四、『最後に残った魔法は〝希望〟』その5

 中央自動車道高架下の廃工場。


 午前零時を僅かに過ぎた頃合いに、転法輪 循は歪んだ傘を折り畳んで内部へ這入る。

 あと数時間で暴風圏に入るらしいが、この辺りはまだ風が強くない。その代わり雨脚は強く、傘を差していた筈の転法輪 循の全身は冷たく濡れていた。


「指示通り来てやったよ」


 薄暗い工場跡で、転法輪の声が雨音と重なって反響する。


「古い刑事ドラマじゃあないんだからさ、今時取引場所に廃工場ってのはないだろう」

「あぶない刑事ですか? それとも噂の刑事ですか?」

「何で日本の刑事ドラマ知ってるのさ、アメリカ人」

「貴方方日本人だって、本国に居ないのにマーベルもDCも知っているじゃあないですか」

「それもそうか」


 肩を竦め、転法輪は失笑する。

 重なり合う、二つの笑い声。途端を突き破る雨音に掻き消され、やがて夜の静けさに戻った。


「これがノルベルト・クナイフェルの遺産だ」


 静寂を破るように、手にしたアタッシュケースを暗闇に突き出し転法輪は言う。


「さあ、星見 恵那を返して貰おうか」

「何言ってるんですか? 調停員パーミッショナー


 訝しみを含んだ声が、闇の中からマーフィー・マーの声が響いた。


「返す? そもそも遺産も星見 恵那も貴方達LIMBOリンボ社の所有ではありません。貴方方埋葬協会は、謂わば運送会社のようなもの。宅急便の配達人が届け先の荷物の所有権を主張するなんて、あべこべが過ぎると思いませんか?」

「勿論、そうさ」


 アタッシュケースを突き出したまま、転法輪は闇へ言葉を紡ぐ。


「しかし君の物でもないぞ、カリキュレーター。僕の手の内にある遺産は、星見 恵那へ相続すべく持って来た。そこに居るんだろう?」


 僅かな沈黙。

 破れた屋根から這入り込んだ雨が落水する音だけが、滝のように大きく響いていた。


「彼女が貴方に会いたいと思っているのですか?」


 今度静寂を揺るがしたのは、マーフィー・マーであった。


「幾らなんでも、有り得ないでしょう。先日の貴方の姿、を見た後で貴方に会いたいと思えるのですか?」

「懐かしいよ、小学校の学級会のような発言だな」

 大仰に語るマーフィーの言葉を一蹴する。

「僕は、君のそんな正論じみた発言を聴きに来たんじゃあない。僕が此所へ来たのは、今日が遺産の期日だからだ」


 腕時計を一瞥し、転法輪は闇へ向いた。


「十月二十八日零時十八分、それが指定日だ。何の日か分かるか、星見 恵那」


 闇の向こう、マーフィー・マーの奥に居る星見 恵那に聞こえるよう転法輪 循は声を張り上げる。


「当然、知っているよな? 君の誕生日だ」

「―――――――!?」


 驚愕したのは、マーフィー・マーであった。

 迂闊にも、彼は見誤っていた。星見 恵那という少女の存在を市井の女子高生と同列に考えていた。境遇が悲惨であれ、精神構造は変わらないと高を括っていた。


 彼女は転法輪 循に恐怖を抱いている。

 故に自ら姿を現す事はない、と。


 しかし、である。

 親戚から迫害され学校にも居場所がなく、貞操の危機に晒されながら何度も絶望から死を渇望し、それでも曲がりなりにも十七年間生きてきた少女が、市井の女子高生と同等の精神構造である筈はない。

 どれだけ強く死を願おうとも、生きているだけで強い。それは誰であろうと容易に想像出来る事であったが、マーフィー・マーは慢心故に敢えて思考から除外していた。


 その慢心が、形と成って姿を現す。

 闇を掻き分けるようにゆっくりと転法輪に向けて臆する事なく歩み出した星見 恵那。それを待っていたように、転法輪 循は顔を緩めた。


「君の祖父からの誕生日プレゼントだ。本当はきっと、君に直接渡したかったと思うよ」

「・・・・・・もし、これをわたしが売却すると言ったら?」

「別に構わないよ、それでも。君が選んだのなら」


 アタッシュケースを星見に渡しながら、転法輪は言った。


「しかしこの遺産にはね、連綿と続く君への想いが詰まっている。直接遺したのは君の祖父だけれど、その前、さらの昔の君の祖先の想いも一緒に重なっているのさ。続いているんだよ、君は。そしてこれからも続いていくんだ」

「それ、面倒くさいな」

「だろうね」

「でも、誰かに誕生日プレゼントを貰うなんて久しぶり。それは少し、嬉しいな」


 星見 恵那が鍵穴に触れた瞬間、アタッシュケースは呆気なく開いた。

 くりぬかれたスポンジに挟まれていたのは、蝋で封をされた羊皮紙の巻き物。星見はアタッシュケースから巻き物を取り出すと封を解き、広げて中を見る。





 ――恵那ちゃん、お誕生日おめでとう。





 巻き物を開く前、書かれているのは呪文だと思った。

 魔法を喚び出す古の合言葉。予想とは違ったが、やはりそれは星見 恵那にとって魔法の呪文であった。


 拙い筆遣いから、祖父が慣れない異国の言葉を必死で書き記した事がよく分かる。

 祖父は世界から出題された問題用紙の回答欄を全て埋めた人物であったらしいが、平仮名と漢字は不得意であったらしい。力の入り方を見誤ったのか、払う箇所でインクは所々掠れて滲んでいた。それでも、書き手の優しさが文面から伝わる字であった。

 思わず、涙が頬を伝う程に。


「これが、ノルベルト・クナイフェルの遺産だと云うのですか!?」


 マーフィー・マーの絶叫が、工場内で幾重にも残響する。


「天体の門への到達方法は!? エノクの記した鍵と合図は!? ヤキンとボアズの両義性は!? 秘密の首長らの意図は!? 冗談じゃあありません、こんな薄汚い紙切れが遺産の訳がないでしょう!!」

「遺産だよ、これこそが。もっとも君が考えるとは僅かに差異があるようだけれど」

「わたしはッ!!」


 唐突に会話に割って這入ろうとした星見の声が大きく響いた。

 予想外の大声に声を発した本人が身動ぎする。


「知りたいのよ、わたしは」

 俯いて声のトーンを落としながら、星見は語り始めた。

「遺産の事、魔法の事、そういうはどうでもいい。わたしは転法輪 循という人間を知りたいんだ。その為に、その為だけにわたしは此所へ来た」


 俯きながらも、その視線は転法輪へ穿たれている。

 転法輪はそれを受け流す事なく、真っ直ぐと星見を見据えていた。


「保険屋で、調停員で、魔法使いで、そういう肩書きを知りたいんじゃあない。貴方が何者なのか、わたしは識りたい。それを識らなければ、いけないような気がするんだ」


 あの日。あの時。

 普段の人間の屑のような人物と、橋の上で血に塗れた凄惨な人物がどうしても結びつかなかった。マーフィー・マーに連れ去られてからも、ずっと同じ事を考えていた。転法輪 循とは何者なのか、と。


 単純な興味からではない。

 星見 恵那は人の過去を根掘り葉掘り聞き出すような人間ではない。この数週間で転法輪 循もそれは分かっている。

 だからこそ、迷う。果たして彼女に自分の経歴を伝えても良いのか。



「――彼が何者だって?」



 転法輪が言葉を紡ぐ前に、何を今更と嗤いを噛み殺しながらマーフィー・マーが言った。


取り替え子チェンジリングに、決まっているじゃありませんか」

「!?」


 聞いた事のある単語。

 そして聞き慣れない状況。何故そこでその言葉が出てきたのか、星見 恵那にはまるで理解出来なかった。


「先日の戦闘を見ていて気付きました。彼は魔法を使わないのではなく、魔法を使えない――――要するに、魔法を使えない魔法使いなのです」

「それがどうして、取り替え子チェンジリングなの? 取り替え子チェンジリングとは文字通り、妖精が悪戯で取り替えた子供の事でしょう?」

「聞いた事はありませんか? 魔女は洗礼前の子供を鍋に入れて悪魔への供物を作る、と」

「――――――」


 転法輪は愉しげに語るマーフィーに剣呑な視線を穿つが、気にした様子もなく語りを辞めない。


「故に火刑に処さねばならぬ――――それがまあ、かの魔女狩りの起源です。これは決して流言飛語ではなく、事実そういう儀式は各国の魔法文化に根付いていました。倫理観の五月蠅い現代では禁呪の類ですが、時々己の魔法を高める為に手を出す輩が一定の割合で居るようです」

「それが取り替え子チェンジリングと、一体何の関係があるの?」

「頭は良いですが、察しは悪いですね。差し出したんですよ、彼の保護者は。己の魔法を高めるべく、己の子供を妖精に贄として使ったのです。結果が、そこに居る調停員パーミッショナー。人間によく似ていますが、はまるで違う。一番の特徴は魔法が使えない事でしょうか。生物というより人形に近い存在ですからね。正確には妖精の一部、ですが。色々、思い当たる節があるんじゃあないですか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」


 思い当たる事だらけであった。

 転法輪 循という人間は、何処かズレている。普通に振る舞っているようで、何処か何かが決定的に違う。

 わざとらしく人間のをしているような、そんな違和感が常に影のように纏わり付いていた。


 納得がいく。彼が両極端な存在である理由に合点がいった。

 不意に星見は転法輪へ視線を送る。しかし視線に捉えられた彼は肯定も否定もせず、マーフィー・マーへ剣呑な視線を向けていた。


「ああ、分からなかったんですか。知っているものかと。どうせなら最初に言っておくべきでしたね。そうすれば、もう少ししっかりと心を折れたものを」


 二枚貝の殻が開くように、じわりと開く双眸。

 その視線の中には、巻き物を持ちながら呆然と佇む星見 恵那の姿。


「・・・・・・しかしまあ、良しとしましょう。実際此所で心が折れてくれたのは僥倖です。逃げ惑われても、殺害は面倒ですから」


 マーフィーは背中に手を回し、シースからナイフを引き抜く。

 転法輪のRAT-5より刃渡りが長く、ナイフと云うより銃剣を連想させる灰色のブレード。逆手に構え、切っ先を下段に向けた。


「本当はノルベルト・クナイフェルの遺産を手に入れてからの予定でしたが、まあ遺産の正体がでは仕方がありません。どうせ損失はWoMAウーマ全体が被るモノで、俺にとってはちょっとした海外旅行みたいなものですから」


 下段に構えたナイフの切っ先を星見へ穿つ。


「じゃあ、お手数ですが二人とも死んで下さい。特に恨みはありませんが」

「――勿体ないね、それ」


 間合いに這入るべく足に込められた力が、転法輪の言葉に緩む。


「勿体ないお化けが出るレベルだよ。遺産の正体も気付かずに、星見 恵那を殺害するなんて」

「方便・・・・・・には、聞こえませんね。どういう事ですか?」

「君、まだ分からないのかい? こんな羊皮紙の巻き物に言葉が書かれているんだぜ? それはもう、魔法の呪文に決まっているじゃあないか」

「っ――――――――!?」


 一同の視線が、星見の広げた巻き物へ注がれる。


「星見 恵那、その呪文を唱えるんだ。その呪文は君にしか唱える事が出来ない。十七年分の誕生日プレゼント、そのリボンを解けるのは君しかいない!」

「発動させる気ですか!! やめ――――」







 ありがとう――――――――!!







 マーフィー・マーの静止よりも早く、星見 恵那は巻物に書かれた短い祝福に対する言葉を叫んだ。

 刹那、羊皮紙の巻き物に光を帯びた魔法円が浮かび上がる。それは異界を繋ぐ門となり、また魔法の力を呼び覚ます水路と化した。


「何て云う事を! 魔法をこんな場所で発言させるなんて、何て貴方は考え無しの大馬鹿野郎ですかッ!!」


 暴風のように荒れ狂う光の奔流。

 衝撃音と光線に耐えながら、マーフィーは大声を張り上げた。


「考え無し? 計算通りさ。実際、居なかったろう? いつも僕と一緒に居るタマがさ」

「!?」


 そうだ、あのデブ猫が居ない。

 いつもは転法輪 循の肩にはべり付いている嫌らしい顔をした化け猫が、今日に限って何処にも居ない。


「え――――」


 刹那、星見 恵那の立つ地面がぐらりと揺れた。

 まるで地面が浮き上がるよう。否、浮き上がっているのだ。地面そのものが。



「これが、ノルベルト・クナイフェルの遺産だ」



 工場跡が一瞬にして吹き飛び、高速道路が崩れ落ちる。

 宙空に浮かび上がる建造物を見上げ、転法輪 循は言った。頭上から降りしきる瓦礫など物ともせず、トレンチコートをはためかせ雨風を遮るように手を翳している。


「馬鹿な、馬鹿な・・・・・・そんな、馬鹿な――」

「言ったろう、君らの考えているモノとは僅かに差異があるとね」


 至高の魔法使いノルベルト・クナイフェル最期の魔法。

 それは空中に浮かぶ、遊園地であった。

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