「……妙な冗談はやめろ」
無意識にそう応えながらも、キングの目を見て愕然とした。彼の二つの目玉は焦点がぐらぐらと揺れ動き、俺を見ていないのだ。それは十日前のあの少女や、俺を殺そうとしたシキの目と全く同じだった。
キングは薬を飲んだのか?
異常な速度で中毒になり造られた殺人狂になるドラッグを。しかし何故。
今も彼はぼうっと立ち尽くしていて、まるで脳を乗っ取られたように見える。いつもの鋭い雰囲気は微塵も感じられない。
「キング……」
そう言おうとした時、見えない死角にあったキングの右手が俺の顔に向かって素早く動く。
とっさに避けて何かと見ると空振りした右手には鋭利なナイフが握られていた。刃には血糊がべっとりと付いている。
キングは右手をまた下ろすと、焦点の合わない目で俺を見つめた。やがてその喉から、淡々とした声で言葉が次々と流れ出す。
「おまえは」
「誰だ?」
「ルクレツィア」
「違うな」
「十九人目」
「見つけた」
「ジョーカ……」
「殺そう」
「何処に隠れていた」
「まあいいか、死ね」
「汚い腑を撒き散らして」
「面白い」
「俺は誰だ?」
「愚かな奴だな」
「俺は」
「裁きを与えてやる」
「殺そう」
「ジョーカー」
「死ね」
「逃げろ!」
最後に叫び、それを合図にしたかのようにキングは俺に向かってナイフを投げた。ナイフは僅かに身体を逸れ、床に突き刺さる。
いや、逸れたんじゃない。キングのナイフ投げの技術は狙いを必ず捕らえる正確さを持つ。わざと外したのだ。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
キングは獣のように唸りにも似た呟きをぶつぶつ口にしながら、新しいナイフを持つ。これではシキの時と全く同じだ。違うのはここが俺達のアジトで、相手はキングだと言うこと。--最悪だ。
「キング、しっかりしろ!」
俺は思わず声を上げていた。しかしやはり正気を失ったキングには届かないのか、彼はへらへらと笑いながらナイフをちらつかせる。
「獲物は言葉を喋るな……死ね」
そう言って再びナイフを投げる。今度は顔を狙って。だが、やはり避けるまでもなく刃は俺の頬を掠めるだけだった。キングは完全に狂ったわけではないのか?
頬の傷がちりちりと痛んできたがそんなことは気にならない。
どうすればいい。どうすればキングを元に戻せる?
--頭に、廃墟で死んだ少女の顔が浮かんだ。
「十九人目十九人目十九人目やっとやっとやっと……見つけた。お前が俺の獲物だ」
三本目のナイフを取り出そうとした隙を突いて、俺はキングの腹に蹴りを入れた。
呻きを上げて彼は倒れる。少女の時は頬を叩いて正気に戻らせた。キングも同じように戻ってくれることを祈る。
「……キング」
「…………ジョーカー」
地面に横たわったキングが俺を見上げた。はっとして目を覗き込むと、確かに俺を見ていた。薬の効果が切れたのか?
声を掛ける間もなく、すぐに彼は口を開いた。
「ジョーカー、銃を持て」
「お前……」
「いいから早く持て!」
キングのその声は珍しく真剣で、俺はさっき床に置いた銃を持ち直した。キングを振り返ると彼は座ったままリビングの壁に寄りかかり、先ほど俺が蹴り上げた腹を手で押さえている。
「悪い、少し強く蹴りすぎた……」
「……痛くない」
キングが低く呟く。その意味をすぐに理解し、俺は一旦は安心しかけた気持ちが冷水を浴びせたように冷えるのを感じた。
既に痛覚を失っているのか?
「ジョーカー、俺はあの薬を、ルクレツィアを飲んだ」
「何でだよ……」
わかっていたことだがキングの口から告げられると俺は改めてその事実に落胆していた。目の前のキングは普段通りだというのに、彼の脳はドラッグに冒されているのか。
「話せば長くなる。今は時間がない」
「時間がない?」
「ああ。ジョーカー」
キングはふと目を逸らすと、思いついたように隠していたナイフを床に置いた。そして再び俺を見上げ、言う。
「その銃で俺を撃て」
「何言って……」
キングの言葉の意味はもちろんわかる。俺が今この手に握っている銃で彼を撃て、と。だが、理由がわからない。
「俺を撃てって言ってんだよ」
静かに言う声は落ち着き払っていて、なんの迷いも感じられない。表情に翳りや怒りの類いは見られず、何となく悟りを開いたような、それでいて姿が見えない何かに追われているような焦りが瞳に見え隠れしていた。
「死ぬつもりか」
確かに、先ほどのキングの様子はまさに薬物中毒者そのものだった。この十日間、十八人を襲ったのはキングであろうことは彼自身の言葉から察することができる。自我を失い、ただ獣のように切り裂き殺すなど、およそ彼らしくない。
そんな自分に失望したのか、キングは。だから俺に撃てと--。
彼は答えない。俺はその沈黙は肯定の意味を成していると思い込み、どうにか思いとどまらせようと考える。今俺がやらなくとも、キングは自殺してしまいそうな気がした。
「大丈夫だ、キング。少しずつ治療すれば……きっと……」
うまい言葉が出てこない。俺はいつもそうだ。肝心な時に限って、ガスの切れたライターのように頭で考えている言葉が小さく火花を散らすだけだ。
「……ああ、そうだな」
しばらく黙った後にそう答えると、キングは立ち上がった。そして突っ立ったままの俺につかつかと近付き、握りしめたままだった銃を俺の手からそっと奪い去る。それはあまりに自然な動作で、抵抗出来なかった。
大丈夫だ。今のキングは平常に見える。僅かにくすぶる不安感を押し殺して彼の挙動を注視していると、キングは手に持った銃をやはりごく自然に、棚に乗せた。
「キング、病院に行こう」
意を決して後ろを向いた背中に言うと、キングは少し俯いた。しかし間を置かず、その肩が小さく震えていることに俺は気付く。
「……何しに」
そう応えた声は笑っていた。おかしい、やはり、キングは。無意識に後退する。銃はキングの目の前の棚にある。彼がそれを握って発砲するまでにまた一撃を喰らわす事が可能か? 答えはノーだ。間に合わない。
「迷わず俺を撃てば良かったのに」
くるりとキングが振り返る。その唇はいつもの彼の皮肉めいた笑顔と同じように片端が上がっていて、その眼は……。
「……さよなら、ジョーカー」
キングが俺に向かってナイフの鞘を投げつけてきた。それは堅く頑丈で、額に直撃したため俺の視界はぐらりと歪む。
その場に跪きかけるがなんとか持ちこたえた時、キングの身体がぶつかって来た。衝撃に耐えられずに俺はいとも簡単に床に倒れてしまった。
床でも後頭部をしたたか打ったが、目眩の中で首に巻き付く感触に気付く。キングは仰向けになった俺に馬乗りになり、その腕は首に伸びていた。
「馬鹿だ、愚かだ……お前は」
ぐぐ、と頸を絞める手に力が籠もっていく。思わずキングの手を掴んだが虚しく掻くことしか出来ない。
声すらも出ず、息が止まる。空気が入ってこない。無意識に手を動かした。何か、何か、何か。目の前のキングの顔は天井の灯りを背にしているせいでよくわからない。
視界の隅から闇がにじり寄ってくる。暗くなる。息ができない。意識が遠く薄くなる。
もうだめか……俺は、死…………。
覚悟しかけたその一瞬、手の力が緩んだ。取り戻した意識の中で、右手に何か固い物が当たっているのを感じる。冷たい金属の、これは。
再び頸に力が入り始め、無我夢中で右手に感じたそれを掴んだ。さっきキングが投げて床に落ちたナイフ。柄をしっかり握る余裕すらなく、指が刃に当たり皮膚が裂けた。
「ジョーカー……」
頸を締められている俺よりも苦しげな声が頭上から降ってくる。その言葉を機にナイフを振り下ろした。
肉を貫いた確かな感触がナイフを通じて伝わり、糸が切れるように頸に張り付いていた手から力が抜けていく。同時にキングの身体は横倒しに倒れた。
開かれた気管に酸素が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。しかし頭では一つの事を考える。--キングは?
倒れたキングの長い脚が視界に入っている。微動だにしない。自分の手が、キングの何処を刺したのかわからなかった。
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