じ反応を示すか。そして――――その結果を目の当たりにした時、当事者たる星見 恵那は一体何を思うか、ね」


 仮面で表情は伺えない。しかしマーフィー・マーという男の貌が愉しげであることは、誰の目からも明らかであった。


「・・・・・・お前、性格の悪さが当の転法輪 循と同等だぞ」

「褒め言葉として受け取っておきますよ、妖精猫ケット・シー

 さて、とマーフィーは転法輪を見据える。


「守れますかね、貴方。守りながら殺せますかね、俺を」

「さてね」


 転法輪は肩を竦めると、腰のホルスターから拳銃を抜き放った。


「けれども僕は此所で死ぬつもりはないから、多分出来るんじゃあないかな。僕が死んだら、友達が哀しむから」


 自然と、ホーグ製のラバーグリップが手に馴染む。

 腕そのものが銃に変容した感覚。引き金トリガーを引いた瞬間、その感覚はさらに強くなり転法輪 循の脳髄を言い知れぬ高揚感が満たす。


「ご冗談を。その不貞不貞しい態度、それだけで貴方に友人が皆無である事は明白です」


 銃弾を躱し、マーフィーはシースからナイフを引き抜いた。

 瞬間、転法輪の眼が見開かれた事を星見は見逃さなかった。


 一切の装飾を排したシンプルな外見。その姿はナイフと呼ぶより銃剣に近い。

 ブレードからハンドルが一体化したフルタング構造に、グリップはキャンバス地をフェノール樹脂で凝固積層させたマイカルタ。

 基本構造は転法輪 循のRAT-5と同じであるが、そのナイフには言い知れぬ〝凄味〟があった。それは鋼材の質でもなく、ましてやデザインでもない。ナイフそのものが持つ、圧倒的なオーラであった。


 カスタムナイフメイカーから興したクリス・リーブ社のグリーンベレット。

 それは、過酷極まる米軍特殊部隊の訓練に合格出来た者だけが持つ事を許された、ナイフの形をしたである。


「さっき見た時から薄々感づいていたけれど、やはりクリス・リーヴ・・・・・・君のような男が、屈強揃いのグリーンベレーに入っていたとは到底思えないけれど」

「よく知っていますね、しかしこれは一般販売コンシューマですよ。ロゴ以外はどちらも同じモノですが拘る人は拘るみたいで、あっちの方はオークションで高値が付いているみたいですね。まあ、俺にとってはどうでもいい事ですが。ブランドを見初めて買ったのではなく、性能を気に入って買ったもので」

「そうかい――」


 歯噛みする転法輪にその得物の真価を知ると理解し、マーフィーは仮面の奥でさらに口元を釣り上げる。

 しかし、星見は全く別の事を考えていた。


「ひょっとして、羨ましい・・・・・・?」


 マーフィーの逆手に握るナイフを見つめる、転法輪の眼。それが丁度、ショウウィンドウに飾られたトランペットを眺める少年の瞳に重なった。

 そういう所、そういう歪さが、転法輪 循という人間を不可思議のヴェールに包んでいく。


 分からなくなる。

 だから、知りたくなる。


 考えれば考える程、胸の奥がチリチリと痛む程に。


「僕はね、エドゥワルド・クナイフェルのような高慢ちきな魔法使いも嫌いだが、君達WoMAウーマみたいな利己的な魔法使いも大嫌いなんだよ」


 ナイフを凝視したまま、銃を構えて転法輪は言った。


「君は僕を断罪したけれど、僕は君を断罪する。君らWoMAウーマはね、ワーズワースと一緒なんだ。歴史を金で買っている。伝統を否定しているくせに伝統にしがみつくなんて、最高に格好悪いじゃあないか」

「しかしWoMAわれわれが居たからこそ、魔法使いは現代社会の片隅とはいえ生き存えた。魔法と魔法使いの保護。しなければまず間違いなく、どちらも滅んでいたでしょう」


 じりじりと躙り寄りながら、マーフィーは語る。


「世界の答え合わせ? そんなもの、魔法を使わずとも紙と鉛筆があれば、誰かがやってくれるでしょう。リーマン予想もホッジ予想も、いずれ天才と呼ばれる人間がそれらを武器に解き明かす。そこに魔法も魔法使いも介在しない。役立たずなんですよ、どちらも。ならばその役に立たない存在を無理矢理にでも役立たせるには、果たしてどうすれば良いか?」


 一閃。一足飛びに間合いを詰めたブレードが、転法輪を襲う。

 音速の領域に達した切っ先が、鎌鼬かまいたちのように転法輪の頬の皮膚を爆ぜさせ、舞った血飛沫が雨粒へ溶けた。


「答えは簡単です。どちらも美術品にしてしまえばいい。適当な鑑定書と煌びやかな額縁やショーケースで飾り立てれば、どんなに凡庸な存在でもたちまち一級の美術品に早変わり。幸いにして、魔法使いは己の見栄の為ならば大枚を惜しげもなく積み重ねる阿呆ばかりで、一般人でありながら魔法に興味を持つ酔狂な連中は軒並み富裕層が多い。故に、買い取った魔法は必ずその価格以上の値札が付く。そうして魔法や魔法使いをお金という血液に載せて流動させることによって、権威や伝統に埋もれていた二つを白日の下に晒す事が出来ました。古の時代には及びませんが、お陰で魔法の知名度は日に日に上がっています」

、だろう?」


 断続的な銃声に、転法輪の嗤い声が混じる。


「正直魔法は戦闘には向いていないが、こと暗殺となれば話は別。いちいち凶器を持ち歩く必要はないし、犯行の手口も誤魔化すことが出来る。万が一逮捕されたとしても、魔法での殺人なんて立件出来る確率はかなり低い。マフィアにヤクザ、表立って動けない政府の暗部。は一杯だな、カリキュレイター」


 転法輪はブーツで石畳を蹴って、メリーゴーランドを遮蔽物に身を隠した。

 残り僅かとなった弾倉マガジンを吐き出し、矢継ぎ早に新たな弾倉マガジンを取り付ける。

 予備は残り一本。重たいからとホテルへ置いてきたMP5を恋しく思いながら。


「それにさ、魔法の売買なんて偉そうな事を言ってるけれど、やってる事は泥棒が盗んできた絵画に、好き勝手値札付けてるだけだろう? 泥棒市風情がご立派なショウルームなんて、何様だよ」

「言ってくれますね、調停員パーミッショナー――――」


 縮地の領域で間合いを詰め、マーフィー・マーが迫る。


「この芸術品が完美品ミントとならないのは業腹ですが、最優先事項は彼の排除。致し方ありません」


 懐から取り出したのは、右手を象った小さなブロンズ像。

 それは俗に『アブラクサスの右手』と称される魔法品マジック・ギアであり、グノーシス派の魔法使いにとって異界からの干渉を封じる護符であった。


「骨片さえ遺さず、蛇の一撃によって穿たれろ」


 背後に輝く魔法円。

 マーフィー・マーはブロンズ像を触媒に、魔法を発現させる。蛇を連想させる五指が顎を擡げ、止め処なく礫弾が射出した。


 口径は大きく、銃器のような弾切れの恐れもない。

 このような閉鎖空間に於いて、それは最強の魔法であった。


「おい、何であんなヤベェの発動を許した!? 解呪しろよ!!」

「しょうがないだろう、アブラクサスの右手アレは本来あんなガトリングガンみたいな魔法品マジック・ギアではないんだから。どうやらあの男、魔法品マジック・ギアを改造してアブラクサスの右手に別機能を持たせたらしいな。冒涜だよ、完全に」

「お前がそうやって好き勝手分析してるのはいいけどよ、その間にオイラ達挽肉になっちまうぞ!? 此所にタマネギがあったら完全に夕飯だぞ!?」


 秒速数千発で吐き出される礫の雨。

 それはメリーゴーランドに遮蔽物の意味を消沈させ、転法輪とタマを丸裸にした。


「幸いなのは、魔法の発動にアブラクサスの右手を必要としていることだ。を破壊する事が出来れば、これ以上礫弾は飛んで来ない。な、簡単だろう?」

「破壊出来ると思うか、アレ」


 タマの指差した方角で、礫弾を吐き出すアブラクサスの右手。

 それはマーフィー・マーの頭上で浮遊し、砲塔のように規則的な回転運動を行っていた。


「・・・・・・無理だな。仮にやるにしてももっと接近しなければ、その前に挽肉だ。ハンバーグにされてしまう」


 早々にプランを変更。転法輪はタマを引き連れ、脇目も振らず逃げ出した。

 三十六計逃げるにかず。見上げれば巨大であったが、敷地は案外狭い。何処をどう逃げようとも礫弾は発射され、そのこと如くを瓦礫の山へと変えていく。


「ほら、何してるんだ。早くこの場を立ち去るぞ、恵那」

「っ――――――――――――」


 それは、卑劣な不意打ちであった。

 場違いだというのは十二分に承知している。しかしそれでも、星見 恵那は赤面する自分を抑えられなかった。


 馬鹿馬鹿しい。

 ひょっとして欲情しているのか、自分は。たかが名前を呼ばれたそれだけで。


「あーあ、オイラ知らねえぞ」ブタ猫の言葉に星見は我に返る。「お前、こんな所で女の子泣かすなんて何やってるんだよ?」


 泣いてる?

 わたしが?

 嘘でしょ?



 だって、星見 恵那わたしには泣く理由なんか――



「動けない?」


 転法輪の短い問いに、星見は辛うじて頷いた。全身の力が抜けて、歩くことさえままならない。



 これは魔法?

 それとも呪い?



 どちらでもない事は明白であった。

 ああ畜生、本当に自分の躯がつくづく嫌になる。

 恐怖で足が竦んだのなら、まだ許せる。でも違った。どうしてこうも、自分の思い通りに動かないんだ。この精神ココロ身体カラダは――――


「・・・・・・タマ、腹括るしかないようだ」

「オイラはタマじゃねぇけど、同意するぜ」


 煙草を咥え、転法輪はジッポーで点火する。

 いつの間にか小雨になってきたが、風はまだ強い。トレンチコートが翻り、稲妻のように紫煙が揺れ動いた。


「やっぱりさ、あのガトリングガンぶっ壊そうと思う」

「現状、そうするしかないだろうな」

「頼めるかい、僕の右腕」

「それ、頼むって口調かよ。まんま脅迫だぜ」

「じゃあ・・・・・・宜しく頼むぜ――――

「とんでもないカラバ侯爵だよ、お前は」


 短い遣り取りの後、二人は別々に行動を開始する。


 先程の短い逃走劇で、マーフィーの魔法は把握出来た。

 礫弾は自動的である。それが一筋の光であった。


 規則的に弾を撃ち出し、そこにマーフィー・マーの意思は介在していない。つまり思い通りに動いていないのだ、あの砲塔は。故に何度か確認すれば回避は容易であり、弾道や着弾地点もある程度正確に予測が立てられる。


 もう一つの突破口。

 射出される弾が礫弾である事が、あの魔法の隘路あいろとなっている。

 弾き出される弾は全て歪で不揃いで、空気抵抗を受けやすい。故に銃弾のような貫通力も速度もなく、肉眼で捉えてから回避する事も可能であった。


 この二つの弱点、当然術者たるマーフィー・マーも熟知している。

 そしてそれを物量と力で解決する程に彼は愚かな性格ではなく、また弱点の対策を講じる程の暇人でもない。

 この魔法を選択し、転法輪 循に対してさも切り札のように振る舞った理由。


 それは――


――――!!」


 吐き出した吸い殻の灰が、雨に溶けて消える。

 文字通り銃弾の嵐の中を掻い潜り、転法輪 循は抜き放ったナイフでペスト医者の仮面を斬り裂いた。

 嘴からは大量の香草、そして現れた貌はマーフィー・マーと似ても似つかぬ男のものであった。


「仮面は精神高揚の為のドラッグ吸引器であると同時に、僕に君を誤認させるカモフラージュ。そうだろう?」


 未だ礫弾を吐き出すアブラクサスの右手を撃ち抜き、転法輪は虚空へ問う。

 所詮はブロンズ。懐へ飛び込み礫弾の防御壁さえ突破すれば、9×19㎜パラベラム弾の敵ではない。


「そしてわざわざ工場跡で死人を大量召喚してみせたのも、カモフラージュだ」

「・・・・・・正解です」


 どこからともなく聞こえる声。

 それは、今し方破壊した男の耳に取り付けられた小型のヘッドセットから流れていた。


「クラウドファンディングでエキストラ募ってるゾンビ映画じゃああるまいし、屍体をうじゃうじゃ引き連れるなんてナンセンスですよ。お宅の魔法使い、あの人は規格外の化け物らしいですが頭の方はトロール以下ですね。陽動にまんまと掛かって、二手に分かれてくれて助かりました」


 刹那。

 転法輪の死角に魔法円が浮かび上がり、ペスト医者の仮面を被った死人が姿を成す。


「俺の死人は、こうして使うのがセオリーです。盤上にいきなり召喚。だから将棋なんですよ。チェスではこうはいきません。将棋と違うのは、持ち駒で王手を掛けられる事ですね。最高です」


 すかさず銃口を向け、死人を破壊する。

 しかし薬莢が地面へ落下するにも早く光を帯びた魔法円が浮かび上がり、新しく喚び出された死人が転法輪へ向けて引き金トリガーを引いた。


「銃を持っているのは自分だけなんて、傲りですよ。例え、この国が銃器に厳しい国だとしてもね」


 礫弾ではない、精巧なる銃弾。

 右肩を貫かれ、濡れたトレンチコートに赤黒いモノがじわりと浮かび上がる。


「貴方が大窪組を潰しておいてくれたお陰で、連中の屍体と銃器がロハで手に入りました。厚く御礼申し上げます」


 マーフィー・マーの哄嗤が響き、辟易する転法輪。

 死人を破壊すべく軀を動かすや赤い斑点はいよいよ広がり、それは銃を握る右手まで雑に赤く染め上げた。


 息が荒い。各部の出血により、体力も著しく消耗している。

 しかし息つく間もなく魔法円が幾重も浮かび上がり、銃を持った死人が現れた。

 引き金トリガーを絞る前に破壊出来たのは七割弱。残りの三割によって刻印された銃痕が、さらに転法輪の体力を奪った。


 あの日、あの時。

 淡々と生者を死者に変える作業を行った果てに積み重ねられた屍体が、生気無き殺意を込めて転法輪 循に襲い掛かる。

 縫い合わせられた口は物を言わない。しかし彼の耳にはあの日聞いた断末魔が、まるで呪いのように鮮明に聞こえていた。


「哀れな姿ですね、調停員パーミッショナー。上手いこと星見さんを逃がしたようですが、箒が使えない貴方はそれ以上何も出来ない。まあもっとも、箒で逃げた所で文字通り地の底まで追いますが」


 ああそうだ、とふらつく転法輪に対し死人がマーフィーの声で提案する。


、というのはどうでしょう? この遊園地から」

「!?」


 瞬間、魔法円から現れた腕が転法輪の右足を掴む。

 体力低下が招いた判断力の欠如。それは常人にとって僅かなブランクであったが、戦闘者にとっては致命的であった。

 大凡人とは形容し難い怪力に引き摺り込まれ、そのまま空中遊園地から弾き出される。


「本当に魔法が使えないというのは、哀れですね。常人ならば容易い飛行すらも出来ないのだから」


 高度数百メートル。

 落下速度は体感百キロを超える。雨粒と風が容赦なく転法輪 循の軀を抉っていった。

 このような事態に陥った時はいつもならばタマが居るが、今回は別件で手が離せない。種も仕掛けもなく、ただ落下するのみ。


 強風で翻るトレンチコートの内ポケットから、細い棒が顔を覗かせる。

 懐に手を入れ、その感触を確認。指先が石のように硬直し、思考が白む。掴む事さえ、ままならない。



 呪いだな、これは。

 それも、飛び切り質が悪い。



 絶体絶命。そんな状況になっても、空飛ぶ箒一つ操る事が出来ないのだから。

 これでは、ラジカルな自殺じゃあないか。


 全く冗談ではない。

 落下しながら転法輪は嗤う。まさか、あの日の星見 恵那の気分を自ら身を持って体験するとは――


「・・・・・・これで、貸し借り無しよ」


 刹那、瓶の割れる音が響く。

 瓶の中から飛び出した竜巻は小さすぎて転法輪の減速に留まったが、それを足場に再び空中遊園地の土を踏んだ。


「いや、これはだ」危険を冒して小瓶を投げ付けた星見に対し、転法輪は笑い掛ける。「なんたって、あの時君を助けたのはタマだからね」


 さて、と転法輪は石畳を踏み締めて眼前に視線を向けた。


「お陰で頭が冷えたよ、有り難う。ええと、名前は――」

「マーフィー・マー、ですよ」


 視線の先には仮面を被った男の姿。

 グリーンベレットを構え、ゆっくりと仮面を外す。それは死人ではない、完全なるマーフィー・マーそのものであった。


「フルネームで呼びたくなる名前だな、マーフィー・マー」

「そんな事を言ったのは、貴方が初めてです。転法輪 循」


 互いに口を歪めて、嗤う。



 瞬間、一閃。



 二つの殺意が火花を散らし、銃声が数度響いた。


「っ――――――――――」


 膝を付き顔を苦悶に歪める転法輪に、勝ち誇った笑みを浮かべるマーフィー。

 転法輪の背後には、トレンチコートやワイシャツの袖がこびり付いた右腕が無残に転がっていた。


「呆気ない」


 嗤いを噛み殺し、マーフィーはナイフの血糊を払った。


「実につまらない幕切れです。こんなしょうもない結末では、顧客のニーズを掴む事は出来ませんね。商品のアピールにすら、なっていない」


 切っ先を穿つように転法輪に向け、嗜虐的な表情で睥睨する。


「少し、趣向を変えましょうか」


 転法輪 循を囲むように描かれる無数の魔法円、現れる死人。

 武装はして居らず、仮面も被っていない。ぐるりと取り囲み、縫い付けられた双眼で彼を見下ろしていた。


 曾て銃器によって一方的に蹂躙された憎悪が、腐敗臭と共に陽炎のように立ち籠める。


「やりなさい」


 短い命令文。

 機械が作動を開始するように無数の死人が動き始め、集団で転法輪 循を踏みにじる。


 殴られ、蹴られ、踏まれる。骨が軋み、肉が歪む。

 人を構成する肉体がパン生地のように容易くこね回されるその様に、星見 恵那は言い知れぬ恐怖を感じた。


「どうです? この光景は」


 踵を返し、立ち竦む星見へ向けてマーフィーは笑った。


「あの日のエドゥワルド・クナイフェルの再現ですよ。なかなかに愉快な光景でしょう?」

「悪趣味ね」

「いつも同僚から言われているので、今更です」


 にべもなく言い放ち、マーフィーはその眼をゆっくりと見開いた。


「この光景を見て、貴女はどう思います? 助けに行きますか? それとも無力な自分を呪って立ち竦むだけ? 興味がね、出て来てしまったのですよ。自分の心の中で存在感を増した異性がボロ雑巾みたいに殺されていく様を目の当たりにして、死にたがりの貴女がどうするのか、ね」


 視線の先、大怪我を負いながら踏みにじられる転法輪 循の姿があった。

 無数の死人。凄まじい力で殴られ蹴られ、為すがままにされる。しかし何故か、違和感があった。


「ショックで自殺する? それとも心が折れて俺に殺してくれとすがり付く? この茶番に花を添えるよう、精々エキセントリックな答えを期待していますよ」

「・・・・・・ないのね、その中には」


 視線をしっかりとマーフィー・マーへ合わせて、星見 恵那は対峙する。

 まるで別の生物が蠢いている感覚。膝が言うことを聞かず、両腕すらも小刻みに痙攣している。しかしそれら全てを感情でねじ伏せて、



 星見 恵那は初めて、生まれて初めて正面から敵対した。



「わたしが生きるっていう、選択肢は」


 違和感の正体。

 尊厳を踏みにじられても、転法輪 循は折れていなかった。殴られて蹴られて踏み付けられても、彼の双眼には勝利を確信する炎が宿っていた。

 馬鹿馬鹿しい、あれだけの事をされたにも拘わらず、彼には死ぬという選択肢が皆無であったのだ。


「ありませんね、皆無です。貴女がどうしようと、この遊園地から生きて出る事はまずありません。だって貴女には、彼や俺のように戦う術がないのだから」


 振り返って自分はどうだ、星見 恵那。

 下らない事から逃げ続け、自殺することだけを心の支えに生きてきた。

 そんな歪んだ生き方をしてきた自分を嘲るように、転法輪 循はあの状況下で笑みさえ讃えている。

 巫山戯ふざけるなよ、畜生。馬鹿にしやがって。そっちがその気なら、こっちだって生きてやろうじゃあないか。


「そうかもしれないわね、でも窮鼠きゅうそ猫を噛むって諺があるじゃない? 慢心は身を滅ぼすモノよ」

「確定事項を慢心とは呼びません。ショーダウンが終わった後に、幾らカードを引いて強い役を引き寄せたとしても意味が無いのと同じようなものです」


 余裕の表情を崩さず、マーフィーは踵を鳴らしながら星見へと近付いていく。


「さて、もう一度質問です。貴女はどう、死にたいですか?」

「確かに、わたしはずっと死にたがっていた」


 一切視線を逸らさず、星見は言った。


「でも、誰かに死ねって言われて死ぬのは死んでも御免よ」

「は――――――」


 吐き捨てようと、マーフィー・マーが口を歪める。

 しかしその口から吐き出されたものは血泡であり、その予想外の光景に思わず彼は目を見張った。


 響いていたのだ、銃声が。

 転法輪 循ではない。

 星見 恵那の背後、両手で転法輪 循の銃を構えたタマがシニカルに嗤っていた。


「――良い言葉だな、さっきの。でもオイラはこう言うぜ」


 黒い毛皮に不釣り合いな程、タマの牙が白銀に煌めく。

 それは丁度、握られたステンレスの拳銃の輝きによく似ていた。


「どんなに強い相手だとしても、ってな」

「火薬を厭う妖精が、拳銃だと!?」

「オイラのこと、悪戯好きの妖精だと思っていただろう? 役に立たない愛玩妖精ペットだって」


 眼を見開き驚愕の表情を浮かべるマーフィー・マーに対し、タマは慣れた手付きで銃口を突き付ける。


 微かに、肉の焼ける臭いがする。

 タマの小さな手がじりじりと火薬によって焼かれていた。


 魔法の力によって授肉した妖精が火薬に触れれば、火薬の香に己の身を焼かれてやがて消失する。

 妖精の一柱たるタマも重々それを承知している筈であったが、拳銃を握る手に一点たりとも迷いはない。


「ゴブリンとかピクシーみたいな、下っ端と一緒にするなよ」銃を構えたままタマは嗤った。「オイラはな、妖精猫ケット・シーなんだぜ?」


「――そして、僕の掛け替えのない友人だ」

「ッ!?」


 転法輪 循、復活。

 利き腕たる右腕を失い、その傷口から夥しい量の血液を失っているにも拘わらず、その表情に一切の曇りはない。


「斬らせたというのか、銃を渡す為だけに自分の腕を!!」

「性格の悪い君のことだから、勝ちを確信しなければ死人が尽きるまで本人が現れないと思ってね」


 左手にRAT-5を構え、転法輪は嗜虐的に嗤った。


「君の祖国の諺にもあるだろう? 肉を切らせて骨を断つだよ。流石はクリス・リーヴ、この通り骨まですっぱりだ」


 時雨のように赤が降りしきる、無数の銃痕と切断面。

 明らかに転法輪 循の方が重傷であったが、この状況に於いて追い詰められたのは間違いなくマーフィー・マーであった。


、君は。僕をなぶって商品のデモンストレーションにしようとしたんだろうが、そういう打算的な思考が君の判断を鈍らせたんだ。故に君は格下の野良犬ぼく風情に、いとも容易く喉笛を咬み千切られる」


 死人に括り付けられたカメラを踏み砕く。

 縮地。転法輪 循が踏み込んだ瞬間、マーフィー・マーの首から頭部が解離した。


「君の敗因は、セールスマンで在り続けた事だ。僕を殺したければ、冷酷な殺し屋に徹しろ」

「ァ――――――――――ッ!!」


 まだ終われないと、打ち上げられたマーフィー・マーの頭部は思考した。

 生きねばと、意思を無視して残された機能に本能じみた命令を放つ。


 急げばまだ生存は可能である。

 付け焼き刃とはいえ死霊魔法ネクロマンシーによって鍛えられた縫合術を駆使すれば頭部と胴体を結合し、肉体を再活動させることが出来るのだから。


 しかし、と本能をねじ伏せマーフィーは目を伏せる。

 それは生きていることにはならない。

 そこで破壊されている死人らと同じ、ただ使役される腐肉である。操る対象と同じ賤しき存在となるのは、自尊心の塊である彼の矜持に反していた。


「――――――――」


 故に彼は唯一残された理性を駆使して何もしないことを選択し、目を伏せたまま空中遊園地から落下していく。

 最期に思い浮かんだのは、彼女の面影によく似た星見 恵那の姿。

 真っ先にこの少女を殺害しておけば事態は幾らか好転したであろうが、彼は自らの意思で敢えて最期まで実行する事を拒んだ。



 感傷か、それとも郷愁か。

 どうだっていい、そんな瑣末事。



 頭部は口を歪めて堕落する。

 それは皮肉にも、マーフィー・マーにとって自殺であった。

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