一、『相続人は死にたがり』その3

 今日なら死ねる気がする。


 星見ほしみ 恵那えなはやる気持ちを抑えながら、ローファーでリズミカルにアスファルトを打ち鳴らす。学校指定の鞄の中で教科書が踊りアッシュブロンドの髪がイルカのように揺らいだ。雲一つない秋晴れ。高い空は見ているだけで吸い込まれるようで、堕ちて昇るには丁度良い。


 やはり自殺は飛び降りに限る。


 先月は首吊りをしようと良い枝振りの桜の樹を見付けたが、運悪く切り倒されてしまった。

 どうやら倒壊の危険があったらしい。


 その前の月は電車に飛び込もうと意気込んだが、自分が飛び込む前に別の誰かが飛び込んでしまった。

 お陰で学校に遅刻した。遅延証明書を担任に提出したが、本当に遅刻を無効に出来るか疑わしい。


 王道たる七輪と練炭も当然選択肢の一つであったが、あの二つをホームセンターから自転車で運ぶのは流石に無理があった。

 七輪、意外と重い。アレを運ぶには車が要る。だが車の免許を取るまで待てない。


 ネット通販で取り寄せる事も考えたが、荷物を運悪く叔父か伯母が受け取ってしまったら目も当てられない。

 コンビニでの受け取り? 職務に忠実なバイト君が中身を見て、通報したらどうする。世の中を破綻させるのは、いつの時代も無能な働き者がやらかすなのだ。


 それに比べて、と星見は雑居ビルの非常用階段を上がりながら思考する。


 飛び降り自殺の、なんと素晴らしいことか。

 まず、準備資金が掛からない。リーズナブル。前準備は要らず、ぴょんと飛び込めばあとは地獄まで真っ逆さま。シンプルで良い。果たしてこれ程までに楽な死に方が他にあるだろうか。


 錆の臭いがきつくて重いドアをこじ開けるように開け放つと、夢にまで見た屋上が現れた。其処此処に雑草と苔が生い茂る汚らしい屋上だったが、星見にとってはどうでも良い。どうせ自分の躯も、汚らしい肉塊に変わるのだから。


 鞄を放り出すと、錆で塗装が浮いた手摺てすりに手を掛けて眼下を見つめた。五階建て雑居ビルの屋上、事実上六階だ。頭から飛び降りれば間違う事なく死ねるだろう。


 星見は手摺から手を放すと、ローファーを脱いできちんと揃えて配置した。

 セオリーは大事だ。


 靴の中に遺書を入れるのも伝統らしいが、生憎と入れるべき遺書を用意していない。一緒に暮らす叔父と伯母は今までのいけ好かない連中とは全然違う善人だったが、だからといって特段伝言を遺すような義理はなかった。


 あの人達は星見 恵那という哀れな少女が受けてきた仕打ちに対して同情的であったが、同時に厄介事に関わりたくないと一線引いた態度で彼女に接しているのもまた事実だった。


「・・・・・・あ、学生服ブレザーで来たのは失敗だったか」


 さて飛び降りようとした時、星見は自分の身なりに気付いた。スカート。このまま飛び降りれば、間違いなくパンツ丸見えで死ぬ事になる。そんな醜態を晒したくないという思考が脳裏を掠めた。


 星見は苦笑する。あと数分で死ぬというのにそんな下世話な事を考えるなんて、なんて自分は馬鹿なのだろうか。


 ――まあ、馬鹿だから自殺なんて思い付くのだけれど。真っ当に生きていたら、普通は、自分で自分を殺そうとは思わない。


「仕方がないから、このまま逝くか」


 星見 恵那は呟くと、手摺をさっと飛び越えた。手摺を超えれば遮る物は皆無。僅かな風が、ソックスだけになった両足を兇暴に揺らした。


 思わず、身がすくむ。


 死の恐怖からではない。例えるならば、初めてプールに入った時に感じた未知への畏れ。彼女にとって、眼下は既に異界じみた地獄である。そしてまた、彼女が佇む世界も針のむしろじみた地獄であった。


 どちらも同じ地獄であるならば、まだ未踏の地獄の方が幾何か――――そう結論付けて、星見はへりを蹴って飛び降りた。


 落下するに従い、薄れていく感覚。果たして昇っているのか堕ちているのか、それすらも希薄。流れ込んでくるイメージは、全て愉しかった想い出の断片。幼い事に出逢った一人の魔法使い。彼が杖を振るう度、想い出は一層光を帯びて輝き出す。


 想い出す程、綺麗な想い出は少ない。ずっと汚濁の中を生きてきたから。


 今日から家族だと言われた叔父や義兄に犯され掛けた事は、一度や二度の話ではない。酷い時は伯母や義姉に襲われ、アレがなくとも性行為は出来るという有り難くない知識が手に入った。


 暴力は日常茶飯事であり、心安まるのは目を瞑る僅かな時間のみ。そんな自分が最期に見る想い出がこんなにも綺麗な事に、星見 恵那は思わず涙を流した。


ずるい、狡いなあ、本当に・・・・・・」


 幼子のように泣きじゃくりながら、星見は笑う。


「こんなに綺麗な想い出を見せられたら、生きたいってうっかり思っちゃうじゃあないか」


 未練。

 それは初めて芽生えた彼女の生への希望であった。命尽き果てる瞬間の遅すぎる萌芽。この世に神様が居るとしたら随分と悪趣味なヒトだと、星見は自嘲気味に独り言ちた。


 手を伸ばす。伸ばしたところで助からないのは分かっていた事だが、星見 恵那は徐に手を伸ばした。ずっと届かなかった逃げ水のような想い出を掴み取るように。


 落下速度は、命が尽きる速さに比例する。例えるならば砂時計。さらさらと落ちる砂の代わりにはらはらと涙が宙を舞った。


 ああ本当に死ぬんだな、星見の諦観じみた視線が青い空に穿たれた。

 ぐしゃぐしゃになって、汚く、まるで自分の内面のように醜い固まりとなって死ぬ。


 その肉塊はきっと棺に入れられる事もなく、ゴミ袋みたいな大きな袋に纏められるだろう。燃えるゴミ? それとも燃えないゴミ? どちらにせよ、愚かな自分には似合いの死に方だと、彼女は思った。



 ――自業自得、なのだから。



 刹那。

 風が吹き上げる。周囲を流れる風の軌道を無視し、間欠泉が噴き出すように星見 恵那の躯を持ち上げた。


 余りにも唐突な事態に声が出ず、彼女は両手両足で藻掻くように虚空を掻く。それはまるで初めてのプールで足が付かなかった時によく似ており、それを想い出して涙が花のように開いた。


「――間一髪、だな」


 短い言葉と共に差し出された右手。自分の手よりも一廻り以上大きな手が、がっしりと星見の右手を掴んで放さない。


「流石に保護対象に自殺されたら、始末書だけじゃあ済まない」


 保護対象?

 始末書?


 聞き慣れない男の言葉に星見は首を傾げる。しかし男は彼女の問いに答える事なく彼の左隣へ視線を向けていた。


「助かったよ、ありがとう」

「貸し一つ、だな。ツケておくぜ」


 それは手摺に腰掛けた一匹の黒猫であった。

 否、猫と形容するには些か体積が大きい。まるまると肥えたその体は子豚のようで、頭だけ猫にすげ替えたようなアンバランスさがあった。


 手足も猫のそれではなく、デフォルメされた人の手足である。中折れ帽を被り手には手袋、足には長靴。それぞれ人形用にあつらえられたものと思わしき被服で体を着飾っていたが、胴体にはベルトを巻いただけで何もなかった。


 人間であれば完全に露出狂の類であったが、毛皮が衣服の一種であると考えれば何ら不思議はない。


 ジャラジャラという音がする。最初は鈴か何かと思ったが、それは腰に結わえられた無数の小瓶がぶつかる音であった。何も満たされていない空のガラス瓶。意味があるのかファッションなのか、星見には分からなかった。


 否、分からない事だらけである。

 目の前の長髪の男の正体、どうして自分が助かったのか、何故猫が直立歩行しているか、沸き上がる疑問は数限りない。絶えず胸の奥から泡沫うたかたのように沸く疑問を吐き出すように、星見は口を開いた。


「猫が喋っている・・・・・・」


 月並みな感想に、星見 恵那は紅潮した。

 助けてくれた事への礼、彼らが何者であるか、他にももっと言うべき言葉はあっただろうに第一声が〝猫が喋っている〟なんて、控えめに言ってであった。


「ああアンタ、オイラが見えるのか。まあ当然といえば当然か」

「当然って、ええと、別にわたし霊感なんて――」

「そんな、曖昧なものじゃあないさ」


 よ、という男の短い掛け声と共に星見の躯が屋上に戻される。地面に足を着いた途端、彼女の躯から一気に力が抜けた。


 立とうと力を込めようにも根が張ったように躯が動かない。

 脳以外の全てにストライキを起こされたようだと星見は思った。お前の都合で死んで堪るか――――そう、細胞一つに至るまで彼女に訴えかけているような感覚。そこら中で嫌われ続けた人生であったが、まさか自分の躯にさえ愛想を尽かされるとは。星見 恵那は胸中で自嘲気味に嗤った。


「僕らは、こういう者でね」


 男は座り込んだ星見に対し、名刺を一枚差し出した。そこには転法輪 循という男の名前とLIMBOという企業名が刻まれている。


「僕らは埋葬協会の人間だ。まあ、隣のは猫だけれど」

「猫じゃねぇ、妖精猫ケット・シーだ。まったくオイラのカラバ侯爵は物覚えが悪くて困る」

「埋葬? 協会? え・・・・・・何?」


 星見の反応に猫と男は顔を見合わせる。それから異口同音に「そりゃそういう反応だよな」と言った。


「簡単に言えば、生命保険会社だよ。魔法使い専門の、ね」


 男――――転法輪 循の言葉に対し、星見 恵那は呆けた表情に変わる。

 無理もない。魔法と無縁に生きてきた人間に魔法使い云々と言っても、直ぐには理解は出来ないだろう。


「あの――」


 どうしたものかと転法輪が思案を巡らせていた時、徐に星見が口を開いた。


「ひょっとして、新手の保険勧誘ですか? お言葉ですけれど、見ての通り自殺しようとしていた人間を加入させても、そちらに旨味はありませんよ」


 星見の言葉に、転法輪の顔が引きつった。隣で妖精猫ケット・シーが沸騰した薬缶の蓋のように笑い転げる。


「あ――――勧誘じゃあ、ないんだ。そういうのは、別の部署の人間がやっている」


 妖精猫ケット・シーを横目で睨みながら転法輪は言う。


「君は君の祖父が遺した遺産の相続人に選ばれたんだ。そして、僕らは君が遺産を円滑に相続出来るよう手助けする為に来た」

「え、それって――」


 眼を見開いた星見に対し、転法輪は静かに頷き言葉を紡いだ。


「ああ、そうだ。君の祖父は魔法使い。それも、ただの魔法使いじゃあない、最高位の魔法使いだ。誰もが彼を目指し、誰もが到底辿り着けぬ頂で一人佇む男。魔法使いの中の魔法使い。君はそんな高名な祖父の遺産相続人に選ばれたんだよ」


 先程よりも一層冷たい風が、転法輪の着込んだトレンチコートをはためかせた。


「そして、だから君は命を狙われている」

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