手首を切り落とされ、すぐにも動脈から血が吹き出す……と覚悟した。だが、痛みは待てども訪れない。俺は閉じていた瞼を開けた。


 目の前にあるのは、俺の手。ナイフの刃を肌に当てられている状況は変わりないが手首はまだ繋がっている。刃は微動だにしない。一体どうしたのだろうか。顔を動かしてシキの動向を窺うと、奴は廃墟の外に顔を向け、じっと目を光らせている。


 --今なら逃げ出せるかもしれない。そう思った俺の耳に、闇を切り裂くように大きな銃声が響いた。




「ぐっ……あぁあアアァ! 誰だ!?」


 シキは叫びを上げて俺から離れ、同時にナイフが音を立てて地面に落ちた。落ちたそれを見るとその柄には、生々しい血がべったりとついている。


 手首を何者かに撃たれたらしいシキは、それでも唸りを上げながら周囲を見回していた。--全く痛みを感じないのか?


 奴は攻撃された衝撃からか、完璧に我を忘れている。俺の存在も目に入っていないらしい。




「くそ、くそ、糞がっ! 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!」


 そう言いながらシキはまた新しくナイフを取り出し、無事な左手に握りしめた。


 逃げるなら今がチャンスだ。頭ではわかっていたが、大分血を流したせいか立ち上がろうにも全身に力が入らない。


 シキが突然黙った。それでようやく、俺の耳に足音が聞こえる。


 誰だ……?




「てめぇか……俺の手を俺の手を!」


 足音がした方へ顔を動かす力も無くなってきた。地べたに面した俺の目に、二本の脚が映る。それは夜に溶けるように真っ黒だった。




「大正解」


 ――キングだ。




「ああ、殺してやる……貴様も処刑だ、ヒャハハハハ!」


「何、こいつ馬鹿か? ジョーカー、生きてる?」


 キングが俺に問いかけてきて、俺は短い言葉でそれに答えた。声を出すと酷く息が苦しくなる。




「……まだ、な」


「よし。こいつさぁ、お前に何しようとしたの?」


 血をダラダラ流して死にかけている人間に対して何を訊くんだ。キングがやらんとしていることは大体わかるが、俺の喉からは息すらも上手く出てくれない。




「この泥棒野郎はなぁ、大罪、大罪を犯したんだ、アハハハ! 身体を切り取ってルクレツィアに捧げるんだよ!」


「てめぇには訊いてない。まあいい、つまりバラすつもりだったんだ。ジョーカーを。良いお笑い草だ」


 キングはそう言って笑い声を洩らす。


 ああ、やはり笑われた。




「俺の手を……くそがっ……こいつも今すぐ同じようにしてやる手を切り離して足を切って首を切ってバラバラに、バラバラに!」


 シキはぶつぶつと呟いたかと思うと、突如俺に向けてナイフを振りかざした。避ける力などもうない。


 ひゅ、と風を切る音がすぐ近くで鳴り、次いでそれをかき消す銃声がした。




「あーあ。バカなことするから」


 再びナイフが俺の目の前に落ちる。やはりそれにも血糊が付いていて、おまけのように数本の指が地面に転がった。




「……両手が駄目になっただろ。まあどうせお前がジョーカーにやろうとしたことをしてやるつもりだったから同じ事か」


 キングはいかにも面白そうに笑いながら言う。そして続けざまに二発銃声が聞こえ、目の端に、シキの身体が崩れ落ちるのが見えた。




「ぐ、俺の手が……足が……」


「へえ、気絶しねえの。意外に根性あるんだな。さあどうする? 口でナイフを持つか?」


 キングはシキのナイフを拾い上げ、はり付いたままの指を剥がして踏みつける。




「このままダルマにするのも良いけど、俺の趣味に反する。ジョーカー、お前はどうしたらいいと思う?」


 悠長に訊いてくるキングに答える気力が起きない。俺は黙っていたが、キングは独り言のように会話を成立させた。




「そうだな。やっぱり自分の趣味を曲げちゃいけない。善は急げだ、殺そう」


 キングの足音がひたひたとシキに近寄るのが聞こえる。そして、喉を掻っ切られたのだろうか、シキの断末魔の悲鳴。やがて血液が気管に入ってごぽごぽとした水音に変わるのを、俺は朦朧とする意識の中で聞いていた。




「立てよ」


 一瞬意識を失っている内に、いつの間にかキングが傍に来ている。返り血にまみれた彼の顔がやけに懐かしく思えた。


 立とうとしても立てない俺が動かないでいると、キングはわざとらしくため息を吐いて、言う。




「これは貸しだからな」


 キングは俺の腕を自分の肩に担いで、体重を支えながら出口へと歩き出す。


 キングは俺を助けに来てくれたのだ。礼を言わなければ--そう思いながらも、俺の意識はそこで再びふっつりと途絶えてしまった。














 暗い。


 ぽたぽたと液体が落ちる音だけが聴こえる。遠くにはぼんやり光る何かが見え、そこに行ってはならないとわかっているのに俺は近付く。




 歩く足がやけにぬるついた。これは何だろう。ふと床を見るとバケツの水をぶちまけたように濡れている。他にも、色々なものが転がっているのが見えた。


 だがそれが何なのかはわからない。暗くて、暗すぎて何もかも影に飲み込まれかけている。細長い何かを掴み上げると、ぐにゃ、と指に食い込んだ。先端は五本に分かれていて--。




 腕だ。


 気付いた俺はそれを慌てて離す。重力に逆らわず落ちた腕はべちゃりと不快な音を立てて再び影になった。




 周りを見渡す。あれは膝から切り取られた脚、とぐろを巻いている腸、散らばった肉片、そして俺の足の下に広がっているのは血だ。


 これは『誰』だ?


 俺はシキにバラされたのか?


 違う、キングが来てくれたじゃないか。それともあれは夢だったのか?


 死ぬ間際に見た幻?


 俺は、俺が、死んだ?


 違う。違う。


 俺は生きている。死んだのは誰だ。


 この身体は--。


 --思い出したくない。


 上から水滴が落ちて顔に落ちた。


 それはぬる、と頬を流れていく。


 --思い出しちゃ駄目だ。


 錆び付いた血の臭い。俺はゆっくりと顔を上げて、それを、見てしまう。








 真っ白な天井が視界に映った。


 ベッドに横たわっていることに気付く。物音がしてそちらに目を向けるとベッドの横に置いてあるパイプ椅子にキングが座っていた。彼は手元で折り紙を熱心に折っている。


 しばらく頭が働かずにいたが、ようやくここが病院だということに思い至って小さく安堵の息を吐いた。


 さっきのは夢か。だが『思い出したくない』……俺は確かにそう思った。これも失った記憶の断片だろうか。




「……キング」


「おはようジョーカー」


 声を掛けると彼は顔をこちらに向けることすらせずに全くいつも通りの挨拶をする。心配する言葉とかは無いのだろうか、とは思うがそれでも病院に連れてきてくれたのだから有り難い。




「俺、どのくらい寝てた」


「丸二日。血はかなり流れてたし、折れた肋骨がもう少しズレてたら肺に刺さってたらしい。やばかったんだぞお前」


 丸二日か。身体を動かそうとするとまだ全身が痛む。取りあえず今はベッドから起きるのを諦め、顔だけをキングに向けた。




「お前の顔真っ白でさあ。笑った笑った。記念に写真撮ったから見せてやる」


「……そんなもん見たくもない。……キング、ありがとう」


 俺が出来る限りの感謝の思いをこめて言うと、キングは片手を振って返す。




「悪食女に叩き起こされたんだよ。そのまま二度寝してお前が死んだりしたら俺の良心が痛む。たまたま銃声が聞こえて見つけただけだ」


 乱暴に吐き捨てるキングの手元を見ると、彼が熱心に折っていたのは鶴だった。ゴミ箱には何十羽もの折り鶴が詰まっている。暇つぶしだとしても、キングは俺が寝ている間ずっと鶴を折っていたのだろうか?


 その姿を想像して俺は少し笑った。あまりにもキングらしくなく、同時にキングらしい行動だ。




「何にやけてんだよ気色悪い」


「何でも無い。……そういえばさっき夢を見ていたんだ」


 俺は何気なく、先ほどの夢の内容を話した。キングはその間も鶴を折っては捨てを繰り返し続け、果たして聞いているのかいないのかわからないが壁に話すよりはマシだろう。




「--それで、上を見て」


「見た?」


 話の終盤、キングが唐突に口を開いた。彼の横顔を見ると見慣れた無表情のはずなのにどこか強張っているように見え、俺は違和感を覚える。




「いや。そこで夢が覚めた」


「あ、そう」


「これは、昔の記憶なんだろうか」


 俺はキングと出会ってからの記憶しか持たない。もしかしたら彼は何かを知っているかもしれない、不意にそう思った俺は探りを入れてみる。




「知りたい?」


 どうせ茶化されるだけだろうと予想していたが、思いの外キングはまともな返答をしてきた。やはり何かを知っているのか?






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