アパートから外に出ると冷たい夜風が頬を撫でた。街灯はあるが路面は暗く、地面に落ちているかもしれない小さなカプセルを見つけるのは困難だろう。


 路上の見える範囲に人影は見当たらないことを確認してから俺は懐中電灯のスイッチを入れる。


 子供が嘔吐したのはどのあたりだったろうか。アパートを見上げて、俺達のアジトである部屋から見えそうな範囲に移動する。地面を照らしながら歩くと、吐寫物がこびりついている箇所を見つけた。間違い無くここだ。傍らにしゃがみ込んで、灯りを近づける。




 --何もない。繰り返し調べ、道路の隅に転がっている可能性も考えて念入りに捜したが何もなかった。


 やはり吐いていなかったのか。結果として無駄足になったが、何もしないよりはいい。




「……」


 安心したせいか、欠伸まで出てきた。もう時間も遅い。早く帰って寝よう。




「探し物ですかあ」


 不意に声がした。後ろだ。俺はとっさに拳銃の入ったポケットに手を突っ込みながら振り向く。


 そこには、男が立っていた。


 耳や顔の至る所を威圧感のあるピアスで飾っているが、表情は穏やかに笑っている。だがその表情に、不気味さを感じた。


 こいつはどこから現れた。足音は全くしなかった。だが、あからさまに警戒して刺激するのも良くない気がする。


 出来る限り平静を装って男に向き直り、答えた。




「ああ」


「何をお探しでえ?」


 間髪入れずに男は間延びした調子で訊く。まさか、カプセルをだなんて言えない。組織の人間か? そっと辺りを見回すが、やはり目の前の男以外には何の気配も感じられない。組織の人間が単独で捜索に来るものかどうかはわからないが……。




「……財布」


 我ながら下手な嘘だ。だが他に良い物が思い付かない。


「大変だなあ。僕も手伝いますよお」


 そう言って男はにこにこ笑いながら近付いてくる。俺は男が近付いた分だけ、後退った。




「いや、いい。見つからなかったんだ」


 一体何なんだ。普通じゃないことはわかるが、組織の人間なのかそうではないのかがわからない。


 男の目をよく見ると、その目は俺を見ているようでいて違った。ふらふらと黒目があちらこちらに泳いでいる。口元に視線をやると、涎が一筋顎に向かって垂れていた。その顔はまるで薬物中毒者だ。


 --薬物中毒者。


「見つからなかったんだあ。……違うでしょう。本当の探し物は」


 そう言って男は大きく口を開ける。突き出した舌の先端は、まるで蛇のように二つに割れていた。その舌の上に乗っているのは--あのカプセル。




「これだろう? ……見ぃつけた」


 男は俺に向かって飛びかかってくる。すんでのところでそれをかわし、拳銃を構えた時、すぐ近くでパトカーのサイレンが聞こえた。


 思わず舌打ちをしてしまう。何の事件で出動しているのか知らないが最悪のタイミングだ。このヤク中の男はどうでもいいが、俺は職務質問なんかされたら錆がぼろぼろ出る身である。そして俺が捕まればキングも捕まってしまう。


 それだけは避けなければならない。




「あああ、お巡りさんだねえ、助けてえって言うかい?」


 男はダラダラ涎を垂らして笑いながら、じりじりと近付いてくる。アパートに逃げ込むわけにもいかない。キングは寝ているだろうし、チカもまだ居る。


 それにアジトにトラブルを持ち込むのはこれからの仕事に支障を--。


 支障?


 もし俺が死んだら、仕事もクソもない。一瞬そう思った。だが、例え死んだ後でもキングに迷惑を掛けるのは嫌だ。




「くそっ」


 パトカーのサイレンが聞こえる方とは逆方向に向かって駆けだした。出来る限りアジトから離れて、男を撒かなければ。




「アハハ、鬼ごっこお? 負けないよ」


 思惑通りに男は追ってくる。


 走り続ける内にサイレンの音は大分遠くなった。警察の手は逃れたといっていいだろう。


 曲がりくねった街角を駆け抜ける。俺の方が、この街には精通しているはずだ。


 そのまましばらく走って、後ろを振り向くと男は居なくなっていた。




 息が上がってしまって苦しい。少し休むため、人気のない廃墟に入った。




「はぁ、はぁ……」


 地べたに座って呼吸を整える。あの男を撒けただろうか。アジトに戻って張っていなければいいが……。どちらにせよ今夜は帰らない方がいいだろう。


 呼吸はすぐに落ち着いた。キングに連絡するために、携帯電話を取り出した瞬間、俺の耳に僅かな物音が聞こえた。




 衣擦れの音。


 --浮浪者か?


 だが追われている今はそれが何だとしても正体を確認しておかなければならない。


 俺は携帯をしまって、代わりに拳銃を構え、音がしたほうへと足を忍ばせ近付いた。






「撃たないで!」


 暗がりから悲鳴が上がる。


 高い声……。


 女だ。




「出てこい」


 俺は拳銃を構えたまま警戒を解かず、乱雑に置かれた鉄パイプの陰に隠れているであろう人物に向けて言った。しばらくして、人型のシルエットがゆっくりと立ち上がる。


 窓から射す僅かな月を頼りに目を凝らすと、それは若い女だった。怯えたような表情で唇を噛み、両手を挙げている。


 一般人だろうか。




「あ、あたし、何も……」


「……悪い」


 泣きそうに顔を歪めた女の表情の変化に、慌てて構えていた拳銃を下げる。多分、組織とは関係無いだろう。


 女はホッとした様子で降伏のポーズを止めた。そしてじっと俺の顔を見つめてくる。俺はあの男が近付いていないだろうかと周囲に気を配りながらも、何処か決まり悪さを感じた。




「お兄さん、警察の人?」


 鉄パイプを跨ぎ、その上に腰掛けた女をよく観察するとまだ幼さの残る顔立ちをしている。彼女は少し上擦ったような声で俺に尋ねた。


「俺は……何でもいいだろう。驚かせて悪かったな」


「待って!」


 立ち去ろうとした俺の背中に、少女が叫ぶ。




 その声はやけに切羽詰まっているように聞こえ、俺は足を止めた。


「……静かにしろ。何か用か?」


 あまり呼び止められて大声を出されるとあの男に見つかるかもしれない。俺は声を潜めて少女に近付いた。


 少女は両手をぎゅっと握りしめ、目を伏せている。時折唇を噛むその仕草から、何かを言いあぐねていることが見て取れた。




「お兄さんが警察の人なら……ううん、警察の人じゃなくてもいい。お願い、あたしを」


 少女はそこまで言って、唐突に顔を上げた。その瞳はまるで猫のようにぎらぎらと光り、何処か遠くを見ている。眼球の焦点が揺らぎ始めた瞬間、俺は弾かれるようにして少女の頬を平手打ちした。


 乾いた音が廃墟に鳴り響く。少女は我に返ったのか、頬を押さえて俺を見上げた。何か言おうと頭を働かすが、ろくな言葉が思い付かない。




「あんた、薬物中毒者か」


 結局、単刀直入にそう訊いた。先程突然現れた目の焦点の揺らぎ。--それは、あの男の目によく似ていたからだ。こんな街に住んでいればヤク中自体はそんなに珍しいものじゃない。今更驚きはしなかった。


 少女はゆるゆると頷いた。俯いて泣いているのだろうか、目を手の甲で拭う。だがすぐにまた俺を見上げ、今度はしっかりとした瞳をして言った。




「助けてください」


 ……最初は軽い気持ちだった。少女はそう言った。だが薬の刺激に慣れると人間は際限なく求めるもので、いとも簡単に堕落する。彼女もそうだったらしい。


 恐らく目の前の少女は、自分なりに悩み薬から逃れたかったのだろう。俺は神父にでもなったかのように黙って少女の告白を聞いていた。


 全部聞いてやったら、治療施設に行くよう勧めて立ち去ろう。冷たいようだが偶然会っただけ、言わば通りすがりの俺に助けを求めてもしてやれることはそれぐらいしか無い。


 だが、少女のある一言に耳を惹かれた。




「最近……気が付いたら手のひらが真っ赤になってるの。血がいっぱい付いてて」


「……自分の怪我じゃないんだな?」


 少女は力無く頷く。知らない内に血まみれに?


 --殺人か? すぐにその言葉が思い浮かんだが、果たしてそんな薬があるのだろうか。あのカプセルの中身。チカは、常用すれば薬物中毒による一般的な症状が出るとしか言ってなかった。だが、もしも殺人衝動が異様に高まる薬があるとすれば……。




「あたし、もう嫌……。薬を売ってくれる人も怖いけど、何より自分が……、怖くてたまらない」


「売人は何て名だ」


「シキって呼ばれてる」


 シキ。俺はその名前に心当たりは無いが、チカなら何か知っているかもしれない。カプセルを扱っている組織と関係あるかはわからないが、情報は集めておいて損はあるまい。


 少女は胸の内を全て吐き出したのか、黙って俯いている。そろそろこの場を離れてキングに連絡した方が良いだろう。俺が口を開きかけた時、背後で靴音がした。




 あの男か? 拳銃を構えようとする。だが、一足早く立ち上がり飛びついてきた少女に腕を掴まれ、止められてしまった。




「お前」


 この少女も男の仲間だったのか? 腕を振り解こうとした俺は、彼女の顔を見て動きを止めざるをえなかった。その表情は真剣で、先ほど一瞬見せた瞳の揺らぎはどこにも無く俺をまっすぐに見つめていたからだ。




「シキです、きっと。お兄さんは隠れていて……殺されちゃう」


 囁くように言って、少女は自分が身を隠していた鉄パイプの陰を指差した。




「何でそうだとわかる?」


「わかるんです……匂いで。早く」


 罠かもしれない。だが、少女の真摯な瞳を俺は信じた。もし何かあればすぐに対応出来るよう拳銃のトリガーに指を掛けたまま身を隠す。


 ――足音が、近付いてきた。








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