第二章『調停員は高校講師』
二、『調停員は高校講師』その1
それは懐かしい夢だった。
わたしはまだ幼稚園にすら通っていない幼子で、見た事もないくせに懐かしい部屋で布団に寝かされていた。
きっと此所は、自分が生まれた家なのだろう。引越ばかりの人生だから、最初の家なんてもう憶えていない。それなのに何故か此所が生家だという確信があった。
多分、夢だからだろう。
夢の中で、ぼやけた人影が三つ。女性が一人、男性が二人。女性と男性は写真でしか知らぬ父と母。後の一人に、見覚えはない。しかし夢の中のわたしはよく知っているようで、布団の中でしきりにその男性を呼んでいた。
――我が儘言うのは止めなさい、恵那。
母親と思わしき女性の声。優しい、窘めるような声。わたしの記憶では、こんな柔らかい声を掛けられた覚えはない。怒声と金切り声、それから暴力。わたしのコミュニケーションはそれが全て。だから少しわざとらし過ぎて、これが夢だと強く再認識した。
――仕方がないでしょう、インフルエンザなんだから。
頭を撫でる、大きな手。安心する。母親というものは、こういうものなのか。ただ居るだけで、安心出来る。それでも、小さなわたしは愚図る事を止めない。泣き喚く姿は獣そのもの。理性の欠片もない。ひょっとして馬鹿なんじゃあないか、と思う。この世に自分で自分を馬鹿にする程に哀しい行為はないが、実際馬鹿なんだから仕方がない。
――だってお爺ちゃん、明日帰っちゃうんでしょ?
拙い言葉で、必死に訴える幼いわたし。馬鹿のくせに覚えたばかりの言葉を駆使して母親に訴える。帰っちゃう、いつ会えるか分からない、だからどうしても今日行きたい。
――じゃあ、こうしようか。
お爺ちゃんと呼ばれた見慣れない男性が、屈んで微笑みながら提案してくる。
――恵那ちゃんのお誕生日に、プレゼントしてあげよう。
絶対に? 絶対だよ?
幼く愚かなわたしは、鼻声でお爺ちゃんに何度も了解を取る。その中には、何処で覚えたのか口汚い言葉も混じっていた。それに対しお爺ちゃんはただただ何度もうんうんと頷いていた。
――嘘なものか、だってお爺ちゃんは魔法使いなんだから。
どんなに罵られても笑顔を崩さず、お爺ちゃんは言った。父親と思わしき男性が済みませんと何度も謝った。それに釣られて母親も頭を下げる。そんな様子をテレビのように眺めていたわたしは、今更ながらに気付かされた。
幼い日、わたしは魔法使いに出逢った。手から光を生み出し、空に虹の橋を架ける本物の魔法使いに。
あの魔法使いは、祖父だったのか。
幼い日に、わたしは自分の祖父に出逢っていた。そして、わたしは祖父と何か約束を交わしていたらしい。自分の遺産の相続人に約束を交わしたわたしを選んだ祖父。つまり、わたしが相続する遺産というのは――
ベッドから飛び起きる。
時刻は、午前三時六分。畜生、まだ朝じゃあない。微睡む頭の中、見ていた夢が映画の予告編のように断片的に再生されている。
「何でこんな夢、見たんだろう・・・・・・」
頭を掻き毟りながら、独り言ちるようにぼやく。
そんな事、誰に聞かずとも分かっている。あの日、再び魔法使いに出逢ったからだ。
硝煙の臭いがする、情けない魔法使いに。
◇
どうして、こうなったのだろうか。
授業中、星見 恵那は机に突っ伏して無音の呻き声を上げた。
机に広がった長いアッシュブロンドの髪が、
授業は世界史。神聖ローマ帝国とか、何かその辺。星見 恵那にとって、特に興味の無い授業である。
世界史はつまらない。一体、年号と用語を覚えて何になる。どう考えても人生に必要のない勉強の筆頭だろう、世界史。普段教室の隅っこで縮こまっているような根暗のテンションが上がるのも、彼女の世界史がつまらない理由に拍車を掛けていた。
周りも、大体似たようなものである。教科書に書いてある事を朗読してノートに纏めるだけの単純作業。教師が喋っている言葉は、全部教科書に書いてある。テストも教科書の太字からの出題。だから提出用のノートだけ取るとスマートフォンやマンガを取り出して、思い思いの方法で残りの時間を過ごしていた。
今日もいつもと変わらぬ授業風景――――の、筈だったのに。
「乾燥パスタを讃えよッ!!」
「イエス、乾燥パスタッ!!」
「声が小さいッ!!」
「グローリー・オブ・乾燥パスタッ!!」
・・・・・・何で、乾燥パスタを崇め奉っているんだ、お前等は。
確かに乾燥パスタは重要な存在だと、星見は頭痛のする頭で思考する。
乾燥パスタが発明されていなければヨーロッパ大陸は慢性的な飢饉に苛まれ、発展どころの騒ぎではなかっただろう。痩せた土地が多いヨーロッパに於いて、産業革命は疎か新大陸の到達も夢のまた夢であったに違いない。同じ小麦粉製品とはいえ、冬を越すにはパンだけでは限界がある。長期保存が可能で消化の良い乾燥パスタこそ、ヨーロッパに差した一筋の光明だったのだ。
分かる。理解出来る。何気にインノケンティウス三世とか十字軍より重要なファクターだ、乾燥パスタは。さらに時代が進むと、南米大陸からもたらされたトマトと運命的な出会いを果たし栄養価も上昇する。しかしだからといって、此所まで狂信的に奉る必要はない。
いや――――と、星見は机から顔を引き剥がして頭を振った。そういう問題じゃあない。乾燥パスタとか、狂信者と化したクラスの連中とか、そんなものはどうでもいい。
問題は教師だ。いつもの眼鏡を掛けて脂ぎった中年の教師ではない。無作法に教卓へ腰掛けクラスメイトを扇動しているのは、先日出逢ったあの魔法使い、転法輪 循その人であった。
・・・・・・何で、お前が、
転法輪 循が教室にずかずかと入ってきた時、星見 恵那は〝開いた口が塞がらない〟という慣用句を身を持って知る事となった。オマケに、あの二足歩行の猫まで付いて来ている。幸いにして周囲の人間に猫は見えないらしい。あのブタ猫が魔法使いにしか見えない妖精、というのはどうやら本当のようであった。
服装は出逢った時のようにトレンチコートではなく、上下ネイビーカラーのスーツに赤い無地のネクタイ。整った顔立ちと服装から、大学を出たばかりの新任教師のようである。
あの日、転法輪は己を日陰者だと評した。しかしこのように生徒の心を掴んでいる辺り、とても日陰者とは思えない。子供時代はクラスの中心人物。星見はこの男が小学校の時にサッカー部に入っていたと勝手に仮定した。
本人曰く、新しく就任した講師らしい。自身の研究の為にヨーロッパ中を遍歴して見聞を深めたとか、適当な事を言っていた。一体どうやって教員免許も無さそうな魔法使いがうちの高校に潜り込めたのか、問い
しかし、気になる。腹が立つ。おいそこのデブ猫、何を下品に笑っている。
途端。
終業のチャイムが響いた。一瞬にして、狂乱に包まれた教室が静寂へと変わる。あまりの変貌ぶりに、星見 恵那は周囲を
まるで、悪い魔法が解けたみたい――
「!?」
自分で言った言葉に自分で驚愕する。そうだ、転法輪 循は魔法使いなのだ。魔法でクラスメイトに暗示を掛ける事など、それこそ文字通り朝飯前に違いない。
椅子から飛び上がると同時、星見 恵那はノートと教科書を乱雑に鞄へ詰め込むと、鞄を担いで教室を飛び出した。
次の時間は数学。小テストが若干気になるが、今はそれどころではなかった。一刻も早く、転法輪 循とブタ猫の後を追わねばならない。
確かめなければ、教室の事。
自分はまだ、転法輪 循の魔法をまだ見ていないのだ。
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