2番街の駅に着いて思ったのは、人が恐ろしく多いという事だった。朝のラッシュ時だから仕方ないとは思う。だが俺はその中に紛れ込む前に嫌になってしまった。


 人間は嫌いじゃないが、こうまでわらわらと密集していると、いつもとは別な意味で殺したくなってくる。




 こいつらは何を考えて歩いているんだろうか。ただまっすぐに早足に、自分の目的地へと向かっている。それは誰の意思か。果たして自分の意思だろうか、とそこまで考えて虚しくなる。俺も同じだ、今は。


 嫌だ嫌だと思っていても埒があかない。俺は一瞬息を止め、泥水に潜り込むような気持ちで人波を歩き出した。




 しばらく歩き駅から離れるにつれ人と人との間の隙間が開き始める。


 ふと見上げると、テレビや雑誌で見た覚えのあるビルが少し遠くに頭を出していた。




 スカイタワーだ。


 早速見学に行きたいという気持ちをこらえて、まずは標的が昼飯を食いに行くという飲食店へと向かうことにする。


 地図はここに来るまで延々と見続けて、脳みそにコピーしてしまっているから改めて確認する必要も無い。


 その店はレストランというより食堂といった方が的確だった。朝早いせいかまだ開いておらず、暖簾は下がっていない。洗練された2番街にある店にしては、その佇まいは庶民的な雰囲気を持っていた。




 こういう店は何となく美味い物を出すような気がする。今度ジョーカーを引きずって食べに来てみるか、などと考えながらさり気なく店の周辺を歩き回りながら殺害条件を探った。


 店の出口は通りに面しているが路地も多く、銃を使えば死角から標的を撃ち抜くことは造作ないだろう。


 割と楽そうな仕事だ。あとは逃げるルートを確認するだけ……。




 そう考えながらも、俺の目はスカイタワーを見上げていた。全面ガラス張りの壁面に青い空と雲が、綺麗に映っている。まさに空の塔だ、と思った。


 わくわくと躍る心を抑えきれず、俺はスカイタワーに向かって足を進める。




 高いところは好きだ。そこから墜ちたら必ず死ぬ、という高さが堪らない。高ければ高いほど良い。


 足が震えてしまうくらい恐ろしくて仕方なく、だけど足を踏み外して墜ちたら即死してしまう、その不安定感が良い。馬鹿と煙はなんとやらと言われても構わない。


 人間は空に執着し空に憧れ、縛られているのだと思う。


 蝋の羽根で空を飛んだイカロスは、太陽に羽根を溶かされた挙げ句に堕ちて死んだが、もしほんの一瞬でも自分の羽根で飛べるのなら死んでも悔いはないと、子供のころから本気で俺はそう--夢見ていた。




 早足で歩くと、すぐにスカイタワーに着いた。改めて見上げるとそれは圧巻の一言に尽きる。一階ごとの天井が高い造りなのかビルは高く高く、てっぺんは近付けば近付くほど見えなくなる。


 腕時計をちらりと見ると、短針は左上を指していた。正午まで、まだ時間は十分にある。




 俺は考えるより先に、スカイタワーの門をくぐっていた。




 案内板を見ると最上階が展望室になっているらしい。全面ガラス張りの上に、一部の床は特別強化ガラスになっていて《まるで宙に浮いているような感覚が味わえます》との煽り文句に、俺は思いっきり煽られた。


 高揚する気分のままにエレベータに直行する。床がガラス張りなんて、とてつもなく素晴らしい。今持っている銃で割れるなら割りたいが多分無理だろうな。ああ、でも割りたい。その誘惑は甘く胸をくすぐり、俺はぼうっとしていた。




 運良く一階に待機していたエレベータがあったのでそれに乗り込み、最上階を示すボタンを押す。箱の中には俺以外一人もいない。


 次いで《閉》ボタンを押しかけたその時、滑るようにして黒い人影がエレベータ内に走り込んできた。












 走り込んできた人物は、地味な若い男だった。エレベータに入ると、後ろの方に落ち着く気配がする。


 ドアの近くに立っている俺はすれ違いざまにちらりと見ただけだったが、その風貌は俺と同じ様なスーツを着込んでいて、同じ様なアタッシェケースを提げていた。




 階数のボタンを押さないということは、この男も大方展望室に行くのだろう。


 大して気にも止めずに指を乗せたままだった《閉》ボタンを改めて押すと、エレベータの扉が音も立てずに閉まった。やがて重力に逆らい、箱は上昇していく。




 俺はこの、エレベータで身体に感じる負荷も好きだった。ぐうっと臓腑が持ち上がるような違和感、不快感。エレベータの壁がガラス張りではないのは残念だが仕方ない。


 階数表示を見上げると数字はどんどん上がっていく。何の偶然か、途中で止まることは無かったが俺にとっては止まらずに一気に上昇した方が気持ちが良い。


 そうやって少しの間ぼんやりとエレベータがもたらす感覚を楽しんでいた。




 だが突然、頭の後ろ、項のあたりに針を突き立てられたような緊張が襲った。


 見られている。




 そういえば俺の背後には男が乗っていたのだった。男の存在感の無さのせいで意識の外から出ていたが、この視線はあまりにも強く、少し異常なようにも感じる。


 ねっとりと粘着くように離れない視線を向けられ、俺は苛立ちを覚えた。見られるのは好きじゃない。何なんだ、この男は。振り向きざまに殺してやろうか……。




 頭に血が上りそうになった瞬間、脳の何処かが弾けた。それに伴って単語がばらばらと湧き、降ってくる。




 粘着く視線。


 見られている。


 苛立ち。


 似たことが最近……。


 偏執狂。


 エース?




 一瞬の内にその考えに行き着いた。振り向こうとした俺の背中に一寸早く固い物体が当てられる。首を捻らせて見ると、いつの間にか男が背中にぴったりと張り付いていた。その表情は俯いているせいでわからない。


 今背中に押し付けられている物が何であるかはすぐにわかった。拳銃の銃口だ。エレベータはそう広くはなく瞬時に背後に寄るぐらいは難しくないが、こんなにまで接近を許したのは自分のミスだ。俺は銃口を突き立てられているという事実より、犯したミスの悔しさに頭がおかしくなりそうだった。




「……気分でも悪いのか?」


 沸々と煮えくり返り、限界まで熱くなりそうな頭を抑えてわざと暢気な声で言う。悔しさに歯軋りをしていても状況は全く善くならない。なんとか隙を作らなければ。だいたい、こいつがエースかどうかだってまだ……。


 男が口を開いたのが、目の端に映る。


 その唇は歪むように笑っていた。




「やっと会えましたね。……王」


「お前……」


 すうっと血が下がっていくのを感じる。恐怖や怯えなどではない。俺は唇の端が上がるのを止めようともしなかった。こいつからの手紙に苛々させられた事すら、今この瞬間の為の前奏だったのかと思うと笑えてくる。




「こうでもしなければ貴方は私の話を聞いてくれなさそうだったから」


 背後でぼそぼそと言いながら、エースは強く銃口を押し付けてくる。少し痛かったが、最早どうでもいい。それよりも俺は別のことが気になった。




 エレベータが止まっている。




「どんな事をしようが話なんか聞かない。残念だったな」


 故障か? 言いながら見上げると階数表示は消えている。面倒なことになった。


 エースの溜め息が聞こえる。こいつも幸せを逃がしている。




「……強行手段に出ますよ」


 一瞬、押し付けられていた銃から力が抜けるのを感じた。その一瞬を逃さずに俺はエースの脚に思い切りアタッシェケースを叩きつけ、呻きを上げると共にぐらりと体勢を崩した男の腕に手刀を振り落とす。


 身を翻し、更にエースの腹を蹴り上げると奴はその場に崩れ落ちた。衝撃でエレベータの箱が揺れる。




 殺人衝動が胸の奥から突き上げるのをありありと感じた。俺はその衝動に身を任せ、エースに構える隙を与えずにホルスターから取り出した銃を向ける。




 さっきのお返しだ。


「馬鹿が」


 エースに向かって吐き捨て、奴の伏せた頭に狙いを定めた瞬間。


 俺の目の前に訪れたのは底知れぬ闇だった。






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