第24話 生きること

 朝方。

 まだ眠っている祈璃さんの額に手を当ててみる。少し熱い……だろうか。


「んん……」


 身じろぎした祈璃さんが目を開ける。


「ごめん、起こした?」

「……いい。もう朝でしょ?」


 そう言って身体を起こした。

 風邪で1日寝ていたのに、体内時計はバッチリなようだ。


「熱測る?」

「ん」


 体温計を受け取ると、俺の視線に気づかず肌をチラつかせる。少し寝ぼけているらしい。


「……37度」

「もうちょいって感じですね。もう1日休みましょう」

「……そうする」


 すでに抵抗は諦めているのか、俺の意見に同意して頷く。


「朝ごはん作りますね」

「何を作るの?」

「お粥です」

「また?」

「味は変えますよ。シェフはレパートリーが少ないのでそれでご勘弁を」

「美味しかったら許してあげる」

「愛情たっぷりなのでそこら辺は心配ないかと」

「味で勝負して」


 そんなこと言われましても、次はシンプルな卵粥だ。風邪ひきさんのため薄味にする予定で調味料はたかが知れている。


 考えた結果、青ネギと刻み海苔を散らして見た目に気を遣ってみた。


「まぁ、合格」


 わりと好評だった。


 その後、薬を飲んでからもう一度熱を測ってもらうと36度台になっていた。


「今のうちにお風呂入りますか?」


 熱が引いたということは、かなり汗をかいたはずだ。


「なら部屋に帰る」

「まぁまぁまぁまぁ」

「……なによ」


 俺は笑顔で祈璃さんに迫る。


「……ちっ」


 逃してなるものか。

 看病に対するご褒美がもう少し欲しい——もとい、せっかくならもう少し一緒にいたい。


 俺の要求を理解している祈璃さんは忌々しげにこちらを睨み上げた。


「ちなみに、次はこれでお願いします」


 着替えを渡す。


「…………洗濯機、使うから」

「それはもちろんどうぞ」


 浴槽の細部まで綺麗に掃除してから、湯を張った。


 祈璃さんはしきりにこちらを睨みながらも、汗でベタついた身体を一刻も早く洗いたかったようで大人しく浴室へ向かった。


 物音の消えた部屋の中、やがて浴室からシャワーの音が聞こえてくる。

 おそらく、全男子にとって夢のような状況だろう。覗くような愚行は犯さないが、音だけはしっかりと堪能させてもらった。


 祈璃さんは体力を考慮して短めの入浴を終えて、浴室から戻ってきた。


「お待たせ」

「……え?」

「……な、なんでもない」


 なんだ今の会話。まるでこれからピーするカップルみたいな、扇状的なワンシーンだった。


 祈璃さんにとってもふいに口をついてしまった言葉のようで、モジッと膝を擦った。艶かしい濡れ髪がさらりと揺れる。


「あんまり見ないでよ」

「見るために着てもらったんですが」

「ちっ」


 新たに渡した着替えは、俺のワイシャツ。

 抜かりなく洗濯乾燥を済ませた下着の上から、それを着ている。

 薄く白い生地は、パステルグリーンの下着を仄かに透けさせて幸福を提供してくれていた。

 

 ジャージはホッコリとした良さが存在したが、対照的にこちらは刺激的な背徳感を覚える。サイコーか。

 

「……昔は可愛かったのに、どうしてこんなにエッチに育っちゃったのかしら」


 小声で愚痴ってため息を吐いた祈璃さんは我が物顔でベッドに座ると布団を膝掛けにして肌色部分をまるっと隠してしまった。


「ひと眠りしますか?」

「もう寝飽きたわ。起きてる」

「そうですか」


 風呂上がりだからか血色もいいし、元気が出てきたようで何よりだ。


「あなたの部屋って、物が少ないわね」


 祈璃さんは初めて気づいた様子で部屋を見渡した。


「まぁほとんど実家に置いてきましたからね。元々買い込む方じゃないってのもありますけど。たぶんこれから増えていきますよ」


 最近は土鍋然り、色んなものに興味が出ている。実際に物は多くなってきていた。


 祈璃さんの部屋を見ると、自分好みのレイアウトを組むのもいいと思える。

 まぁ、それには少しお金が必要になりそうだからバイトをしないとだろうけれど。


「バッグ取って」

「はいどうぞ」


 昨日のままのバッグの中をゴソゴソと漁る。出てきたのはゴッツイ本だった。辞書くらいの厚みがある。

 祈璃さんは布団を掛けたまま壁に寄りかかって、本を読み始める。


「何の本?」

「死生学」


 両手で支えながら表紙を見せてくれた。


「死生学……?」


 死。

 

 祈璃さんの背後でおどろおどろしい死神が大鎌を構えているかのような錯覚に陥る。


 急速に心臓が騒めいて、ジクジクと痛んだ。


「祈璃さん、それって……!」

 

 この人は、まだそんなことを——


「違うわよ」

「へ……?」

「たぶん勘違いしてる」


 勘違い……?

 死生学という字面はひたすらに不安感しか煽らない。

 

「死生学って言うのはね——」


 祈璃さんは初めて会った時みたいな柔らかな微笑みを浮かべた。


「べつに死に目を向けるばかりの学問ではないのよ。死と向き合うことで、生きるとは何かということを考える。もっと言ってしまえば、私たちがより良く生きるための学問が、死生学なの」


「より良く、生きる……?」


「ええ。だから、そんな顔しないで」


 優しく、俺の頭をなでる。


「あの頃とは違うわ。何もかも」


「祈璃さん……」


 人間は生まれた瞬間から死ぬことが決まっているイキモノだ。

 だけど、死ぬってどういうことなのだろう。死んだ後には何が残るのだろう。どこへ行くのだろう。苦しいのだろうか。悲しいのだろうか。分からないから恐怖し、目を逸らす。


 いや、目を逸らすことができるのは俺が健康で、死がずっと先であるからで。

 祈璃さんはずっと死というものを身近に抱えながら人生を歩んできた。


 ——大嫌い。


 だなんて、人を突き放しやがって。


 それが今は、より良く生きるために死を見つめているという。

 それはとても前向きで、未来を見据える生き方だ。


「……なによ、その手」


 俺はポンと祈璃さんの頭に手を置く。


 傍から見たら、お互いの頭を撫で合っている奇妙な光景だろう。


「べつに、なんでもありませんよ」


 ポンポン。


「ポンポンするな。ウザい」

「はは」

「笑顔も……ウザいわ」

 

 俺はずっと長い間、心のどこかで逃げ続けていたというのに……。


「ははは」

「だから、やめなさいってば」

「祈璃さんが撫でるのやめたら、やめますよ」

「む……そっちがやめなさい」

「やめなーい」


 嬉しくて、たまらなかった。



 2人でゆったりと過ごしているとあっという間に夕方になる。

 大学で授業を受けていたとしても、そろそろ帰宅するであろう時間。


「——ちゃーん。いないのー?」


 トイレから出ると、洗浄音にまぎれて外の方からどこか聞き覚えのある声がした。

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