それから俺達はエースがもう一機の正常に動くエレベータに乗り込むのを見届けて、ビルの一階裏手にある荷物搬入口に向かった。そこには段ボールの箱が無造作に積まれており、これ幸いと身を隠す。




 少しだけ開いた扉の外をそっと覗いてみるとやはり、表玄関ほどでは無いだろうが人や警察官がまばらに散らばっていて、俺達が今いるスカイタワーを見上げていた。




「キング、あまり覗くな。見つかる」


 段ボールの陰に立て膝をついてしゃがんでいるジョーカーにスーツを引っ張られ、俺は身を隠す。ジョーカーと向かい合って座ると、不意に自分の手が気になった。




「ジョーカー、ハンカチ」


 俺が単語のみで意思を伝えるとジョーカーは何も言わずにポケットからハンカチを出して寄越した。受け取るとそれはジャケットに入れっぱなしだったのか、軽く皺は付いているものの綺麗に折り畳まれている。俺はハンカチを握りしめ、さっきエースに唇を押し付けられた手の甲をごしごしと拭いた。




「擦りすぎると赤くなるぞ」


「気持ち悪さの方が耐えられない」


 応えるとジョーカーは声を立てずに少し笑った。しかしその笑みは長く続かず、表の気配に神経を張り巡らすように厳しい顔に戻る。




「……エース、うまくやるだろうか」


「どうだかな」


 エースのあの、俺への心酔の度合いは目に余る物があった。俺はそれを利用して《あること》を吹き込んだのだが、常軌を逸している人間にやり遂げられるかどうかはわからない。ある種の賭けだな、と俺は思った。




 ジョーカーは落ち着かないように座り直し、また深い溜め息をついた。ヘビースモーカーの奴は、手持ち無沙汰になると身体がニコチンを求めるらしい。


「禁断症状か? 吸えばいいだろ、煙草」


 明らかに無理してるくせに、それでもジョーカーは頑なに首を横に振った。




「煙が外に漏れるかもしれない」


「……死んだら煙草も吸えないんだぞ。何であんな事したんだよ」


 無意識に責めるような口調になってしまった。俺は、ジョーカーが自分で自分を殺そうとした行動に対してただ純粋に頭に来ていた。何故頭に来るのかは、どうでもいい。




「お前だって俺を殺さない、って啖呵切ってただろ。同じだ」


「同じか?」


 確かに俺はジョーカーを殺さなければ自分も死ぬ、という選択に於いて躊躇いもせずジョーカーを手にかけることを拒んだ。


 だがそうしたら俺もジョーカーも死ぬ状況だったし、同じではないような気がする。納得出来ないまま俺は目の前の男の顔を眺めた。すると奴は、気まずそうに口を開く。




「……いや、本当言うと何も考えていなかったかも知れない」


「何だよそれ」


「あいつが口を動かしかけたのを見たら反射的に身体が動いてたんだ。その時は後先なんか考えてなかった」


 自嘲するように静かに語るジョーカーを見ているうちに、俺は何だかどうでもよくなっていた。しかしそれはいつもの投げ出すような心境ではなく、暖かな気持ちの変化だった。まあいいか、と思うと次の疑問が湧いてくる。




「そういえばお前、何で俺がここにいるってわかったんだ?」


 依頼の決行場所はスカイタワーではなく、少し離れた路上だった。いくら俺がスカイタワーに行きたがっていると知っているとしても、すぐに居場所がわかるとも思えない。


「ああ……キング、スーツの後ろ襟見てみろ」




 訝しく思いながらスーツの上着を脱ぎ、その襟を調べてみるとそこには小指の爪ぐらいの大きさの物体がくっついている。即座に、今朝アジトから出る前ジョーカーに『襟が立ってる』と直された事が思い出された。あの時に付けられたのか。




「GPS位置発信機。テストとして付けてみたんだけど役に立ったな」


「お前な……」


 俺はお前もろともアジトを爆破されないためにあいつの狂躁とした話を聞くことまでしてやったんだぞ、と言おうとしたが、飄々としたジョーカーの顔を見ていると笑いがこみ上げてきた。俺達は先ほどの事も含めて、どっちもお互い様だ。




「よくやった、ジョーカー」












 その時、ビルの上の方から爆発音が響いてきた。それに続いて人々の悲鳴が聞こえ、ようやくエースが行動を始めたか、と安堵する。




「始まったな」


「ああ」


 気を引き締めて表の音や人の動きに耳を澄ます。ざわざわとさざめく声の中に、意味のある言葉を探した。




『……どこだ!?』


『……十階、窓側……』


 今の爆破場所は十階のようだ。あいつが爆弾をどのぐらい設置しているかはわからないが、この際派手にやってもらわないと困る。どうせ展望室には上がれないのだから。


 突然、スカイタワーの中に設置されたスピーカーと、ビルの周囲にあるスピーカーから酷いノイズが大音量で流れ出した。ガガガッと騒がしいその音は神経を逆撫でし、外の空気が騒然とする気配を感じる。




「うるせ……」


 俺は思わず耳を両手で塞いだ。しかし徐々にノイズは薄れてゆき代わりに、表にいる野次馬達の騒ぐ声が聞こえた。何か変化があったのか?


 何だろうかと考える間もなく、スピーカーからクリアな声が発せられた。




『愚民どもよ……わらわらと集まって、御苦労なことだ』


 エースの声だった。どこか芝居がかって陶酔したようなその声色に、俺は上着を着直しながら思わず吹き出してしまう。




『ははは……警察の犬もいるのか。阿呆のように私を見上げている場合か? お前等の大事な大事な民衆が死ぬかもしれないのだぞ』


 言い終わると同時に、壁一枚隔てたすぐ傍で空気を震わす爆発音と地響きが起きた。悲鳴と、警察官が避難を促す怒号が聞こえ、俺とジョーカーはそっと扉の外を伺った。そこには白煙が立ち込め、目を凝らしても人影は見えない。




「……行くか」


「走るぞ」


 身体が通るギリギリの隙間からまず俺が外に出、ジョーカーが後に続く。荷物搬入口のすぐ傍の壁は爆破され、段ボールの箱には炎が上がっていた。その煙を吸い込まないように避けながら姿勢を低くして僅かな距離を走ると、すぐ前に逃げまどう人々の姿が見えた。


 ジョーカーと目配せをしあい、俺達はその群衆の中に紛れ込む。安全な2番街の警察官はこんなテロ紛いの事態に慣れていないのか慌てぶりを隠そうともせずに、下がれだの避難しろだのと喚いていた。全く周りが見えていない、俺達がビルの中から出てきたことも見てはいないだろう。




 とりあえずスカイタワーの中からの脱出は上手く行った。このまま逃げよう、と目で言ってくるジョーカーに知らない振りを決め込んで俺は高くそびえ立つスカイタワーを見上げた。偶然か必然かは知らないが、ビルの割れた窓からは、仁王立ちするようにしてこちらを見下ろしている男の--エースの姿が見える。




「……どうする」


 隣にいるジョーカーが、俺だけに聞こえる程度の声で囁く。心配せずとも周囲の人々は皆頭上に釘付けだから聞いちゃいない、と思うがこいつは警戒を弱めない。


 俺はすぐには応えず、再び顔を上げてエースを見る。奴は俺の姿が見えているかはわからないが、存在感を誇示するように辺りを見回していた。




『皆、聞きたまえ……その愚かな頭に私の言葉を聞かせてやろう! 私は尊厳ある王の名に於いてこの場に立っている……』


「あいつを助けるのか」


「まさか」


 ジョーカーが不機嫌そうに呟き、俺はそれを否定した。一刻も早くこの場から離れた方が安全であることはわかっている。だが、俺はエースに《俺達を逃がせ》ということ以外にもう一つ、命令していた。


 それがやり遂げられるか心配で残りたいわけではない。今周りに取り囲んでいる野次馬と同じような、下世話な好奇心が俺の心を支配しているのだ。


 ちらりとジョーカーの方に顔を向けて、唇だけで笑って言ってやる。


「……面白いことが始まるんだよ」






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