階数表示を見上げるとそこはまだ暗いままだ。エレベータが止まった階数は、確か最上階近くだった。はっきりとはわからないが今エレベータはぐんぐん落下していっている。
ワイヤーが切れたのか? 地上30階の高さからエレベータが落ちたら中にいる人間はどうなるんだ? 様々な考えが瞬時に頭を巡るがそれら全てを押し退け、俺は倒れているエースを叩き起こした。
「スイッチを押したのか!?」
だがエースはニヤニヤとしながら虚ろな目で見返してくるだけだ。俺はエースの頭を思い切り壁にぶつけてやった。押したのか押してないのか、聞かなくては……自分が何故こんなに必死になっているのか、わからない。しかしそんなことはどうでもいい。
「答えろ、エース」
「あ……ああ……私の名を呼んで下さいましたね……」
そう言うと乾いた笑い声を上げた。その手からはスイッチが離されている。もう用無しだからか?
「何回でも呼んでやるから答えろ」
「……私の仲間になってくれますか」
この期に及んで何を言うんだ糞野郎が。仲間になると言ったらきっと答えるだろう。だが、俺の気持ちは嘘だとしても言うのを拒んだ。
「……俺の仲間は一人だけだ。お前がそいつを殺したと言うならお前を殺す。意味の無い質問はやめろ」
そう吐き捨ててやると、エースはあからさまに溜め息を吐いた。そしてゆっくり目を閉じる。
「意味が無いのは王も同じ……私達は間もなく地面に叩きつけられて死ぬ。悪魔が死のうが生きようが意味がない……」
俺は掴み上げていたエースのシャツの襟を放した。
……そうだ。エレベータは止まる気配がない。
俺は死ぬのか?
「ああ、私は王と共に死ねるんですね……これは二人だけの棺桶だ。ふふ……悪くない」
エースは何が面白いのか笑っている。何が悪くないんだ。最悪じゃないか。お前と心中するなんて冗談じゃない、俺が一緒に死んでも良いと思うほどに背中を預けているのは一人だけだ。
こんな狭苦しい箱の中で俺は--。
掛けていた眼鏡を外した。それを胸ポケットにしまいながら、自分がやけに落ち着いているのを自覚する。死にたくないのか死んでもいいのかよくわからない。
ジョーカーが死んでいたらもう帰る場所も無いことだし今死んだって構わないかなとも思うし、まだまだやりたい事もあった気がする。
映画や芝居だったならこんな時素晴らしい機転を働かして脱出するんだろうが、もう何もやる気が起きない。ああ、そういえば此処はスカイタワーだった。展望室には遂に行けなかった--。
もう一度階数表示を見上げるとそこにはうっすらと数字が浮かび上がっていた。今更復活されてもなと思うと笑えてくる。数字は今、《13》と表示していた。何の因果か、13だなんて皮肉なものだ。
数字はすぐに下がっていく。12、11、10……9に変わる前に目を閉じた。眠たい。だがきっと寝付く時間も俺には与えられず、あっけなく死ぬんだ。
エースは今も笑い声を上げている。こいつには感情が無いのか? 死を恐れる、人間としての……人じゃないから当たり前か。
人間は頭で理解していても、本能で死を恐れる。ならば、俺は……。
--いやだ。俺は死にたくない。こんな形で死ぬならさっきエースに殺された方がまだ諦めがついた。いつ死んだって良いと思っていたし、今でもそれは変わらない。
だがこの、内から湧いてくる感情は明らかに恐怖でしかない。段々と死が忍び寄ってくるのがありありと感じられる。
固く閉じた瞼に一瞬浮かんだひとつの顔が、真っ白い光にかき消される。
その強い光にくらくらと目眩を感じ、俺は瞼をゆっくりと開けた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。ひどく眩しく感じ、エレベータ内の電気が戻ったのだと気付く。ジッポの炎だけの暗さに慣れていたせいで眩しさを覚えたのだった。
少しずつ目が明るさに慣れていくと周囲の様子がはっきりと見える。俺がいるのは何の変哲もないエレベータだ。当たり前のことだが、それはついさっきまでの状況に比べるとあまりにも平常すぎて軽い違和感があった。
エレベータの機械音は聞こえない。ただ、かすかに人の声が聞こえた。ざわざわと騒ぐような……どこから聞こえているんだかはわからない。
エレベータの落下はどうやら止まっている。頭上の階数表示は再び暗くなっているから故障が直されたというわけでも無さそうだ。何より、ボタンを押しても何の反応もない。
俺は一度だけ深呼吸をした。
……さて、どうする。とりあえず当面の危機は去った。だが未だに助けは来ないし、これだけ待っても来ないと言うことは何か外でトラブルでもあったのだろうか。エレベータの中に俺達が閉じ込められていることにすら気付いていない可能性もある。
どうしようもないだろ、ともう一人の俺が呟く声が聞こえる。考えるのが面倒になってきた。
先程感じた死への恐怖だって今はもう消え去っていて、胸の中には重く冷たい塊のようなものが残っているだけ。自分が《死にたくない》と思ったことすら信じられない。
俺はいつ死んだって……いいんだ。
だいたい、無事に帰ってどうする。さっきのエースの言動からして、すでにアジトは爆破されているかもしれない。あいつは馬鹿がつく真面目だから出掛けもせずに待機してるだろう。瓦礫の中からジョーカーの死体を探すか。バラバラに砕けた、今朝顔を見たばかりの仲間の残骸を拾うのか。
「冗談じゃない」
俺は知らず知らずの内にそう呟いていた。後ろでエースが動く気配がするがもはや気を向けるのも億劫に感じる。元はと言えばこいつだ。何故殺すのを躊躇ったんだ? それはこいつが人間らしくないからだ。俺は死にたくないと抗い怯える、苦しみを露わにする人間を殺すのが好きだった。
何でもかんでも殺すのなら、相手は犬でも猫でも良い。もし俺の嗜好がそうなら、殺った数だって今の比じゃないだろう。少しでも好きだと思える人間を壊すから快感が生まれるのだと……思っていた。
「そうだ」
その基準で言えば今さっきの俺は俺の理想に沿った人間だった。一瞬にせよ、認めたくはないが死を恐れていたのだから--だがもう終わりだ。すぐにエースを殺していれば良かったのに判断を間違え、ジョーカーは死んだ。
どす黒い感情が頭を支配し始め、脳味噌が何者かにかき混ぜられているような感覚が襲う。だがそれに反し心は落ち着いていて、ただ殺したいと思う。
ああ、俺は今、狂い始めているのだなと感じる。
もうすべてどうでもいい。目に付く者すべて殺してやる。何も考えなければいいんだ。考えたって仕方ない。飯を喰うみたいに、糞をするみたいに、何も考えずに殺してやればいい。それが俺という人間……いや、生き物だ。
「お……王」
まずはこいつからだ。ジョーカーの仇討ちのつもりは無い。手近にいるから殺る、それだけ。振り向くと無様に座り込んだ男が目に入る。その、俺を見つめる二つの目玉を見た瞬間、俺は笑いがこみ上げて吹き出してしまった。
「くくく……ははははははは!!」
何もおかしくなんかない。餌が目の前にいるだけだ。何が面白いんだと自分に問い掛ける余裕も無く俺は笑い続け、気が付くと視界が歪んでいた。
目を擦ると濡れていて、自分は今泣いているのだと感動も無く理解する。涙なんか何年ぶりに流しただろう。
「口開けろ」
ホルスターから機械的に取り出した拳銃を突きつけながら命令すると、男は目を泳がせながらゆっくりと口を開けた。
「遅えよ」
「ぐっ……」
がち、と硬い音を立てて歯と歯の間に割り込ませるように銃口を口の中に突っ込むと、くぐもった声をあげる。その滑稽さも、今の俺には何の感情を引き起こさない。
「お前の名前は何だ?」
「う……え、……う」
喋ろうにも銃が邪魔をして言葉が発せないらしい。それを知りながら更に銃を口の奥に向けて突っ込んでやると、男は苦しそうに顔を歪めた。
「エース?」
俺がそう訊いてやると顎を僅かに動かして肯定を示す。
「違う。お前はエースじゃない。俺に殺されて脳味噌をぶち撒ける為だけに生まれてきたナメクジだ。知らなかっただろ? お前は生きている価値なんか無い。殺してやるよ」
男の喉奥にぐっと銃口を押し付けて引き金に手をかけた時、今更背後のドアが開く機械音がした。
人間の気配がするが、俺は振り向きもせずに思う。
二匹目の餌が来た--。
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