「キング」


 その声が聞こえた瞬間、俺の頭は真っ白になった。




 この声は。


 聞き間違えるはずもない。


 信じられない気持ちでゆっくりと振り向くと、目の前に閉ざされていたエレベータの左右のドアが完全に開ききっている。


 そしてその向こうには--。




「……何やってる」


 ジョーカーだ。


 朝見た時のままの姿で、立っている。俺は真っ先に幻覚かと自分の目と頭を疑ったが、当の本人が訝しそうな顔つきで俺を見ながらそう言った時、その疑惑は捨てた。


 ジョーカーがいる。生きている。何でここにいる? エースはスイッチを押していなかったのか? 疑問が浮かぶ度に、その寸前まで暗雲のように垂れ込めていた黒い感情が晴れていくのを感じた。




「……よう」


 何か言わなければ、と言葉を取り出す前に俺の口から出てきたのは気の抜けた挨拶の言葉だった。しかも無意識に口が笑ってしまい、そんな俺の顔を見たジョーカーは呆れたように溜め息を吐いた。




「よう、じゃない。エレベータの中で拷問か」


 ちらりと俺の向こう側を見やるジョーカーの視線につられて目を動かすと、拳銃を口に突っ込まれたエースの姿があった。開ききった口からは唾液が垂れていて、俺は自分でやっているにもかかわらず汚いと思う。拳銃が汚れてしまった。


 不思議なことに今は全くこいつを殺したいと思わない。というか、さっきまでの俺の考えそのものが信じられないぐらいだった。




 ジョーカーが生きて話している。その事実はどうやら俺を正気に戻すほど大きな事のようだ、認めたくないが。




「いや、遊んでた。こいつが構って欲しそうだったから」


 言いながら銃身で歯をがちがちと鳴らしてやる。そんな屈辱的な事をされているのに、当のエース本人は抵抗する様子すら見せなかった。改めて気持ち悪く感じ、俺は銃を奴の口から抜く。銃身は唾液で光っていて、俺は思わず顔をしかめた。




「ティッシュある?」


「……いや、その前に誰だ? そいつ」


 ジョーカーがじっとエースを見ながら俺に訊くと、その視線に挑むようにエースが立ち上がった。




「初めまして、悪魔さん」


 その言葉にジョーカーはぽかんとした顔になったが、すぐに思い当たったようで表情を引き締める。




「……スペードのエースか」


「違う。こいつはただのナメクジだ」


 エースのネクタイを引っ張り、俺はそれで銃身の唾液を拭いた。自分のだから文句はあるまい。




「王……いえ、キング。私の王はあなたじゃなかった」


「解ってくれてありがとよ。結局お前俺のアジトぶっ飛ばしたのか?」


 もしそうだとしても別にいいか、と今なら思える。また新しく探せばいい。




「ふふ、あれは嘘です。私がそんな卑怯な事をするはずがない」


「……ジョーカー、表どうなってんだ?」


 俺はエースの言葉を無視して、火を灯したままだったジッポを仕舞い、次いで壁に突き刺さっているナイフを鞘にしまってベルトに下げる。




「俺がここに着いた時には、社員なんかが避難させられてる真っ只中だった」


「避難?」


 その言葉に少し気を惹かれ、アタッシェケースを持ち上げようとした手を止めて見ると、ジョーカーは大したことじゃ無いように話し始めた。




「このビルに爆発物を仕掛けた、って手紙が見つかったらしい。俺は隙を見て忍び込んだけど、もうじき警察が来るかもしれないな」


 爆発物。その言葉に思わずエースの顔を見ると、奴も俺を見ていた。にやりと笑顔を向けられたので俺も同じように笑みを返してやる。今はそんな余裕さえ持てた。




「嘘つきは泥棒の始まり、ってママに教わらなかったのか」「これは嘘じゃありませんよ」


 そう言ってエースは腕を組み、エレベータの壁に寄りかかった。










 俺は真っ先に、エレベータの隅に転がっている、エースの持っていたアタッシェケースに目を遣った。こいつが持っている荷物といったらあれだけだ。まさか中に爆弾か何かが詰め込まれているのか?




「違いますよ。その中は空っぽです」


 視線に気付いたエースが馬鹿にしたような口調で言う。その口調にムカつきながらジョーカーに視線を移すと、ジョーカーはエースをじっと見つめていた。




「知りたいですか?」


「……どうせまたはったりだろ」


 俺はエースを放って、エレベータから出ようとした。もうこいつには付き合いきれない。安心したせいか酷く眠いし、何をする気も起きない、こいつを殺す気さえも。


 飯でも喰って、家に帰ってぐっすり眠ろう、起きたらまた自由に誰かを殺して--。




「ここにあります」


 ニヤニヤと笑いながら、エースは自分の胴体を、突き立てた親指で指し示した。


 何を言ってんだこいつは。奴の身体は俺が調べた。爆発物を胴体に仕込んでいたならスーツ越しにだって気が付くに決まっている、腹の中にでも入れていない限り……。




 腹の中?


 俺の頭に、以前見た光景が浮かんだ。胃の中に薬のカプセルを詰め込んだ子供の姿。思わずジョーカーと顔を見合わせ、《まさか》と目で語り合って再びエースに顔を向けると奴は自分の腹に手のひらを当てて笑っていた。




「お二人は馬鹿じゃないから分かるでしょう? ここ、ですよ」


 ……腹の中、か。俺はそれでも無視して帰ろうとしたが、腕を何者かに掴まれ止められ、振り向いて見るとそこには渋い顔をしたジョーカーがいる。また眉間に皺を寄せやがって、考えたって仕方ないだろ。




「なんだよ。帰るぞ」


「外には避難した社員連中がわんさといる、警察だっているかもしれない。その中出ていったら俺達が爆破予告犯だと思われるだろ」


 そんなこと分かってる。でも俺はもう厭なんだ。この狭いエレベータや、狂いきったエースの目玉や、些細なことで上下する自分の心や、どうすべきか考えることや、何もかも厭なんだ。分別のつかない子供だったならどんなに良かっただろう。だけど俺はそんなこと言えるわけがない、"キング"なのだから。黙って目を逸らすと、怪訝そうなジョーカーの顔が視界の隅に見える。




「そうですよ。それに私がある言葉を言えばすぐにコレは爆発します。逃げる暇なんかありません」


「だがエース、お前も死ぬんじゃないのか」


 ジョーカーがエースに問いかける。奴はそれに鼻で笑って「死ぬことなんか怖くない」と、応えた。




「そいつは人間じゃないんだ、だから」


 俺はそう言いながら、はっと気付いた。何故こんなにもエースの目玉が厭なのか、それは親父の目によく似ているからだった。


 生気を持たず人間的な光が全く感じられない、そんな目を--あの豚も持っていた。




 言葉を途中で止めた俺をちらりと見遣ってから、ジョーカーがエースに向き直る。




「どうしたらいいんだ」


「……私の王に相応しくなってほしい。キング、貴方は私の王ではないが私は貴方を諦めることが出来ない」


 俺は吐きそうになった。何で俺がこれほどまでに固執されなければならないのかと思うといっそ笑えてくる。




「嫌と仰るならすぐさまドカン、です。四肢はバラバラ、辺り一面血の海。私の内臓かキングの内臓かわからないかもしれませんね。一緒くたに片付けられ、私達は混ざり合う……ああ、それも快感ですね……」


 恍惚とした様子で身を震わせるエースに、俺は何度目かわからない感想を抱いた。




 ……頭おかしいな、こいつ。






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