一、『相続人は死にたがり』その2
色付く前の街路樹の銀杏から、秋の気配を僅かに感じる。
いつからだろうか、季節の移り変わりを強く感じるようになったのは。
暑くなってきたら夏、寒くなったら冬。子供の時分はもう少しアバウトに季節を感じていた。
俗に五感は大人になれば鈍くなるという。
今年で三十路の大台が見えてきた
纏まった日数、この国を離れていたのも一因だろう。
欧州で十年近く暮らして弛緩した感覚が、帰国した事によって機敏になったのだと考えれば一応の納得はいく。しかし根本の原因ではないような気がした。
「・・・・・・待たせて悪かった」
対面に座った男の気配に気付き、転法輪は格子窓から視線を男へ向ける。直ぐに男の領域にまで侵犯していたビール瓶と丼を自分の近くへ引き寄せ、男が座るスペースを生み出した。
男は白人であった。転法輪が目を通した記録では歳は四十代の筈であったが、頭頂の薄い金髪と彫りの深い顔に幾重も刻まれた皺が、男を初老に見せる。元は仕立ての良いオーダーメイドであっただろうノッチドラペルのスーツは酷使され所々が
「いい加減、事務所を構えたいんだけれどなかなか予算が下りなくてね。まあ、事務所を構える程の人間は居ないが」
気さくな口調の英語で男は言うと、運ばれてきた氷水を呷っておしぼりで額の汗を拭う。一息吐いたところで椅子に腰掛け、懐から名刺を取り出して転法輪に差し出した。表面は英語表記、裏面は日本語表記。転法輪は渡された名刺を弾くと角を人差し指の腹に乗せて弄び、英語表記と日本語表記を交互に眺める。
「成る程、貴方が僕の新しいボスという訳か」
「直属の上司であり、日本支部統括の上司でもある。これでも私は支局長でね。もっとも、こんな極東の支部長を任されたところで自慢にもならないが」
体の良い左遷だよ、男は肩を竦めて笑った。
「左遷はお互い様だよ、ミスタ・・・・・・」
「
お品書きに手を伸ばしながら男――イーヴリンははっきりとした口調で言った。
「君は良いじゃあないか、この国が故郷なんだから。私なんて端から端だよ? 飛行機で十時間以上掛かる文字通りの僻地だ。しかも本社がケチだからエコノミークラス。同期の女は『ニンジャに会えるのだから良いじゃない』と囃し立ててきたが、そのぐらいの特典で喜び勇んで行く場所ではない」
「箒を使って行ったらいいじゃあないか。そうすれば飛行機代が浮く」
「却下だ、持病の腰痛が悪化する」
茶化す転法輪の言葉を短く否定すると、イーヴリンは右手を挙げて店員を日本語で呼び止める。
「日本酒、それから鰻重の松と白焼きをお願いしたい。後は串焼きを適当に見繕ってくれ」
「お酒はどうされますか?」
「温燗。ああ、人肌よりも熱く頼む」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
英国人らしからぬ手慣れたイーヴリンの注文の仕方に、思わず転法輪は目を見張った。その視線に気付いたイーヴリンは、ばつの悪い顔で転法輪を見る。
「構わないだろう、日頃の憂さ晴らしだよ」
「いや、注文の仕方が堂に入っているなと思ってさ。特に酒の件が」
「郷には入れば郷に従え。何度も通えば自然と憶えるさ、別に不思議な事ではない。それよりも私はUKに居た頃から鰻に目がなくてね、最近ではもっぱら蒲焼きがお気に入りだ」
「ああ、それで待ち合わせが
アンタ絶対この国に来た事愉しんでいるだろう、という言葉を呑み込んで転法輪は相槌を打った。
「鰻料理は素晴らしいぞ、君。骨だらけで捌きにくく、オマケに血は毒だ。どう考えても食すのに適さない食材を創意工夫で一流の料理へと昇華させるその行為、まさに人類英知の結晶と言っても過言ではない」
「鰻のゼリー寄せも?」
転法輪の言葉に対し、イーヴリンは暫し黙考する。
「まあ、人の趣味嗜好は複雑怪奇だからね」
「はぐらかしたか」
「そろそろ、本題に這入りたいのでね」
嘆息しながらビールを啜る転法輪にイーヴリンは大きな茶封筒を差し出した。
「
封を切り書類を取り出した。クリップで留められた写真に視線をやる。
年齢十五、六才の少女。両眼の黒い瞳と丸みを帯びた輪郭に日本人らしさがあるが、長い
可愛らしさよりも美しさが際立つ少女である。写真を矯めつ眇めつ眺め、その美しさは少女の纏う影によるものであると転法輪は気付いた。
切り揃えられた前髪から覗く、深く沈んだ漆黒の双眸。
幾ら不安定な年頃とはいえ、このような目をする少女はそう居まい。レンズ越しにこちらを睨むその暗く窪んだ視線が背筋を寒くさせ、少女の怖気が走る美貌を一層引き立てるのであった。
「
「弁護士は? 当然、向こうの弁護士ではなくウチの弁護士の方だ」
「どのような最期だったか、という意味かい? それは」
イーヴリンの言葉に対し、転法輪は右手で顔を覆った。
迂闊であった。自分が呼ばれたという事は、最早交渉は決裂し意味を持たないという事と同義なのに。
「遺体が土へ還りやすいよう、骨片一つに至るまで丁寧に炭化してくれた。流石は環境問題に敏感なドイツ人だ。お陰で彼の事務所に費用を払わなくて良くなって本社としても大喜びだろうよ」
「喜んでる場合じゃあないでしょうよ。揉め事の度に行方不明者が出るようなら、いずれうちの顧問弁護士は誰もなり手が居なくなる」
「その心配は要らない」運ばれてきた
それに、と猪口を呷りながらイーヴリンは笑う。
「我々の仕事は常に死が付きまとう。故に世界が常に死が満ちている方が具合は良い。出来れば、遺言状を我が社に預けてから死んでくれれば尚良いのだけれどね」
「屍体が黒焦げになったら、下りるものも下りないだろうに」
運ばれてきた串焼きを一瞥し、転法輪は半眼で言った。
「まあ、下ろさないように出し渋るのも僕らの仕事だけれど」
転法輪は肩を竦めてビールを飲み干し、串焼きを口へ運ぶイーヴリンへ視線を向ける。
「星見 恵那の件だが、本社の連中は遺言通り遺産を彼女へ譲渡する気なのかい? それこそ適当な理由を付けて出し渋れば、僕が出る程には拗れなかった筈だ」
「当初は星見 恵那に遺産相当の現金を渡してこちら側へ関わらせない手筈だった。しかし、こちらの弁護士を消し炭に変えたところで事態が変わった。我々の業界はこの国の言う所の仁義で出来ている。平然と泥と糞尿を顔面へぶつけるような舐めた奴らに、一切の慈悲はない。契約を破った者の末路は、古来よりただ一つだろう?」
「金を払えぬ者は金と同じ重さの血で贖え・・・・・・ね、ベニスの商人もびっくりの社訓だな、我が社の社訓は」
「その社訓があったからこそ、うちは新興ながら業界最大手にまで上り詰められたんだ。こんな最果ての地に支部を構えられる程に」
白焼きに醤油を掛けてからたっぷりと山葵を載せ、イーヴリン・ポープはじっと転法輪 循の双眼を見つめる。
「私は素直に左遷されたのではない、顧客を開拓しにこの地へ来たんだ。この国は豊富な需要に反してまだ他の連中に食い散らかされていない、謂わば手つかずの金鉱脈。必ず本社を満足させる利益をもたらす事が出来るだろう。今回の件は、その狼煙でもある。本社に我々が如何に優秀な人材であるか、知らしめてやろうじゃあないか」
「そうだな、そうすれば本社も気を良くして事務所ぐらい建ててくれるかもしれない」
転法輪の答えに対し、一瞬イーヴリンは呆けた表情を見せた。しかし直ぐに失笑し、右手で顔を覆う。
「愉快な男だな、君は。経歴を見た時は、もう少しヤバい奴を想像していたんだが違ったようだ。君とならば、上手くやれそうな気がするよ」
イーヴリンはひとしきり笑った後、山のような山葵ごと白焼きを平らげた。それから程なくして鰻重が運ばれてくる。その香ばしい匂いにイーヴリンは顔を綻ばせて蓋を取った。
水蒸気と共に立ち昇る、タレと僅かな炭の香が合わさった芳しい匂い。その芳醇な香りをゆっくりと愛撫するように堪能してから山椒を振り掛ける。鰻を白米と共に一口頬張ると、イーヴリンは恍惚な表情を浮かべた。
「素晴らしい、やはり鰻重は最高だ。私は鰻重こそ、一番上手い鰻の調理法だと思うね」
宣するようにイーヴリンは天を仰ぐと、重箱を持って掻き込むように頬張り始める。その様相は駅の立ち食い蕎麦屋で一心不乱にかけそばを啜るサラリーマンと差異はなく、イーヴリン・ポープがこの日本という国の文化に順応している何よりの証だと転法輪は思った。
「ところで、君には確か相棒が居た筈だね? 今日は来て居ないようだが」
「ああ、アイツね」転法輪は店員を呼び止めて代金を払いながら言った。「多分、そこら辺を彷徨いているんじゃあないかな。何せ奴は新しい場所を見付けると、縄張りを主張する為に歩き回る癖があるから」
釣り銭を受け取ると、転法輪は席を立とうと腰を浮かせる。それをイーヴリンは箸を置いて無言で制した。
「私からの復帰と就任祝いだ。受け取り給え」
転法輪は、懐からイーヴリンが取り出した小箱を開ける。それは転法輪の名が刻まれた名刺の束であった。フォーマットは先程イーヴリンから渡された名刺と同じ。城頭を象った
しげしげと自身の名刺を眺めていたが、やがて転法輪は小箱から数枚の名刺を財布へ収め、小箱と共に懐へしまった。
「随分ケチだな。普通、祝いの品は万年筆か時計と相場は決まっているだろうに」
「失礼だね、私は相場よりも実益を優先するのだ。調停員には高価な万年筆も時計も必要ない。着飾って相手を信用させるのはカモを連れてくるセールスマンであって、事後処理担当の調停員ではないからな。必要なのは顧客に明かす身分を示す代物、つまりは名刺だけだ。これがあれば例え警官に留置所へ放り込まれても半日でシャバに出られる、まさに魔法の鍵だ。君のような人間にとっては、万年筆や時計にも勝る何よりの贈り物だろう。精々、感謝することだ。この私、イーヴリン・ポープに」
「僕が捕まること前提かよ、まったく。そもそもこれ、本社の支給品だろうに」
嘆息すると、転法輪は今度こそ席を立ってハンガーに掛けられたトレンチコートを翻しながら着込んで外へ出る。まだ秋とはいえ夏の片鱗が残る時期、それでも何故か転法輪 循が袖を通すと秋を通り越して冬の訪れさえ感じさせた。
ああそうか、と道すがらトレンチコートのポケットに収められた煙草の箱を弄び先程の自問への答えを導き出す。
季節の移り変わりに敏感になったのは、自分の季節が冬で停まっているからだ。揺られている時よりも駅で停車した電車の車窓を通して見る風景がはっきりと見えるように、自らもまた停まっているからこそ繊細な事に気付くのだろう。
停まっているのだ、あの冬の日から。四ツ辻の回廊を彷徨い、この魂は一歩たりとも抜け出せないでいた。
転法輪は煙草を咥えると、小脇に抱えた封筒に一瞥をくれる。
終末まで睡っている筈の死者ですらこうして騒々しいのに、と紫煙を吐き出すように独り言ちた。
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