「こんな話がある」
テーブルを挟んで向かい合って座ったキングは、夕食のパスタをフォークに巻きながら口を開いた。
「信心深い少年がいた。彼はその信心深さゆえに毎日教会に通い、神に祈りを捧げていました」
「今の時代珍しい少年だな」
また唐突な話が始まった。そう思ったが、適当に相槌を打つ。
「その通り、珍しい少年だ。その珍しさのお陰か、純粋な信心に対してかはわからないが神は大変感動なさった。そして、少年に神の声が聞こえる。『お前と、お前の家族に幸せを授けよう』」
「そりゃあよかった」
「次の日、少年は死んだ」
俺は食事をする手を止めた。顔を上げてキングを見ると、彼は無表情に淡々と語っている。
「その少年の家は大変貧しく、日々の食い扶持にも困っていた。確かに少年が死ねば、その分家族の生活は楽になる」
「だが……家族は辛いだろう。貧しくても、生きてさえいれば」
俺は抗弁しながら、自分の言葉をおかしく思った。生きてさえいれば、なんて俺が言えることではない。
それはわかっている。だが、何か釈然としないものがあるのだ。
神を信じた故に死んだなら、少年が生まれてきた意味は。
「生きてさえいれば、か。貧しく生きて貧しく死んでいく。それを赦すのが慈悲だとお前は思うか?」
「キング、いつから哲学者になったんだ」
俺は彼からの問いかけには答えなかった。自分の考えがよくわからない。自己が揺らぐのを感じる。
「俺は少年は死んで良かったと思うよ。それが神の慈悲だ」
「何が言いたい」
キングはフォークにぐるぐると巻かれたパスタを口に入れ、飲み下してから言う。
「ジョーカーのその考えも慈悲、神のしたことも慈悲。一つだけじゃねえよな」
「お前は、だから人間を殺すのか?」
俺が訊くと、キングは可笑しそうに笑った。少し笑い声を上げて、彼は首を振る。
「俺はそんな高尚な考えは持ってない。もっと別の」
そう言いかけた時、テーブルの上に置いていたキングの携帯電話が鳴った。彼は言葉を止めて、電話に出る。
仕事の依頼は俺の携帯の方に来るはずだから、キングのプライベートな電話だろう。俺は気にしない素振りをして食事に戻った。
キングは、ああ、うん、だとか短い返事だけをして短い通話を終えた。ちらりと見ると、キングも俺に視線を向けている。
「ちょっと出てくる。すぐ戻るから、飯残しといて」
「大丈夫か?」
椅子から立ち上がり、手早くジャケットを羽織るキングに問いかける。彼は振り向きもせずに片手をひらひらと振って、出ていった。どうやら心配することは無いらしい。
ガチャリとドアの鍵が掛かる音を耳で確認して、俺は再びテーブルに向き直る。
白い皿の上に半分ほど残ったパスタをフォークで弄りながら、頭は先程のキングの話を考えていた。
貧しさの中で生き、死んでいく。それならば天に召された方が良いのか?それならば殺してやった方が良いのか?
いや、やはり俺はそう思えない。キングが殺し、俺がバラした人間にだって家族はいた。
アカの父親を思い出す。次いで、アカの悲愴に満ちた顔。決して、殺して良かった人間じゃない。殺して良かった、だなんて本気で思うとしたら、それはもう人間の感情を棄てているとしか思えない。
キングは、どう考えているのだろう。彼は彼自身が手にかけた人間達に対して、どう思っているのだろうか。
急に、それを訊かなければならないような義務感が俺を襲う。今まで問いただしたことは無かった。
俺は死体に接すると捕らわれてしまう。人体の美しさ、自らの手で切り刻む背徳の甘さ。その歓びの前には罪悪感なんて無力だ。
だが死体から離れ、理性的に考える時間が出来てしまうと罪の重さに潰されそうになる。もう死体なんか見たくもない。しかし止めることなど最早出来ない。二つの相反する考えはどちらも真実であり、俺には逃げる道は無いのだ。
いや、一つだけある。
俺は握ったフォークを見つめた。先は鋭利で、力を込めて頸動脈を突けばもう考える必要は無い。
「何やってんだ、ジョーカー」
突然背後から声を掛けられ、心臓が跳ね上がる。いつの間にかキングが帰ってきていた。
「……足音を消すのはやめろよ」
フォークを持った手を下ろしながら、キングを咎める。こんな風に驚かされるのは生きた心地がしない。
「普通に入ってきたって。もう冷めちまってんな」
キングは自分の皿を持ち上げ、電子レンジの中に入れてタイマーをセットする。
先程浮かんだ疑問を問い掛けよう。そう思い、口を開きかけた時、フローリングの床が軋む音が聞こえた。反射的に振り向く。
そこには、赤いスーツを身に纏った長身の女が立っていた。
「お久しぶり、ジョーカー」
「……チカ」
俺の顔は意識せず歪んでしまう。だが彼女──チカは我関せずといった表情で手に持っていたトランクケースを床に置き、ずかずかと近付いてきた。
「何食べてるの? ミミズ? それとも線虫かしら。悪趣味ね」
テーブルに乗ったパスタの皿を見て、彼女はそんな言葉を吐いた。最悪だ。
「悪食女には言われたくねえ台詞だな」
キングが笑いながら返す。温め直したパスタを持って、彼はテーブルにつき食事をし直し始めた。
俺はというと、もうすっかり食べる気が失せてしまった。細長いパスタがのたくった蟲を連想させてしまう。嫌々ながらチカに椅子を勧めると彼女は腰を下ろした。
「キングが呼んだんだな」
「ん。俺達だけじゃ、アレの詳しいとこはわかんねえだろ」
『アレ』が、あのカプセルのことを指していることはわかる。あれから一つだけ開けてみたのだが、中には白い粉が入っていたのだ。恐らく何らかのクスリであることは間違いないだろうが、俺達にそれを解析する腕はない。
数年前知り合ったチカ。彼女は薬物に詳しい。だからキングはチカに依頼したのだろう。
全く俺に相談が無かったのが少し気に食わないが仕方ない。どうせ賛成させられる他無かっただろうから。
「この街って相変わらず道がわかりにくいわね。殺人鬼の家はこちら、って標識でも立てたら?」
チカは煙草に火を点けながら言う。メンソールの香りが室内に漂った。
「よく言うよ、迷子のチカちゃん」
「ちゃん? 殺すわよ。チカチーロの名を汚すつもりかしら」
チカが茶化すキングを睨む。彼女が名乗るチカという名前は、勿論本名ではない。あのアンドレイ・チカチーロから取った、仮の名だ。
「……早速だけど調査に取りかかって貰おうか」
険悪な二人を仲介するように、俺はチカに話し掛けた。用事を済ますなら早い方がいい。
「依頼料が先。わかってるでしょ、ジョーカー」
チカは煙草を灰皿にもみ消し、赤い口紅で縁取られた唇を吊り上げて笑った。
「いくらだ」
キングはがつがつと食事に夢中だ。仕方なく俺が交渉役になる。
「そうねえ。キング、今日は殺ったの?」
「ああ。子供ひとり」
キングの言葉に、チカの目が輝く。俺は気付かれない程度の溜め息をついた。
「子供? 最高ね。手を打ってあげる」
「……わかった」
諦めて立ち上がり、冷凍庫にしまった死体を取り出そうとした俺の背中に向けてチカが言葉を付け足す。
「今ここで調理して。歩いてきたから、お腹が空いたわ」
彼女は、人を殺して死体を喰った殺人鬼チカチーロの名に相応しく、カニバリズム──人肉を喰う人間なのだ。
チカはステーキをリクエストした。頭部から抉り取った眼球をソテーにして付け合わせにし、脳を軽く煮込んでスープを作る。完成までに結構な時間が掛かってしまい、料理がテーブルに並んだ頃には、キングはソファーでうたた寝を始めていた。
「あら、なかなか料理上手なのね」
「早く食え」
チカは満足そうに料理を眺め、それから俺に微笑みかけた。一般的には美人の部類に入るだろうチカだが、彼女に微笑みかけられても俺は嬉しくもなんともない。食人鬼が舌なめずりをしているようにしか見えないのだ。
「いただきます」
チカは上品にナイフとフォークでステーキを……いや、死体を切り分け、自分の口に運ぶ。吐き気がしそうになって、目を逸らした。キングが横たわるソファーの傍らに座る。
「美味しい。新鮮だったら生で食べたかったわ、この子」
チカは心底感動したように声を上げ、俺を横目で見やる。
「どうしてあなた達は人間を食べないの? 殺人鬼とネクロフィリアのくせに」
「関係ないだろう」
乱暴に返事をしたが、自分でもそれは奇妙に思う。キングの本心は知らないが、俺は人肉を全く食べたいと思わない。
死体に対する愛情は異常なまでに強いのに、それを摂取することを想像するだけで吐き気がするのだ。今も、チカが食事をしているのを眺めているだけで胸がムカムカしてきている。
「カニバリズムは人間の最大のタブーよ。それを犯す、この歓びがわからないなんて勿体無いわ」
チカはまるで演説かのように宣言し、ぱくぱくと肉を喰らっていく。
「……悪食女」
寝ていると思っていたキングが小声で呟く。俺は振り向いてキングと顔を見合わせ、力無く笑った。
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