バーを出てからは、角を曲がる度に緊張が走った。ジャンキーがいないか注意深く見回して、歩く間も気を抜けない。だが、馴染みの店を次々まわる内にジャンキーが起こした事件の詳細が掴めてきた。


 どうやら犯人は夜、少なくとも日が落ちてからにしか活動しないらしい。そういえば俺がシキに襲われた時も夜だった。何か理由があるのかわからないが、なるべく明るい間に行動した方が良さそうである。




 そうこうしている内にキングの行きそうな場所は全てまわり終えたことに気が付いた。正しくは俺の知っているだけ全ての場所、だが。1番街まで行こうかとも思ったが距離が長すぎるし何より1番街においてキングの行動範囲を俺は知らない。唯一知っているのはメリアという菓子屋だけだが、まさか今こんな時に菓子を買いに行ったりはしてないだろう。


 行く先々でキングは来なかったか訊き、その度に裏切られ手に入る情報はせいぜいジャンキーの暴行・殺人事件のことだけだ。奴等は老若男女問わず襲っているようで、十日の間に計十八人に怪我を負わせ、うち五人は死に至ったという。犯人が複数か単独かは未だわからない。


 被害者を襲った後の犯人に出くわし、幸運にも無事だった一人の浮浪者の言葉により犯人は薬物中毒者だとの話が広まった。方法は全て同じで、ナイフで身体中を何十カ所も切り裂く。顔の造形すらわからなくなっていたらしい。




 もしキングがやられていたとしても、それならば死体が彼だとは容易に判別が付かない。考えると気分が鬱ぎかけた。警察に行って遺体の状況を訊けばわかるかもしれないが、俺が簡単にノコノコ行けるはずがない。


 意識せずとも溜め息が口から出てくる。ふらふらっといなくなったあの馬鹿のせいで俺は足を棒にして歩き回っているのだと考えると気分が悪くなってきた。もしかしたらキングは今頃家で寝てるんじゃないか、そんな夢のようなことが頭に浮かんでくる。




 俺は歩く足を止めた。夢のようなことだと? 何故今まで思いつかなかったんだ。もしかするとキングは家に帰っているかもしれない。組織に追われている状況で連絡が急に取れなくなったこと、更にジャンキーが暴れまわっているという情報を得たことで、考えが悪い方へと転がっていたことに気付く。


 とりあえず一度は帰ってみるべきだ。もしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない。




 ふと空を見上げるといつの間にか日が暮れかけ、雲がオレンジ色に染まっている。急がなければ……。家路を早足で歩き始めた。


 この角を曲がると、もうすぐそこにアパートが見える。俺はそこで一旦足を止め、そっと辺りを伺った。見通しの良い広い路には誰もいない。それを確認するとすぐにアパートの入り口へと身体を滑り込ませた。




 建物の中は静まり返っている。薄暗い中には湿った空気が漂っていて、たかが十日ほどしか家を空けていなかったのにも拘わらず懐かしく感じた。用心してエレベータは使わず、横にある階段を使うことにする。


 一段一段踏みしめて上っていくと、アパートの一室からだろうか、時々かすかな話し声が聞こえてくる。子供の声や、それをあやす声。この荒れた街でも生活し、生きている家族がいるのだと改めて考えると何だか感慨深い。


 そして同時に、その僅かだが当たり前の幸せを自分の為に搾取している、自分やキングの事が嫌になってくる。


 俺は自分がシキに殺されかけて、真剣にそう考えていた。




 四階に到着した。俺達の部屋のドアが廊下一番端に見える。物音一つしない。まさかとは思うがジャンキーが待ち伏せしていないか注意しながら廊下を歩き、ドアの前に立つ。


 ジャケットのポケットに放り込んでいた部屋の鍵を取り出してシリンダーに入れようとして、ふと思いついてその下にあるドアハンドルを回してみる。


 するとドアは抵抗なく開いて、俺は瞬時に警戒を強めた。ホルスターから銃を取り出し、右手に持ちドアの隙間から中を覗くと何も異変は無い。




 入ろうか――少し迷う。中に何者かが侵入しているかもしれない。だが、ずっとこうしていても埒があかないと思い直し、玄関に足を踏み入れた。




 もしもの事態に備えて靴は脱がずに土足で、リビングに通じる廊下を歩く。トイレや風呂場のドアを開けて誰もいないのを確認し、リビングを覗いてもそこはいつもと変わりない。


 あとはロフトと俺の部屋、そしてキングの部屋を確認しなければ……そう思った時、微かな『声』が聞こえた。言葉にならない溜め息に似た、声。


 それは、確かにキングの部屋から聞こえた。








 キングか?


 さっきの声では判別が付かなかった。キングのような気もする。違う気もする。また迷った。


 そしてやはり先程と同じ選択をする。ここでこうしていても埒があかない。




 銃を構えてじりじりとキングの部屋の前まで行く。その扉は隙間無く閉じられていて、侵入を拒んでいるようにも見えた。汗ばむ左手でドアノブを握り、室内に銃を向けながらドアを限界まで一気に開いた。


 中は暗い。灯りは一つも点いておらず、黒い遮光カーテンがぴったりと閉められているせいだ。一瞬、今が真夜中であるような錯覚を引き起こしたが、すぐに暗さに慣れた目で室内を見回す。


 まず最初に目に入ったのは床だ。分厚い本やナイフが乱雑に散らかっている。次に、壁。備え付けのクローゼットの開いた扉の中は空だ。そして視線はベッドに向かう。




 暗い室内に隠れるようにして、キングは横たわっていた。


 俺の身体を一気に脱力感が襲う。緊張しきって銃を構えていた右手を下ろし、凝りそうになった肩を回した。


 やはりキングは帰っていたのか。心配かけやがって、という気持ちも勿論あるがそれよりも安堵感の方が大きい。良かった、そう思う。




 キングは熟睡しているのか、俺が傍にいるというのに横たわった姿のまま身動き一つしない。微かに寝息だけが聞こえる。十日も連絡せずに何処をほっつき歩いていたのか問い詰めたいのは山々だが、無遠慮に叩き起こすのも気が引けた。


 そのうち目を覚ますだろう。そうしたら改めてこれからどうするかについて話し合わなければならない。


 ジャンキーがうろついていることは確かだし、恐らくそいつらは俺達を探している。俺が思いつく対処法は消極的なものばかりで、一旦この街から逃れようとかそんなところだ。だがキングはもっと的確な考えを出すかもしれない。


 俺達は何だかんだ色々あったが、二人だけの仲間だ。こんな時こそ協力しなくては。柄にもなくそんなことをしみじみと思う。多分、キングが見つかったことで気が緩んでいるのだろう。




 音を立てないようにして部屋から出ると、リビングや廊下に残してしまった足跡が気になる。しばらく帰っていなかったことだし掃除でもしようとリビングの灯りを点けると、床の上に箱が置いてあるのに気が付いた。


 それは長方形の厚紙で出来ていて、蓋の上面には靴のメーカーの名前が印刷されている。靴を買った後の空き箱だ。何故これがこんなところに?


 訝しく思った瞬間、俺はあることに思い至った。


 これは、あのカプセルの山を入れていた箱だ。ばらばらと散らばらせておくわけにもいかなかったが適当な入れ物が無く、人間の体内に入っていたカプセルを食器に収めるのも阻まれたのでとりあえずこの空き箱に突っ込んでおいたのだった。


 しゃがみ込んで握ったままだった銃を置き、箱の蓋を持ち上げた。灯りの下に晒された箱の中には、何もない。




 カプセルが無くなっている。


 --チカが持っていったのか? だが、彼女は何も言っていなかった。いくら何でも黙って持って帰るような人間じゃない。


 ならばキングか。しかし、あの厄介な薬を何処に持っていった?


 それは本人に訊くしかない。起こしに行くために立ち上がって部屋の方を振り向いた俺の目に、目的の人物の姿が飛び込んできた。




 キングは彼自身の部屋のドアに背中を寄りかからせるようにして立っている。顔を伏せていて表情はわからないが、いつもの黒ずくめの服を着たその姿は間違いなくキングだ。


 相変わらず足音を立てないで動く奴である。俺は少し驚いたが、気にせずに近寄る。




「起きたのか。今まで何処に……」


 言いかけた時、キングに漂っている僅かな異臭に気が付く。それは何度嗅いでも慣れることなどない、血の匂いだった。


 誰かを殺ったのか。ふと十日間で十八人を襲ったという薬物中毒者の事件が頭をよぎるが、まさかキングではないはずだ。彼の殺り方とは違うし、何よりキングはドラッグの類は全くやらない。


 目の前のキングがゆっくりと動き、寄りかかっていた背中をドアから離した。彼は俺の足元から頭へと順に視線をずらしているのか、俯いていた顔を段々上げていく。


 俺はその姿に、唐突な違和感を覚えた。なんだ? この感覚は--。


 真正面を向いたキングの唇が動き、言葉を発する。




「誰だ、お前」










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