それは暗闇から始まった。瞼を閉じた時に見える闇よりも深く、不快に纏わりつく闇。徐々に霧が晴れていくように視界が戻り、俺は無意識に足を一歩踏み出した。


 裸足の裏の皮膚にべたりと貼り付く何かの感触を踏み潰してから足元を見る。それは細い、傷だらけの、女の腕だった。左手の傷。横に走る幾つもの古い傷。ぞわ、と総毛立った。


 女の顔は見えない。闇の向こうへ溶けるみたいに消えている。ほっとしている自分に気付いた。その時、女の腕が素早く動き、蛇のように俊敏に俺の脚を絡め取った。




『あんたが殺したのよ』


 囁く声がする。両手で耳を塞ごうとしたが、いつの間にか闇の中から数多の腕が伸びてきて、俺の両腕を締め上げた。


『あんたが殺したのよ』


 繰り返して声がする。俺は叫びだしたい気持ちを抑えて心の中で怒鳴った。




 ああそうだ、俺が殺した、みんな殺した! これからも殺して、殺して、殺してやる!


 蛇のような腕がゆっくりと、するりと解けていく。その一本が俺の頬を撫でていった。




『……あんたなんか、生まなきゃよかった』


 最後の声が聞こえた瞬間、俺はガクンと身体が投げ出されたような衝撃を受けて目を覚ました。一瞬、馬鹿なことを考えた。俺はこんな風に、放り出されるみたいにして産まれたのかもしれない。あの女の股から。あの男の血を継いで。




「……キング……キング」


 耳に慣れた声と共に、寝ぼけた頭が回復してきた。ああ、今のは夢だったのかと遅ればせながら気付く。


「大丈夫か? 酷い魘されようだったが」


 リビングの中は薄暗い。まだ夜明け前のようだった。心配そうなジョーカーの顔がうっすらと見える。


「……変な夢、見た」


「夢?」


 訝しげな顔になって、ジョーカーが俺の頬に触れる。その手は夢の中の女の手よりも数倍、数十倍、温もりが感じられた。単なる体温と悪夢の差と言ってしまえばそれまでだが、今は何となく理論的に片付ける気にはならなかった。




「お前は夢で泣くのか」


「……うるせえな」


 泣いていたことを言われてから初めて知り、急に腹立たしくなってジョーカーの手を振り払う。相手はその手で煙草に火を点け、ソファの空いたスペースに腰を落ち着けやがった。




「俺、まだ眠いから退けよ」


 無論、二度寝できそうな気なんてしない。嘘だが、今ここにジョーカーが存在するのが唐突に嫌になった。涙を見られた恥ずかしさなんてものは無いが、ただ単に居座られるのも迷惑だ。


「お前に話したいことがあるんだ。由々しき問題なんだが」


「ストップ。手短にしろよ」


 仕方なしに起き上がってジョーカーの煙草を一本くすねる。火を点けて吸い込んだ煙は現実と裏腹に体内を浄化してくれるような気がした。




「……ワードのネタが切れた」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は立ち上がった。くわえた煙草の灰が宙に舞うほど勢いよく。そしてそのままワードの元――自分の部屋――に向かおうとした背中に、ジョーカーの慌てた声が掛かる。




「キング、どうするつもりだ?」


 至近距離にまで近付いて来たジョーカーに煙草を渡しながら笑う。質問の意味がわからなかった。


「殺るんだよ。当たり前だろ?」


 俺はジョーカーが頷くとばかり思っていた。だが、目の前の相手は言い辛そうに、こう言った。


「殺すのは、止めないか」










「何言ってんだ? お前」


 頭がおかしくなったのか? そう続けかけてやめる。ジョーカーの目を見れば、こいつが正気なのは手に取るように理解できた。


「奴のネタは確かに切れた。だが、その作品の質は悪くない。出版社に持って行く価値が――必ずしも本になるかはわからないが――あると思う。それを逃すのは……」


 頭の中で言葉がぐるぐる回る。ああ、ワードの作品はそれなりに面白いかもしれない。だから何だっていうんだ? 俺達があいつの成功の道筋を作ってやらなきゃならない道理がどこにあるってんだ?


 気付いた瞬間にはジョーカーを廊下の壁に叩き付けるようにして胸倉を掴んでいた。相手の背中を壁に押し付けて顔を近付ける。目前の黒い瞳は揺るがない。まるで、俺が激昂するのを予期していたみたいだ。ジョーカーならそうだろう。だが、ならば、何故そこまでして――




「ワードを庇うのか?」


「……そうじゃない。ただ、惜しいと思って……」


 口調が淀む。だいたい、理屈が通らない。ワードを逃がして出版社に行かせる、それで俺達に何のメリットがあるんだ? やはりこいつは小さな嘘を吐いている。ワードを生かしておきたいというのは本心だろうが、理由は違う。




「ああ、わかったよ。どうせ情が移ったんだろ? あいつの死体をバラせないのか?」


 俺は核心を突いた。ジョーカーが途端に黙り込む。毎日話を聞いて、それなりの生活を共にした人間はジョーカーにとってはもう単なる人間ではなくワードという固有名詞を持つ人間なのだ。


 だが、そんな理由で殺さないわけにはいかない。現実的には俺達は顔を見られているし、心情的には殺したくて堪らない。早くワードの死に顔が見たくて、脳味噌が悲鳴をあげていた。俺はジョーカーから離れて言い捨てた。




「お前が何と言おうと俺はあいつを殺る。それは変わらないし変えられねえ。死体を処理するのが嫌ならそこで座っとけよ。俺が自分でやる」


 腹立ちに任せて立ちすくむジョーカーの身体の横を蹴り上げた。安アパートの壁に穴が空いたが気にしないで背中を向け、自分の部屋をノックする。


 一回。


 二回。


 三回目で、次は蹴りを入れようかと考えた瞬間、中から寝ぼけた声が聞こえた。




「どうしたんだい?」


 同時にドアが開く。ワードの赤毛は寝癖がついてあちこちに跳ねている。つい今し方起きた、そんな顔だ。


 俺は拳銃を持ち上げてワードの眉間に添えた。相手は一時、それが何なのか理解できなかったようだが、状況を把握した目が危険信号に左右に動く。恐怖。恐怖。その仕草に、脳髄がじわりと快感を覚えた。




「千夜一夜は終わりだ、ワード。楽しかったか?」


「たの……楽しかった、ああ、ジョーカー! 助けてく」


 言い終わらない内に引き金を引いた。サイレンサーの僅かな音と共にワードの頭蓋が割れ、脳漿と血液がどくどくと流れ出す。痙攣しながらぐらりと傾く身体を難なく抱え、俺は浴室へと向かった。


 途中、横目で見たジョーカーは廊下に座り込んで耳を塞いでいた。子供の時、よくそうしていたみたいに。








 ワードの死体の解体には骨が折れた。疲れるばっかりで、ちっとも肉は切れないし、刃は脂肪と血液ですぐにぬるぬるになって使い物にならなくなるし、関節は力を入れてようやく外れるといった始末だ。


 疲れた。ワードの切り離した首を両手で眺めながらぼんやり考えるのは一つしかなかった。ただ、ただ、疲れた。もう一時間以上こんなことをしている。


 風呂場は血と肉の匂いでいっぱいで、吐き気がしてきた。ワードの首を抱えたまま後ろ向きに倒れかけた俺を支えたのは、浴室のドアではなく、ジョーカーだった。




「酷い有り様だな」


「てめえがやらねえからだろ」


 毒づきながらジョーカーの様子を見る。すっかりいつもの素振りに戻っていた。演技している風でもない。俺は、抱えていたワードの首をジョーカーに渡した。




「俺にはもう限界。無理」


 ジョーカーはしげしげとワードの首を見つめ、長い溜め息を吐いた。


「後片付けは俺の仕事だからな。お前は出てろ」


「さっすがジョーカー様。頼りになる」


 俺が出て行くと同時に、ジョーカーはいつも使っている解体道具を洗面台の下から取り出した。換気扇を回して澱んだ空気を逃がす。なるほど、そうすればよかったのか。


 だが俺は解体の勉強なんかする必要はない。俺は殺し専門、今日みたいな――ワードの、恐怖に満ちた眼球を間近で見るための技術しか必要ない。




 ジョーカーがいる限りは。


 ――いなくなったら? 馬鹿げた考えを振り払った。あいつはいなくならない。大丈夫だ。言い聞かせながら、しばらく振りの自室に戻る。


 血にまみれた服を着替えている内に、テーブルの上に置かれたノートに気付いた。きっとワードが遺したものだろう。




 何気なく手に取る。ページを開くと、最初に目に飛び込んできたのは『13』という数字だった。続いて『キング』や『ジョーカー』などの人物名。これは間違いなく俺達のことだろう。内容を素早く目で追う。




 何のことはない、ただの日記だった。今日はどんな話をした、ジョーカーから感想をもらった、キングは寝ていた……ただの日記だ。何の変哲もない、日記。


 だがここにはワードの生きていた証が、これ以上ないぐらいにまざまざと綴られている。ワードの赤毛、馬鹿そうな笑い顔、向こう見ずな性格。




 ――これをジョーカーに見せたら、どういう反応をするだろうか? 興味が無いではなかった。だが、恐怖感の方が強かった。恐怖感。ジョーカーが、自分の仕事に嫌気が差して俺の元を去るのではないかという恐怖感。




 俺は迷わなかった。ジョーカーが浴室にいる間に、ノートをゴミ箱に千切って棄てた。


 これで、ワードの存在は完全になくなった。


 一冊の小説と、無数の未完の話という名の結晶以外は。














end


(The fruit of their Love/081010~090126)


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