「……痛い」


 短い声。上下する胸を抑えて振り向くとすぐに目が合う。太い刃が肩に突き刺さっていて鮮血が床に流れ出しているのに、彼の唇は笑っていた。




「痛い痛い痛い! はははっ」


「お前……正気か……」


 息絶え絶えに尋ねると、キングはナイフを左手で持ち更に自分の肩をえぐった。




「正気だ、死ぬほど痛い……ジョーカー、十日前の貸しを、今、返せ」


 キングはそれだけ言うと、眠るように意識を失ってしまった。




 生々しく残った頸の痣もそのままに、キングを担ぎ上げ盗んだ車に放り込む。『十日前の貸し』とはつまり医者に連れていけという事だろう。言われなくともそうするが、キングらしい言い方だと思った。




 エンジンを掛けて走り出してからしばらくし、やがてキングが目を覚ました。瞼は開いているが起きているのかいないのかわからない目つきで、少しひやりとする。だがそれも杞憂に終わり、キングは痛みに顔をしかめた。




「血が……だらだら出てくる」


「我慢しろ。飛ばす」


 横目でちらりと見たキングは黒いシャツのせいで分からないが、車の灰色のシートに早くも広がっている紅色が出血の酷さを悟らせる。俺はアクセルを踏んだ。




「……訊かないのか。俺がどこに行ってたのか」


「訊いて欲しいのか」


 勝手な行動には慣れていたつもりだったが、さすがに今回は度を過ぎている。乱暴に言い捨てるとキングは肩を竦めた。




「薬を返してきた」


「何だって?」


 思わず聞き返していた。だが彼は何の感情も声に出さず応える。




「ルクレツィアを全部返したんだよ。組織に」


「どうやって」


「売人の舌が割れてただろ? ……それを知って……上の……あいつの好きそうな事だと……」


 そう言いながら、ステレオのボリュームを絞るように声が小さくなっていった。慌てて片手を伸ばしてキングの手に触れると、その手は酷く冷たかった。


 まずいかもしれない。間に合わせなければ。更にアクセルを踏み込むが、ここで事故っては元も子もない。俺は慎重にハンドルを動かしながら、頭を動かしていた。


 上。あいつ。キングは組織の人間を知っていたのか。いや、十日前に知っている人間の組織だと気付いて、それで薬を返しに行ったのだろう。




 それならば武器を一切持たずに消えたのも頷ける。今回の事は知らなかったとはいえ薬の受け渡しを邪魔したこちら側に非があるのだし、武器など持っていったらその場で殺されかねない。


 キングの顔を見やると、紙のように白い顔色をしている。無事に目を覚ましたら詳しい話を訊くとしよう。俺は疑念に揺れる気持ちをその言葉で押さえつけ、病院までの道を急いだ。




 医院の前に車を停め、携帯から医師に直接電話を掛ける。外から見る医院はごく普通のガレージにしか見えず、その入り口のシャッターは堅く閉ざされている。一般人に開かれた医院ではないので懸かる前に連絡する必要があるのだ。




『はい』


「キングが怪我をしている。開けてくれ」


 手短に用件を伝えるとすぐにシャッターがガラガラと機械音を立てながら開いていく。車ごとその中に入っていって停車すると、傍にある白い建物から医師が出てくるところだった。ここまで入ってきてようやく病院らしい雰囲気になる。




「何処を怪我したんですか?」


「左肩」


 俺はまず先に車から降り、ぐるりと回りこみ助手席のドアを開ける。気を失いぐったりとしているキングを支えて歩き、医師が扉を手で押さえて開けてくれている白い建物の中に進んで緩やかな階段を降りる。


 その中は消毒液のせいか、いかにも病院といった匂いで充満している。


 置いてあったストレッチャーにキングを寝かせると、医師が傷口を軽く診た。




「刃物傷ですね。刺されたんですか」


「俺が刺した」


 簡潔に応えると医師はまじまじと顔を見つめてきた。やがてその視線が俺の頸に浮かんでいるであろう指の痕に至ると、何とも言えない妙な表情になって俺の目に視線を戻す。




「喧嘩はお互いに手加減しましょう」


「いいから早く治療してやってくれ」


 いたたまれなくなってそう言うと、医師はストレッチャーに手を掛ける。キングの顔は相変わらず白い。




「畏まりました。時間かかりますからそこら辺に座っていて下さい」


 硬質の床にストレッチャーを滑らせながら医師は手術室に入っていく。その姿を何となく眺めている内に、脳を軽くかき混ぜる様な目眩がしてベンチにしゃがんだ。


 考える事は腐るほどある。キングに訊かなくてはならないことも山のようにある。だが、今は身体や頭が酷く重い。まるで砂を詰め込まれたようで、襲いくる眠気と格闘するのも面倒くさく感じる。


 眠りに沈み込みながら、そう言えばこの十日間ろくに寝ていなかったことと、キングの血を見たのは何年振りだろうか……とぼんやり考えていた。








 軽い振動を身体に感じて目が覚めた。まだ重たい瞼をこじ開けると、ぼんやりした視界の中にキングの姿が見える。




「おはよう、ジョーカー」


 シャツの襟口から痛々しく映える白い包帯を覗かせてはいるが、彼はそれでもふてぶてしく笑った。




「……おはよう、キング」


 取りあえずベンチに横たわっていた身体を起こして座り直すと隣にキングが座った。ポケットに煙草が入っていたのを思い出して取り出すと箱が潰れてしまっている。仕方なしに隣にいる相手に差し出すと一本指でつまみ出し、次いで俺もそうした。


 片手が使えないキングの煙草に火を点けてやり、自分の口にくわえた煙草にライターを近付けながら考える。少し眠ったせいか、尋ねるべき事が霧の中に隠れてしまったように出てこない。黙って二人並んで煙を吐き出してしばらく後、キングが口を開いた。




「薬を返してきたってのは話したよな」


「ああ。車の中で聞いた」


 そしてキングはぽつぽつと話し始めた。




 十日前のあの日、キングは医院を出たその脚でまず13番街の俺達のアジトに戻って薬を全て持ち、そのまま真っすぐ組織の元へと向かった。


 その場所を訊いても教えてはくれなかったが、敢えて問い詰めないことにして話を進める。




「組織纏めてる奴なんだけど、散々嫌味言われた」


「よく殺さなかったな」


「銃やらドスやら持った奴等に囲まれてて噛みつくのはただの馬鹿だろ」


 それでもどうにかキングは薬を返し、これ以上俺達に関与しないと言うことで話を付けたらしい。俺は素直によくやったな、と思った。組織の纏め役と知り合いだとしても、俺だったら上手く出来るか自信が無い。そこまで話して、キングは改めて苦々しく表情を変えた。




「条件と引き換えにな」


「どんな」


 彼は煙草を灰皿に圧し消し、その指で自分のこめかみを軽く叩いて見せる。




「ルクレツィアを飲めってこと」


「……組織に利益なんか無いだろ」


「面白がってるだけだ。殺人狂になる薬を飲み、ナイフを渡されて帰り、仲間を……お前を殺さなければ許してやる、だと」


 俺は一瞬言葉を失った。もしあの時俺が殺されていたら、キングも死んでいたのか?




「俺が飲んだのはあの小さいカプセル一つ分。奴等のアジトから出て歩き出した途端に地面が揺らいで雲が黄緑色に見えてきた。そこらに歩いてる奴等が馬鹿面引っさげて歩いてる家畜以下の生物にしか見えなくなって、無性にぶっ殺したくなる。腹切り裂いて中身を見なくちゃいけないような義務感と殺人衝動。やたら太陽が眩しいから夜中にしか歩けねえし……ありゃ地獄だな。自分の意志なんかありゃしねえ」




 その時の視界を思い出したのか、キングはぼそりと呟いた。そして、襲った18人については証拠は残していないし目撃者も警察に証言に行く前に始末したから警察が自分に行き着くことは無いだろう、と付け加える。


 キングも俺と同じく疲れきっているのがありありとわかる。だが、これだけは訊いておかなければならないような気がしていた。




「組織の人間とはどういう知り合いだ」


 十年以上付き合ってきて、麻薬組織と繋がりがあることは知らなかった。キングが単独で問題を解決したことに対しては感謝というか、複雑な感情が今の俺の中にある。


 もしもキングが薬から来る殺人衝動を抑えつけて、俺を襲おうとせずこんな事態にならなかったら、彼は全て黙っていただろう。


 それでは俺はただのでくのぼうだ。何も知らずにいたかもしれない事を思うと、自分の気持ちの問題ではあるが、出来る限り知っておきたいと思う。事後になってしまったが。




「ジョーカー、人間は人間から生まれると思うか」


 キングは唐突に言った。俺は黙って新しい煙草に火を灯す。彼の言葉は独り言めいていたからだ。


「人間は豚から生まれもするし、人間が豚を生むことだってある。神は無慈悲だ」


 比喩だろうが、その言葉を吐く声は平坦でありながら鬼気迫るような重みを持って俺の耳に届く。




「……キング。お前は人間か」


「多分」


 そう言って彼は病院の白い天井を見上げ、「雨が降る」と小さく呟いた。重ねて組織との纏め役との関係を尋ねて良いものか逡巡する俺の心を読んだかのように、キングはやはり小さな声で短く、言った。




「俺の父親だよ」


 降り出した雨の雫が屋根を叩く音が聞こえる中で、その言葉は酷く異質な響きを持っていた。








The merciless you


END










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る