四、『最後に残った魔法は〝希望〟』その4

 こういう状態をストックホルム症候群と呼ぶらしい。


 星見 恵那は平らげた蒙古タンメンの容器に割り箸を突っ込むと、ふと己の置かれた状況について思案した。


 小西 沙友理を殺害し尚且つ己の遺産を強奪しようとしている人間に勉強を見てもらい、こうして一緒に食事をしている。

 空のカップラーメンやペットボトルの容器に混じり散らばるのは、オセロに将棋、ドラスレやドワスレといったボードゲーム。此所が廃屋でなかったら大学生の部屋と見間違う程に世俗に塗れている。


 拘束も先程コンビニから帰った後からされていない。マーフィー・マーにとって星見 恵那は人質であるが、現状この扱いは人質としての待遇ではなく、まるで自宅に招いた友人のような待遇であった。


 そして星見 恵那自身も、マーフィー・マーという男について不思議と怒りや恨みが沸いていなかった。当然、恐怖さえも。この男の接し方が些か歪んでいるとはいえ紳士的だった事も影響していると思われるが、の原因は自分でも解らない。


 ストックホルム症候群、という言葉が星見 恵那の脳裏に浮かんだ。

 スウェーデンの首都ストックホルムで起きた強盗事件。そこで人質となった人々は長時間強盗犯と寝食を共にすることによって親近感が湧き、最終的に人質達は自主的に犯人に協力したという。そこから、犯人に対して人質が好意的な感情を持つ状態をストックホルム症候群と名付けられたらしい。


 似ている。しかし、何処か違う。

 正直そこまでマーフィー・マーに好意は抱いていないし、別に転法輪 循に対して銃口を向ける予定はない。


「・・・・・・困りましたね、期日に台風直撃は確定ですか」


 スマートフォンをフリックしながら、マーフィーはポテトチップスを頬張る。その姿は自堕落な大学生と差異はない。


「星見さん、お手数ですがコンビニでレインコートを買ってきては貰えないでしょうか? 傘だと飛ばされる危険がありますので。購入時には上様でいいので、領収書の発行をお願いしますね。あ、数は一つでお願いします。俺には必要ありませんから」

「今時上様って・・・・・・貴方の会社って、細かいのか適当なのか分からないわね」

「会社でなく結社です。分類的にはNGOですね」

 どうでもいい、星見は胸中で呟くと出口まで歩いて行く。


「――――――――――」


 途中、振り返る。視界に入ったスマートフォンを弄るマーフィーの顔が残忍な薄ら嗤いを浮かべていた。


 きっと、と星見は玄関に視線を向け直し思案に耽る。

 遠くない未来、彼は――――マーフィー・マーは、自分を躊躇ためらわず殺害するだろう。そこに悪意はなく、必然があるだけ。


「・・・・・・成る程、ああ――――分かってしまった」


 ドアノブに手を掛けながら、星見は独り言ちる。

 やはり、ストックホルム症候群ではない。



「わたしも彼も、の所で互いに興味がないんだ」



 だから、居心地が良かったのだ。互いに干渉しないから。


 けれども、と星見は己の胸を押さえて唇を噛んだ。

 この居心地の良さは、悪いモノだ。心だけでなく存在そのものを堕落させる。


 順応してはいけない。前に、進みたいんだ、星見 恵那わたしは。


 ドアを開け放つ。

 うねるように荒れ狂う強く大きい雨粒が、星見の全身を穿った。それでも彼女は臆することなく朽ちたコンクリートの廊下を己の足で進んでいく。


 答えはもう、決まっていた。

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