第9話 約束
飲み会から2日が経つ。
あれからお隣さんはと言えば、俺に対して徹底的なノーリアクションを貫いた。
夜のベランダには顔を出さないし、メッセージや電話にだってうんともすんとも言わない。
どうやら俺は、幼馴染のお姫様のご機嫌を致命的に損なってしまったらしい。
しかし、こうなってしまったものは仕方がない。
俺の行動は決まっている。
せっかくのお隣さんなのだから、突貫あるのみ。当たって砕けろだ。
準備を済ませた朝、俺は203号室へ向かった。
インターホンを押す。
当然のように出てこない。
こりゃ俺だとバレているな。
インターホンを押す。押す。押す。押す。押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す。
「——いい加減にして!!!!」
「おはよう祈璃さん」
お隣さんは美しい黒髪を振り乱しながら、激昂して姿を現した。
およそ3日ぶりの対面だが、元気そうで何より。
「……一体何の用——って、スーツ?」
目を丸くして、俺の姿を上から下まで見やる。
「今日、入学式なので」
5日間のオリエンテーションが終わり、いよいよ入学式が行われる。
服装は原則自由となっているが、せっかくなので初めてのスーツを着てみた。
「祈璃さんにぜひ見てもらいたくて」
「なんで私なのよ」
「親とか呼んでないですし」
「……私はあなたの親代わりじゃないわよ」
「実質そんなもんです」
「違う」
年上の幼馴染なんて第2、第3の親みたいなものだと思う。
「どうです? 似合ってます?」
「……ちっ」
背筋をピンと伸ばし胸を張って見せると祈璃さんはあからさまに呆れたようすで舌打ちした後、ため息まで吐いた。
「ちょっと屈んで」
「え?」
「いいから」
「は、はい」
力強い眼力に負けて、俺は腰を曲げる。するとネクタイをぐいと引っ張られた。
「ネクタイが曲がってるどころか、結び方からめちゃくちゃよ。まったく……」
ネクタイを一度解いて、綺麗に結び直してくれる。キュッと首が絞められた。少し苦しいのは、おそらく愛情の表れだろう。
「……ママ?」
「は?」
「ごめんなさい」
本当は新婚みたいだなと思った。というのは黙っておく。
「ネクタイ、ありがとうございます。危うく入学式で恥をかくところでした」
「……あとでちゃんと結び方を勉強しておきなさい」
「でも入学式が終わったらもう当分スーツ着る機会なんてないですよ?」
「つべこべ言わない。嗜みよ」
「……はーい」
今度また、祈璃さんから直々に教わるとしよう。
「で、似合ってます?」
「スーツに着られてる」
そう言いながらも祈璃さんは改めて俺を観察し、やれやれと瞳を伏せた。
「……でもまぁ、いい方なんじゃない?」
「よっしゃ」
「何が嬉しいのよ」
「お洒落な祈璃さんの太鼓判ですからね」
「私はべつにお洒落じゃないし、太鼓判押したつもりもない。よくて及第点」
採点が厳しいであろう祈璃さんから、初めてのスーツで及第点なら十分すぎる。
ちょっと顔がニヤけてしまいそうだ。
「撮影会といきましょうか。カメラマンお願いします」
ウキウキでスマホを手渡す。
「は?」
「晴れの日の写真を家族に送りたいので、お願いします」
「……そういうことなら、仕方ないわね」
雑誌モデル風にポージングして、写真を何枚か撮ってもらった。
「祈璃さんにも送りますね」
「いらないわよ」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。大学生活が始まって忙しくなれば、ここ2.3日みたいに会えない日が続くこともあるでしょうし」
「……………………」
「そういう時はこの写真を見て俺のことを思い出してください」
「…………気持ち悪い」
「そんなこと言って見るくせに」
「見ない」
問答無用で送りつけた。
さすがに消去されたりはしないと思うが……心配だから祈っておこう。
「……もういい? あなたに付き合っていると疲れるわ」
「すみません、あともう一つだけ」
部屋へ引きこもろうとする祈璃さんを引き止める。
「今夜、ちょっとお時間いただけますか?」
「イヤ」
「もう少し考える素振りとか見せません?」
「…………イヤ」
「マジで素振りだけなんだよなぁ」
ここまでの会話で少しは機嫌を直してくれたかと思ったのだが、まだまだその心の氷は分厚い。
まるでイヤイヤ期、とか言ったら殺されそう。
「俺の入学祝いと、誕生日祝いです」
「どうして私があなたの入学と誕生日を祝うのよ」
冷たくツンと顔を背けられる。
その横顔から読み取れる表情は、複雑そのものだ。
何か言いたいことがありそうで、でも決して言わない。彼女は話してくれない。それは知っているから、俺が話す。昔からずっとそう。そうやって少しずつでも心を通わせる。それを繰り返してきた。
「約束だから」
「…………は?」
「20歳になったので」
「…………っ」
「初めてのお酒、一緒に飲もう」
忘れるはずがない、幼い頃の約束。
実際は俺がむりやり指切りさせただけなんだけど……。
それを果たすために、先日の新歓は未成年を装わせてもらった。
「……なんで、もっと早く言わないの」
「それについては本当にごめんなさい」
お隣さんだからすぐに逢えると甘えていた俺のミスだ。
会いたい人にすぐ会えるというのはとてもとても幸運なことなのに。
俺はそれを誰よりも知っていたはずなのに。
「バカ。本当にバカ」
「面目次第もございません」
言い訳のしようもなく、平謝りする。
「…………覚えてたのね」
「…………俺は、祈璃さんが覚えていてくれたことの方が意外です」
「うっさい」
叶うはずがなかった約束を今夜、果たそう。
「……いってらっしゃい」
氷はもう溶けていた。
「いってきます」
入学式——晴れの日の空は、雲ひとつなく澄み渡っている。
「——で、来ねえじゃねぇか!?」
入学式が終わって帰宅してから、主役自ら率先してパーティの準備をした。
とっくに準備は完了しているわけなのだが、いくら待てどもお隣さんが顔を出してくれない。
気づけば時刻はすでに夜の21時だった……。
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