「なんだ。お前かあ」


 男の声がした。間延びした口調のそれはさっき俺を追いかけてきた男の声と全く同じである。




「だよなあ、お仲間の匂いがプンプンしてたから」


「シキさん……」


 少女は震えを帯びた声で男に呼びかける。それは到底演技とは思えない、彼女は本当に怯えているのだろう。


 無意識に拳銃を握る手に力を篭めていたのに気付き、冷静を努めようと心を鎮める。物音を立てないよう気を遣い、屋内に漂う空気の流れすら感じられるよう感覚を研ぎ澄ました。




「どうしたの、そんなに俺が怖い?」


「シキさん、あたし、もう薬は……」


 少女が途切れ途切れに言った。薬との関係を断ち切ろうとしているのか。その言葉を言い終わらないうちに、シキと呼ばれた男の笑い声が廃墟内に反響した。




「ヒャハハ……止めるつもりかあ? 馬鹿言ってんじゃねえよ。お前が殺した人間のこと忘れたのか?」


 少女がヒュッと息を飲む音がする。


「ありゃあ凄かったよなあ、顔も身体もグッチャグチャ。腹かっさばいて内臓まき散らしてさ」


「やめて!」


 少女が叫び、しばらく沈黙が流れる。




 俺は動かず、何が起こってもすぐに動けるように心を落ち着かせていた。




「その始末をしたのは誰だ? 俺だ。お前は俺に恩を返す必要がある」


「……恩なら、他のことで返すから……お願い、もう嫌なの!」


「だめだなあ。お前にはやってもらう事があるんだよ」


 男は完璧に気を緩ませているようだ。ここに俺が隠れていることに気付いてはいないだろう。素早く動き、男を殺せるか?


 自信が無い。この薄暗さの中、狙撃をしくじれば俺はおろか少女も殺される。




「昨日、受け渡す予定だった薬が消えた。どっかの馬鹿にかっさらわれたらしい。上からの命令で、そいつを見つけたらこれからは薬に金を払わなくて済むんだってよ。オマケに報酬もたーんまり。お前にとっても悪い話じゃねえだろ? 俺に協力すれば山分けだぜ」


 俺の心臓は飛び上がりそうになった。間違いなく俺とキングの事だ。上からの命令? 組織はやはり俺達を追っているのか。




「……つうか、さっき見つけたんだけど逃げられちまってよお。黒髪で背の高い若い男、お前見てねえか?」


 すぐにでも立ちあがろうかと思った。少女が俺の事を告げる前に。だが、少女の返事は俺の予想に反していた。




「知らない。あたしはもう薬を止める。シキさん、あんたとも会わないから」


「……そりゃ残念……さよならだな」


 不意に壁に光が射した。月の光が何かに反射したような--考えるよりも先に、俺は立ち上がっていた。




 目の前には少女の後ろ姿。そして、シキという名の男。やはり奴は俺が直感したようにナイフを構えている。その刃が光を反射していたのだ。




「ああ? お前、さっきの奴じゃん」


「ナイフを下ろせ」


 シキは俺の出現に一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐににやりと笑みを浮かべる。拳銃を両手で構えたまま、俺は男を狙いやすい位置へじりじりと移動する。




「お兄さん、なんで……」


 隣に立つ少女が狼狽えを隠せないような、上擦った声で言う。何故だろうか? わからない。だが、身体が先に動いていたのだ。少女がむざむざと殺されるのを隠れて見過ごしたくなかった。




「ナイトってやつかあ? はは、女に生まれると便利だねえ」


 銃口を向けられているにも関わらず、シキはへらへらと笑いながら挑発する。それが薬のせいかはわからないが、俺はその姿に嫌悪感を覚えた。




「ナイフを下ろせと言ってるだろう。今すぐ死ぬか?」


「そう言われてもなあ。……このナイフはあんたを殺すためじゃねえんだよ」


 そう言って、シキは素早くナイフを俺にいる方向へ向かって投げた。俺もそれに反応し、拳銃の引き金を躊躇い無く引く。


 確かな手応え、耳をつんざく銃声。




 俺の放った弾丸はシキの脇腹を貫き、シキは倒れた。


 奴が投げたナイフはどこに行った?


「――あ」


 見回す前に声が聞こえ、目を遣ると隣に立っていた少女がその場に崩れ落ちる瞬間だった。


 ナイフが少女の胸を貫くように深々と刺さっている。シキは俺じゃなく、少女を狙って投げたのか--。


 とっさに少女を抱き起こした。ひゅうひゅうと力無くではあるが、まだ息をしている。


 ……この少女はシキに嘘をついて俺を庇ってくれたのだ、見殺しにはしたくない。




「しっかりしろ、すぐに助けを呼ぶ」


 しかし彼女は首を横に振る。そして、血の気が失せていく唇を動かした。


「いい、の……あたし……お母さんを、殺したから……バチ、あたったんだ……」


 シキの言葉を思い出す。--お前が殺した人間--少女は自分の母親を手にかけたのか。




「ごめん、なさ……」








 少女はそう言って呼吸を止めた。恐らくその謝罪の言葉は、彼女が殺した母親に対してのものだろう。


 開いたままの、虚空を見つめる瞳を手のひらでそっと瞼を下ろしてやった。




 ――ともかく、組織が俺達を探していることは確実だ。ただ探すだけではなく、売人や、客であるジャンキーに餌をぶら下げて焚きつけていることも。まるで賞金首だ。


 男は死んだし、まずはアジトに戻ろう。俺は少女の亡骸をそっと寝かせ、立ち上がろうと片膝をついた。




 次の瞬間、空気を裂く音がすぐ傍で聞こえた。


 右肩に焼けつくような熱さを感じる。思わず左手で押さえると、ぬるりとした感触、次いで鋭い痛み。


 振り返ったそこには、腹を撃たれて死んだはずの男が……シキが立っている。




「嘘つき女は死刑死刑死刑死刑いぃ……ひゃははは!」


 シキは癇に障る声で笑いながら、手に持ったナイフの先端で既に息耐えている少女を指し示していた。


 何故立っていられる?


 狙撃が失敗していたのか?


 混乱しながら奴の腹を見ると、暗がりでもわかるぐらい、奴のシャツはどす黒く染まっている。鉛の弾で撃たれながら何故動ける--これも薬の力か。完全に、俺の油断だ。




「痛くねえ痛くねえ……クソがっ!」


 叫んで、シキは手に持っていたナイフを俺に向かって投げた。とっさにそれをかわそうとしたがナイフの狙いは正確で、鋭い刃が俺の左足に突き刺さった。


 奴を見ると、また新しいナイフを懐から出していた。俺は右手に握っていた拳銃を構えようとするが、力が入らない。肩から血がどくどくと流れているのを感じる。相当深く切られたらしい。




「嘘つき女は死刑……泥棒野郎はどうしようかなああ。どうしてほしい?」


 シキはナイフを揺らめかせながら俺ににじりよる。どうする。左手に拳銃を持ちかえ撃つか。しかし目の前の男に隙は全く無い。


 逃げようにも、肉を裂かれナイフが深々と抉り込んだ片足は酷く痛む上に出口はシキの背後にある。背中を刺されて死ぬのが目に見えていた。


 一か八かで拳銃に賭けることに決める。その場に腰を下ろし、奴の死角になるように右手を背中の後ろに隠した。




「……神に懺悔する時間をくれないか」


 拳銃をそっと床に置く。なんとか時間を稼がなければ。


「神? そんなもん信じてんの、あんた」


「お前だって困った時に祈る相手ぐらいいるだろう」


 出来るだけ自然に会話する。俺は拳銃を離した右手を自分の身体の陰に隠した。後は上手く拳銃を左手に握れば。




「それなら俺の神は、ルクレツィアだ」


「ルクレツィア? 恋人か」


 俺はシキを話に乗せようと聞き返す。奴が目を逸らしでもしたらその時に、撃つ。それしか方法は無い。


「そんな下世話なもんじゃねえ。これだ」


 そう言ってシキは口を開け、空いている手で何かを取り出す。それは、あのカプセルだった。


「これを飲むとなあ、自分が神になったみたいな気持ちになれる。愚かな人間を裁きたくなるんだ……お前みてえな愚かな人間をな!」


 高らかに叫んで、奴は歯でカプセルを開けて中身を口に含んだ。ごくりと飲み下す音が聞こえて間を置かず、シキの身体が小刻みに震え始める。




「ひゃは、くく……アはははははは! 決めた決めた決めた泥棒のお前は拷問だ拷問だ拷問だ拷問だ……」


 シキは壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返し叫んだ。完全に薬がキマってしまったようだ。もう猶予は無い。俺は素早く左手に拳銃を掴み、シキに向かって引き金を引く。




 --外した。心臓を狙ったのだが弾は逸れシキの腕を掠めることしか出来なかった。




「……てめえ」


 だがそれでも攻撃性が増幅している奴を煽るには充分過ぎた。鬼の形相をしている男に、俺は再び祈るように拳銃をぶっ放す。だが手応えも何もない。最悪なことに弾が切れたようだ。


 瞬時に諦めて拳銃を投げ捨てる。目前にナイフが煌めいているが、もう打開策は思い付かない。




「泥棒、反逆……重罪だなあ」


 シキは俺の腹を力一杯蹴り上げた。肋骨が折れた音がする。無様に地面に倒れ、伏せて咳き込む俺の頭上から声が降ってくる。




「まずは手首、足首を切り落としてやる。次は肘膝、耳、鼻。段々身体が小さくなる小さくなる小さくなる……」


 肩や脚の傷を抉られると、気が遠くなるような痛みが襲った。ひと思いに殺ってくれないのか。--キングならそうするだろう。




「拷問を始めよう。ヒャハハハハ!」


 手首にナイフが当てられた。冷たい刃が肌に食い込み、じわりと血が流れ出す。


 --こんな死に方をしたのがキングに知れたらあいつは笑うだろうな。この俺が、生きたままバラされて死ぬなんて。


 煩い笑い声の中で俺はそう考え、目を閉じた。






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