耳を疑った。が、それは30%の確率で降る雨のようなものだった。突然頭に落ちてきた雷ではなく、予想の範囲内――まさか、よもや、というギリギリに位置していたが――である。


 本、特にミステリー小説馬鹿といっても過言ではないジョーカーならば、興味を示してもおかしくない。しかし、一発殴ってやりたい気分になった。のこのこと自分を尾行してきた男の小説なんかを読んでやったら糞野郎としては願ったり叶ったりじゃないか。




 胸倉を掴んでそう言ってやる代わりに、俺は乱暴に立ち上がってキッチンに向かった。背中にジョーカーの視線を感じるが無視していると、テーブルの上から本を手に取ったのであろう音が聞こえてきた。


 冷蔵庫を開け、ひんやりとした冷気を顔に浴びながら携帯を開く。メール画面。宛名はジョーカー、本文は簡潔に――『どういうつもりだ?』――送信した。




 扉側の棚から缶ビールを取り出したものの、あまり飲みたい気分ではなかった。とりあえずプルタブを開けて、一口飲んだ時に携帯が鳴った。


 ジョーカーからの返信。『読みたいから読むんだが、何が問題だ?』


 携帯を逆にへし折りたくなるのを根気でこらえた。何が問題もくそもない、かと言って、明確に此処が問題だと突き付ける事実が無いのが悔しい。


 自問自答してみる。俺がワードを今すぐにでも殺したいというのに、ジョーカーはそうさせないだろう。問題ははっきりした、が、余計なことが頭をよぎる。


 床に転がるガキの死体。俺が、ジョーカーに殺させたやつだ。忘れっぽい俺が覚えているぐらいなのだから、ジョーカーはしっかり覚えているだろう。


 あの時の仕返しか? 携帯を握ったまま、そう訊きたい気持ちを再び堪える。答えが肯定でも否定でも状況は変わらない。ジョーカーの意志を無視して、ワードを不意打ちに殺す気分ではない。


 ビールを喉に流し込んだ。ひりつく感触で殺意をほんの少しだけ誤魔化せる、そんな願いを無意識に込める。例えそれが無駄なことでも、願いとは過半数がそんなもんだ。




 缶を持ってリビングに戻る。ジョーカーは忌まわしい小説を開いて読みふけっており、忌まわしい小説を生み出した忌まわしい男はその姿を食い入るように見つめていた。


 俺はジョーカーの隣に座った。ちらりと交わした視線で意図は伝わったはずだ。――好きにしろ。だが、読み終わった後は俺のやりたいようにやらせてもらう。


 結局、飲みたくもない酒を一気に飲み干してしまった。






 一時間足らずで拷問のような時間は終わった。ジョーカーが読み終えた本を閉じ、ひとつ溜め息を吐く。俺は何だか嫌な予感がして、今日三本目のビールを空けた。


「どうだった?」


 ワードが膝を乗り出してジョーカーに訊く。その仕草にまた苛立ちが湧いてくる。肯定しか求めていない口調なのが、ありありと感じられたからだ。自分の作品に自信を持つのが良いのか悪いのか、編集者でもない俺には判断がつかないがジョーカーにそれを要求するということが腹立たしい。




「……少々文章に稚拙な部分はあったが、大筋は良く出来ていると思う。トリックが地味過ぎるのが難点だな」


「評論家にも言われたよ、それは。少ない数だけどね。僕が訊きたいのはそうじゃなくて、読者として、面白かったかどうかなんだ」


 ジョーカーは煙草に火を点けた。ちらりと横目で俺を見やる視線が神経に障る。急に、腫れ物みたいに扱われている自分が途方もない馬鹿のように思えて犬に喰われたくなった。俺は武器を持っている。俺はそれを使う手段に長けている。だから、それが何だって言うんだ。今ここにソファに座ったまま動けないでいる。原因の一端がジョーカーにあるのは明らかだった。贖罪? まさか。頭に浮かんだ一連の思考を振り払う。


 今すべきことをやれ。何も考えなくていい。




「――面白かったよ」


「どのぐらいだ?」


 ジョーカーの言葉をまるで聞いていないかのごとく、ワードは続けざまに尋ねる。その時初めて、俺はワードに対して同情めいた感覚を覚えた。こいつは本当に、自分が生み出した作品に対するリアクションに飢えているのだろう。長く砂漠で旅をしていた放浪者が、ようやく見つけたオアシスに飛び込むように貪欲に感想を欲している。だが、我が相棒であるオアシスは困惑に眉根を寄せた。




「どのぐらい? そんなことはわからない」


「今まで読んだ小説で一番か? 二番か?」


 仏頂面をしていたジョーカーが、ここへきて初めて笑った。あからさまな苦笑である。


「どちらでもない。ただ、読んだあとに忘れないぐらいには面白かった。俺はつまらない話は忘れるようにしている」


「そう……そうか」


 ワードは乗り出していた体を、ゆっくりと椅子に沈めた。何事かを思案する風に、口元に手を当てている。




「キング、君は読んでくれないのか?」


「パス。俺はミステリは読まない主義なんでね」


 応えると再びワードは自分の世界に籠もった。さて、ジョーカーが本を読み終えたことでもあるし、俺はこれ以上アルコールを摂取するつもりもない。そろそろ潮時だ。


 ジョーカーに目配せをして、ワードの命を絶とうとした時、被害者になるはずの男が口を開いた。




「さっきも言ったように、僕にはまだまだアイデアがある。それを聞いてくれないか?」


「何故俺達に話すんだ?」


 反射的に疑問で返す。全くもって意味がわからなかった。ワードは真顔になり、そして初めて見せる皮肉な笑みを顔に浮かべた。


「僕を殺そうとしているからだよ。キング、君が」








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