目が見えなくなった?
いや、違う。停電だ。
とっさにポケットに手を突っ込んで、煙草と一緒に入れていたジッポを点ける。その明かりにエレベータ内が照らされて、俺は真っ先にエースの手から銃を足で器用に奪った。
ジッポを床に置いて、エースの銃を拾い上げると手のひらが瞬間的に違和感を覚える。これは。
「お前、馬鹿にしてんのか」
手に持ってすぐに分かった。その銃は精巧に造られてはいるが本物の手触りや重量感とはまるで違う。エースが今さっきまで俺に突きつけていたのはモデルガンだったのだ。
「……王に本物の銃を向けるわけにはいかないでしょう」
ごろりと体勢を変えたエースが俺を見上げて言う。その声は俺の神経を光の速さで逆撫でし、同時に俺の頭を氷点下まで冷やした。
銃を突きつけたまましばらく睨み合う。エースの目は爬虫類のように温度を感じさせず、俺はやっぱり《嫌いな人間》だと思った。
「殺さないんですか」
爬虫類の目を僅かに動かしてエースが訊いてくる。殺したいという衝動は既に萎えてしまっていた。まるで実際に殺し終えた後のように、全てが面倒臭く思える。
「お前みたいな奴を殺しても愉しくない」
それに加え、冷めた頭で考えてみるとエレベータが停止しているのだからいずれかは助け出されるだろう。そんな状況で今こいつを殺してしまったら俺が犯人ですと宣言しているようなものだ。
俺はいつ死んでも構わないが、捕まったらジョーカーにまで手が及んでしまう。それは嫌だった。
銃をホルスターに仕舞い、横たわったままのエースの身体を検分する。どうやら武器は本当に持っていない。ふと顔を見ると奴はニヤニヤと笑っていて、ジッポの薄明かりに照らされたその表情は気持ち悪かった。
「王と二人きりになれるなんて、私はなんて幸せなんでしょう。ああ、私は今この狭い空間で王と酸素を共有している……」
その言葉に吐き気を覚えた。こいつは本物のキチガイか。股間を蹴り上げてやろうかと思ったが、こいつは何となく歓びそうな気がしたので止め、なるべく離れた壁際に腰を下ろす。
「これ、お前がやったんじゃないのか」
「まさか……私は何も。奇跡ですよ。だからこそ重要なのです。神が私に与えてくれた、」
「もういい」
際限なく続きそうなエースの言葉を遮る。エレベータが止まったのは偶然か。それなら今は動き出すのを待つしかない。
ジョーカーに連絡しようかと考えたがすぐにその考えは捨てた。奴にどうこう出来る問題じゃないだろう。
「あの日、王の手さばきを見た瞬間私は」
「黙れよクソが」
殺す気は起きないが苛々するエースの演説を抑え付けると、エレベータの箱の中は静寂が訪れた。
ふと腕時計を見るとまだ正午には時間がある。だが間に合うだろうか。
むくりとエースが起き上がり、俺が座っている方とは反対側の壁に背中をくっつけて座った。腕時計を填めた腕を上げたままだった俺を見て、またにやりと笑う。
「お仕事はキャンセルです」
ほんの数秒間、俺とエースは見つめ合った。奴の目はその言葉より更に如実に語りかけてくる。解りたくもなかったが解ってしまった。
「依頼者はお前か」
俺がそう言うと、エースは目を閉じて深い溜め息を吐いた。それは諦めというより感嘆の色を持っていて、やはり再び開いた目の色は輝いている。
「王が自ら、この汚い《第2》に来て下さると決まった時は……もう死んでも良いと思いました」
「死ねば良いだろ」
俺は最高潮に投げやりな気分になった。こんな奴の依頼に、そうとは気付かずのこのこと出向いた自分を絞め殺したくなる。
しかし、ジョーカーの話だと依頼者は女だと言っていた。それを訊くと、エースは事も無げに「妹です」と応える。
「私の妹はクイーンです。キングである王と結ばれるために生まれてきた女であり」
「ああもう、黙れ。じゃあこいつは誰だ」
胸ポケットから地図に挟んでいた標的の写真を見せると、ちらりと目をやってエースはまた歯を剥き出しにして笑って言った。
「父ですよ」
俺は何も応えなかった。大して珍しい事ではない。依頼者が自分の親殺しを依頼しようが何しようが俺には……仕事には関係無い。
だがエースはそれが意外だったのか、それとも何の反応も無いのがつまらないのか煩く尋ねてきた。やはりこいつは自意識過剰だと思う。
「親を殺したいなんて、悪人だと思いますか」
俺は今更ながら、エレベータのパネルに付いている非常ボタンを押した。それは手応えがあまり感じられず、大丈夫かと少し不安になる。
「酷い親なんです。私の事を何にもわかってくれない。尊敬した事など一度たりともありません」
口を開くのが億劫だ。エースの声を意識的に耳から耳へと素通りさせる。こいつが俺に何を言って欲しいのかは手に取るようにわかるが、だからこそ嫌気がさす。早くここから出たい。
俯いたエースの目は何処を見ているのか、虚ろに泳いでいる。何が悲しくてこんなおかしな奴と二人で閉じ込められなきゃならないんだ。
「王は、どういう考えを持って醜い人間を殺しているんですか」
急に眠気が襲ってきた。それもそうだ、今日は朝早かった。睡眠時間はどれくらいだったろう。
今すぐにでも眠りたいがここはエレベータの中だ、床は硬い。ベッドが恋しくなってくる。
「……聞いてますか」
「全然」
黙りこくっていた俺に痺れをきらしたのか、エースが強い口調で訊いてくる。仕方なく応えてやると奴はゆっくりとした動きで左手を俺に向けた。
俺は反射的に緊張を高めるが、その手には武器らしき物は握られていない。あるのは小さな箱にスイッチのような突起の付いた物体だった。
エースの顔に視線を向けると、奴は細い目を更に細くして笑った。
「ある物を遠隔操作する為の発信機です」
そう言って素早く、その物体を握り込む。発信機だと? 何も言わずに目で先を促すと、エースは勿体付けた様子で話し出す。
「これを押すと王の城がドカン、と盛大に爆発します」
「爆発?」
王の城。俺のアジトか。そこに待機しているであろう男の顔が、鮮明に頭に浮かぶ。
「冗談だと思うならそれでも構いません。悪魔が死ぬだけですからね」
爆発物をセットされたのか?
いつ、どこに。
いや――そんなことはどうでもいい。大事なのは本当かどうか、だ。
「私を止めますか? 王のナイフ投げや射撃の腕は私も知っています。直に見ていました。素晴らしい物でしたが、それでも私がスイッチを押す方が早いでしょう」
エースの目をじっと見るが、その黒い目はどうしたわけか何の感情も覗かせない。あるのはただ狂気だけ。本当か嘘か、判別が付かない。
持っているナイフでエースを殺せるか。スイッチを押させずに。それは危ない橋を渡ることになる。
額を嫌な汗が伝うのを感じた。俺が死ぬのなら俺のミスなのだから諦めもつく。だが、ジョーカーは……。
「何が望みだ」
俺はそう口走っていた。やはり、嘘だという確証も無しに下手なことは出来ない。むかむかと腹が立つ。エースはそんな俺の苛立ちを知ってか知らずか、見せ付けるかのようにスイッチを手のひらで弄んだ。
「私の話を聞いて下さい」
「わかった」
「私は人間が嫌いです。少数の例外を除いて、馬鹿ばかりだ。頭の悪い、脳の構造が悪い人間がのさばっているから更に馬鹿が増える。無駄に生きて世界を食い潰す、まるでゴキブリのようだ」
俺は煙草に火を点けた。話を聞くとは言ったが、やはり面倒くさい。
「娼婦や、浮浪者なんか生きている価値すらも無い。全て駆除するべきだ。王は私と同じ考えなんですよね」
「お前と一緒にするな」
さすがに黙っていられなくなった。こいつは俺が何も言わなければ自分の都合の良いように解釈する。その性質は、今までの何十枚に及ぶ手紙でよくわかっている。
「俺はお前が言うような考えは持っちゃいない。ただ殺したいから殺す。飯を喰うみたいにな。人間は基本的に好きだし憎くもない」
暇に任せてナイフを取り出し、床に薄い線を刻みながら言うとエースは黙った。だがすぐにまた耳障りな声を出す。
「……何故殺すんです」
「だから理由なんか無い。だいたい嫌いな人間を、なんでわざわざ手を汚して殺さなきゃならない? 俺とお前は全く違うんだよ」
エースは再び口を噤んだ。
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