第25話 伝えたい言葉
「なんだ……?」
気になって玄関の方へと行ってみる。
「祈璃ちゃーん。お母さんよー。開ーけーてー」
今度はハッキリと聞こえた。
俺は慌てて玄関の扉を開けて顔を出し、隣室の前を見やる。
「あら」
203号室のインターホンを連打していた女性がこちらへ振り返る。
短めに切り揃えられた黒髪が素敵な美人だ。
身体にほどよくフィットしたブラウスにパンツ、そしてパンプスは上品ながらスタイリッシュで、働く女性といった感じ。
「キミ、もしかして蒼ちゃん……!?」
忘れるはずもない。
――
祈璃さんの母親だった。
それは異様な空間だった。
俺の部屋に、ワイシャツ一枚の艶かしき幼馴染と、そのお母様がいる。
気まずいなんてものじゃないんだが……。
「事情はわかりました」
ひとまず祈璃さんとの再会から現在の状況についての説明を終える。
「……蒼ちゃん」
「は、はい」
緊張の糸が張りつめていた。
俺は思わず姿勢を正す。
「も〜〜、なーんて立派に育っちゃったの〜〜!? 汐璃さんびっくりしちゃったわよもぉ〜〜!!」
「わぷっ!?」
思いきり抱擁される。豊満な胸に顔が埋まった。
「というか何よ何よ生き別れた2人がお隣同士の部屋で!? 同じ大学で!? 再会!? どんなドラマ!? どんなミラクル!? もぉほんっと最高!! ねぇ最高すぎじゃない!?」
「ちょ、ま、やめ……」
何でもいいから落ち着いてほしい。
息ができない。
「それでそれで!? 2人はお付き合いしているの!? 彼シャツしてるんだから当然そうよね!? もうあーんなこともこーんなことも体験しちゃった!? アツアツ!? きゃ〜、甘酸っぱ〜い!」
「……そんなわけないでしょ」
気づくと、抱擁の隙間から見上げた先に祈璃さんが仁王立ちしていた。
ちょ、それもそれで待って。そのアングルは色々とまずいですって。あんた今、下履いてないんだから。
「あら?」
汐璃さんはきょとんと首をかしげる。
「彼とは何もないから」
「彼? 彼だって。きゃ。もぉ、祈璃ちゃんたら〜」
あ。
その時、祈璃さんの堪忍袋の緒が切れる音がした。
「離れて」
「い、祈璃ちゃん?」
「は・な・れ・て」
「……あら〜?」
娘の怒りに触れたことをなんとなく察した母は、静々と俺から距離を取った。
「なーんだ、まだ付き合ってないのね。残念だわ〜」
誤解を解くと、汐璃さんはたははと笑う。
「再会して1ヶ月ですよ。さすがに手が早すぎじゃないですかそれ」
「え? そう? 私だったら再会した瞬間、キスしちゃうと思うけど?」
「……だ、だいぶ国際的ですね」
俺だってパンツは見たけど。
「そうなの?」
聞くところによると汐璃さんは祈璃さんが日本に帰ってからも夫婦揃って海外で仕事をしているらしい。
本当は祈璃さんと一緒暮らそうと思っていたそうだが、それは海外での仕事を放棄することを意味したため、祈璃さんが拒否したようだ。
今回はゴールデンウィークの休暇を利用して帰ってきている。
もっとも、風邪のせいで祈璃さんは母の訪問のことをすっかり忘れていて、今に至るというわけだが。
「ふふっ」
キチっとした雰囲気とは裏腹に、楽しそうに微笑む汐璃さん。
昔から気品の中に自由奔放な快活さを併せ持つ人だったが、海外生活が長くなってより開放的になっているように思う。
例えるなら容姿はもっと大人っぽくなった祈璃さんで、中身は有村さんって感じだ。
「そ、そんなことより、もう少し祈璃さんの心配をしてあげたらどうですか? 昼前まではまだ熱もあったんですよ?」
「それについては問題ナッシング」
汐璃さんはようやく祈璃さんに顔を向ける。
「顔を見ればわかるわ。祈璃ちゃん、今まで見たことがないくらい元気だもの」
「え……?」
たしかに熱が下がって顔色は良くなったが、そこまで言うほど……?
「ね、祈璃ちゃん」
「……………………」
祈璃さんは返事こそしないものの、否定もしなかった。
母娘にしかわからないことがあるらしい。
「で〜も〜、実はお母さん、怒っています。ぷんぷんです。祈璃ちゃんたら、まだ素直になれないの? せっかく蒼ちゃんと再会できたのに、あなたは何をしているの?」
「え、……お、お母さん!? 彼の前でいきなり何言って——」
「——なーんて、うっそ〜」
汐璃さんはふんわりと母の微笑みで、祈璃さんを抱きしめる。
「ゆっくりでいいんだよ。急がなくていいんだよ。今の祈璃ちゃんには、た〜〜っくさんの時間があるから。それは、あなたの愛と勇気が勝ち取った、かけがえのない人生だから」
俺が割り込むことの許されない、母娘の会話。
祈璃さんは為すがまま、母を受け入れていた。
「でもね、少しずつ、伝えていくんだよ。そうやって、今を生きるの。お母さんとの約束」
「…………うん」
ただ、一度だけ、そう言って頷いた。
その時の祈璃さんはちょっとだけ、幼く見えた。
「それじゃあ私は帰るね〜」
1時間そこそこの雑談を終えると、汐璃さんはサッパリした態度で帰り支度を始める。
「お母さん、もう?」
「うん、祈璃ちゃんのお顔も見れたし」
それからにやりと意地悪く唇の端をつりあげる。
「あんまり彼との時間を邪魔しちゃ悪いし?」
「〜〜っ、うっさい。もう帰って。さっさと帰って」
「はいは〜い」
祈璃さんに背中を押されてむりやり玄関を出ていく。その寸前、俺の方へと視線を流した。
「蒼ちゃんも、またね」
その意味深なほほ笑みの理由を俺は後日、知ることになる。
それからすぐ、悲しいことに祈璃さんはワイシャツから昨日の洋服へと着替えてしまった。
「帰る」
「えー、もうちょっといてもいいんですよ? どうせ明日からまた休みですし」
「もう熱は下がったし、ここにいる理由はないでしょ」
「まぁ、そうですけど……」
病み上がりであることに変わりはない。あまり強引なことは言えないか。
ゴールデンウィーク中はしっかり休んで体力を回復させてほしい。
玄関まで祈璃さんを見送る。
ふわりと、手のひらが頭の上に降りてきた。
「……なんですか?」
「好きでしょ、これ」
またしても頭を撫でられる。
「めっちゃ好き」
「じゃあジッとしてて」
「うん」
撫でてもらいやすいようにちょっと腰を屈めた。
無言のワシャワシャは気持ち荒っぽく、しかし温かさが染み渡るのを感じた。
「…………看病、ありがと。助かったわ」
「え」
「…………じゃあね」
祈璃さんは小さく手を振って、そそくさと帰ってしまう。涼しげな態度とは裏腹に、その頬には健康的な朱が差していた。
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