第31話 ハグ

 露天風呂は俺が先に上がらせてもらった。先に着替えて、部屋で祈璃さんを待つ。


 部屋には、2つ並べた布団が敷かれていた。


 その内のひとつを陣取って腰を下ろし、館内パンフレットを眺める。


 しばらくして、祈璃さんが帰ってくる。


「おかえり祈璃さん——へ?」


 振り返ろうとした、その時だった。


 祈璃さんが目を瞑って両手を広げ、こちらにダイブしてきていた。


「おわっ!?」


 慌てて受け止める。


 図らずも、正面から抱き合ってしまった。


 柔らかな感触にドギマギする。


「い、祈璃さん……? どうしたの……?」

「……あなたが悪い。いきなりこっち、向くから」

「ええー……」


 背後から忍び寄って何するつもりだったんだろう。暗殺者みたいだ。


「なんなのぉ。なんなのよこれぇ……」


 俺が聞きたい。


「嫌なら離れればいいのでは?」


「…………………」


「祈璃さん?」


「…………てめぇ察しろやアホボケカス」


「わーお」


 ガチで怖い。


「もうちょっと……だけ……」


 ギュッと、抱擁が強まる。


 祈璃さんの心臓の鼓動が聞こえる。とても速くて、力強い音だ。


 これって、間違いなく俺の心音も彼女に届いている。

 こんな状況では、どんな小細工も意味を成さない。


 すべて、胸の奥から伝わっていく。


 この瞬間、俺たちはたしかに通じ合っていた。会話がなくても分かり合えているかのような、不思議な感覚に包まれていた。


「〜〜っ、も、もう無理!!」


 まぁ、本当にたった数十秒の間の話だったけれど。


 祈璃さんは全力で俺から距離をとる。


「なんでこんなことになってるの……!?」

「知りませんよ」

「私だってわかんない。わかんないの……」


 そう言って、困惑したようすで俯いてしまった。


「俺は嬉しかったですよ。祈璃さんと抱き合えて」


 今思えば再会してすぐ衝動のままに抱きしめたっておかしくなかった。

 ただ、それ以上に疑問が多くて脳の処理が追いつかなかったというだけだ。


「……ふん」


 アクシデントとは言え、本当に嬉しいひとときだった。


「……ねぇ、あっち、座ろ」


 数分の沈黙の後、彼女は窓際の広縁を指差してそう言った。


 向かい合わせの椅子にそれぞれ腰掛ける。


 窓からはあたりの夜景が一望できた。


「おー、けっこういい景色ですね」


「……これ、どうぞ」


 ふいに紙袋を渡される。


「え?」


「プレゼント」


 さすがに面食らって、祈璃さんの顔を2度3度盗み見る。その強張った表情からは緊張と照れ隠しみたいなものが窺えた。


 無言のまま、中身を確認する。


「……ドーナツ?」


 2つのドーナツが入っていた。袋から取り出す。


「と、まだ何か……」

「そ、それはダメ!」


 おおう。

 を取り出そうとしたら、グッと手を押さえ付けられた。


「それは、家に帰ってからにして」

「は、はい」


 よくわからないが、従うことにした。


「このドーナツ、もしかして手作りですか?」

「そう。初めてだから下手っぴだけど」

「いやいや、お店並に綺麗に出来てますけど」


 包装が違うから気づけるが、このドーナツだけだったら某有名店の新作だと思ってしまうことだろう。


「どうして、これを俺に?」

「お礼。看病してくれたでしょ」


 ああ、とようやく思い当たる。

 もしかしなくても、彼女にとってはこれこそがこの小旅行の目的だろうか。


「そんなのいいのに。温泉だけでも大満足ですよ」


 むしろ貰いすぎである。抱擁も含めて。


「それは、お礼とはべつだから」

「べつ?」

「ど、どうでもいいでしょ」


 逃げるように視線を外されてしまった。


「何はともあれ、ありがとうございます」


「……どういたしまして」


「食べていいですか? てか一緒に食べましょう。そのための2つですよね」


「私はいい。……太る」


「それは俺も同じなんですが……」


「ちっ」


「祈璃さんはもう少し太くなってもいいくらいですよ」


「それ言われて喜ぶ女の子いないから」


 至って純粋な本心なんだけどなぁ。


「で、食べますか?」

「……食べる」


 渋々と受け取ってくれた。


 ドーナツを包装を剥いた祈璃さんはそこで手を止めて、こちらを気にしている様子。

 

「いただきます」


 先にドーナツをいただく。

 優しい甘さが口内に広がる。しっとりとした生地が口溶け滑らかで、スッと飲み込めた。


「美味い!」

「そ」


 祈璃さんもパクリと一口。モグモグとしっかり咀嚼して飲み込んだ。特にリアクションはない。彼女的には可もなく不可もなくな出来らしい。


 俺は本当に好みの味で(特に甘すぎないのがいい)、あっという間に食べ終わった。


「あげる」


 一口しか食べていないドーナツを押し付けられる。


「いいんですか?」

「もとからあなたのドーナツよ」

「俺を太らせる気満々ですねぇ」

「太ったらまた一緒に運動してあげる」

「もっともっと食べさせてください」

「……太りたいおバカの面倒はみない」


 祈璃さんの料理で太るなら本望な上に一緒に運動する特典付き。太るのも悪くない。

 まぁ、実際は祈璃さんの料理なんてそうそういただけないんだけど。


 結局、ほとんどのドーナツが俺の胃におさまった。


「祈璃さん祈璃さん」

「なあに?」

「このホテル、バーがあるらしいですよ。これから行きません?」

「今、デザート食べたでしょう」

「そうだね。言ってみただけ」


 素敵なデザートがなければ行くのもありかと思ってパンフレットを見ていたけれど、今日のところはお役御免の気配だ。


「じゃ、次回のお楽しみですね」

「次回? 次があるの?」

「ないんですか?」

「……ううん、また来ましょう」

「その時は俺が運転しますよ」

「それは本当にお願い。お願いだから免許取って。でないといつか心中するわ」

「ははっ」


 やっぱり車には妙にネガティブな祈璃さんだ。しばらく運転すれば慣れるんだろうけど、やっぱりここは男として俺が乗せてあげる側になりたいかな。


 うちの幼馴染は運転する姿も絵になる格好いい美人だけど、俺にとっては助手席に乗せてあげた可愛い人であるらしい。


「ふぁ……」


 祈璃さんは小さな欠伸を噛み殺す。


「寝ましょっか」

「……そうね」


 明日死ぬわけにはいかないから、しっかり睡眠をとってもらおう。


 寝る支度を済ませて、2つ並んだベッドに入り込む。


「おやすみなさい、祈璃さん」

「おやすみ、蒼斗ぉ……」


 ふにゃふにゃで可愛い。


 ネコのぬいぐるみを大切に抱きしめている、気持ち良さげな寝顔。

 そんな顔を見ていたら自然と気持ちが湧き上がってきて、俺は先日の出来事を思い出さずにはいられなかった——。



 ・


 ・


 ・



 祈璃さんの風邪が回復した翌日のことだ。


 まだ本調子じゃないくせにベランダで夜風を浴びようとしていた隣人を説き伏せて部屋の中へ帰ってもらった頃、その人はやって来た。

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