第32話 笑い話

「帰ったんじゃなかったんですか?」

「昨日はね〜」


 汐璃さんは愛想よく笑う。


 娘が隣室にいるにも関わらず改めて俺を訪ねるというのは、それなりの理由あってのことに違いない。とりあえず中へ招いた。


「祈璃ちゃん帰っちゃったね」

「あの後すぐでしたよ」

「あちゃ〜」


 まったくあの子は、とでも言いたげな困り顔だ。

 まぁ、最後のあの一言で俺は満足ですよ。

 

「グラスもらえる?」

「やっぱそれワインですか……」


 汐璃さんの手には裸のボトルが握られていた。


「うん、いいやつだよ〜。蒼ちゃんもう成人? 飲む?」


「今日はやめときます」


 この人のペースに乗せられたら色々と制御が効かなくなりそうだなと思って、丁重にお断りする。


 ワインを入れるようなお洒落グラスはないので、適当なコップを手渡した。

 

「ありがと〜」


 風情のカケラもないコップに赤ワインが注がれていく。汐璃さんはそれをくいっと一気に飲み干した。ワインってもっとチビチビ飲むものだと思っていたのでちょっと驚いた。


「ぷはー」

「汐璃さんって酒好きでしたっけ?」

「んー、昔は飲みたくて飲んでたわけじゃないんだけど、今は好きかな。幸せを噛み締めるために、美味しいお酒を楽しむの」

「そういうもんですか」

「そういうもんなの〜」


 高いワインを飲んでもよく分からないとか言っているうちは、理解できない話だろうか。

 

 汐璃さんは止まることなく2杯目を注いで、今度は少しずつ飲み始める。


「改めて、おっきくなったねぇ。見違えちゃった」

「もういいですってそれは」

「ふふっ。じゃあ、ご家族は元気?」

「ああ、それは、えと……」


 少し、言葉に詰まる。

 しかし別に隠しているわけでもない。


「母は死にました」


 心筋梗塞だった。

 その突然の別れが、俺の中で祈璃さんという存在の死へと結びつけられてしまった。


 自身の家族に起こったことを、簡単に説明する。


「そっか……そんなことが。……蒼ちゃん、大丈夫?」

「もう随分前のことですから」

「そう」


 生きていれば、人生色々ある。

 誰だってそうなのだから、あれこれ考えるよりは前を見た方がいい。今はポーズじゃなくて、ちゃんとそれができているはずだ。


「こっちに来たのは、その関係かな?」

「……いえ、そこら辺はなんとなく、ですかね。家族仲はいいですよ」


 むしろ良すぎて少し困っていたところもあるくらいだ。思わず苦笑いが漏れる。


 汐璃さんはそんな俺を見て、くすりと笑んだ。


「……もしかして、祈璃ちゃん探してた?」

「っ、そん……なことはありませんよ」


 まるで心臓が一突きにされたみたいに、ドキっと跳ねた。自然と目線が泳いでしまう。


「えーほんと? そうだって言ってくれた方が、汐璃さん的にはポイント高いぞ?」

「……ないですよ。てか俺、死んだと思ってましたし。祈璃さんのこと」

「……そっか。無理ないね」


 気づけば赤ワインのボトルが半分ほど減っていた。


「飲みすぎじゃないですか?」

「休暇中の社会人は無敵なのだよ」


 どうやら一本丸々飲み切るつもりのようだ。この後ちゃんと帰ってくれるのだろうか。心配になってきた。


「で、本題は何ですか?」

「ふぇ? 本題? 祈璃ちゃんの大事な人の話を聞きにきただけだよ?」

「……………………」

「あははっ、その顔なんか祈璃ちゃんに似てる〜」


 1人でケラケラと笑っている。やっぱりかなり酔ってないかこの人。


「まぁ、強いて言うなら、私も話したいことがあったんだよね〜」

「それを本題って言うんですよ」

「違う違う。あくまで本題は将来家族になる蒼ちゃんとの親交を深めるためで——」

「はいはい。それはもう十分ですから、酔い潰れる前に次を話してください」


 まったくこの人はどこまで本気なのだろうか。娘にも怒られたばかりだろうに。


 俺としては、悪い気はしないけれど。


「実はね、祈璃ちゃんの秘密を暴露したいなって思って」

「秘密?」

「そう、祈璃ちゃんが蒼ちゃんには絶対話さないであろう秘密」

「そんなのあるんですか?」

「あるよ〜。もう星の数くらいあるね」


 たしかにありそう。

 そもそも自分のことをあまり話してくれないのが祈璃さんだ。


「……聞きたい?」

「めちゃくちゃ聞きたいです」


 思わず食い気味になる。


「じゃあ、話しちゃおっかな〜」


 汐璃さんはチラチラと流し目を寄せながら、たっぷりと俺を焦らした。

 それからコップに残っているワインを飲み干して、ようやく口を開く。


「祈璃ちゃんね、キミに逢いに行ったんだよ」

「え……?」

「日本に帰ってきてから、いの一番にキミを訪ねたの」

「どういう意味、ですか……?」

「そのままの意味だよ」

「そのままって……」


 祈璃さんが俺に逢いにきていた?


 そんなはずない。

 だって俺は彼女に会っていない。

 

 再会したのは1ヶ月前。引っ越したあの日で間違いないはずだった。


「キミがね、女の子と2人で仲良さげに歩いてるのを見ちゃったんだって」

「へ?」

「それで、声をかけることも出来ずにそのまま帰ってきちゃったの」


 なんだそれ。

 余計に頭がぐちゃぐちゃになる。


「ほんと乙女だよね〜。まぁ、そういうところがとびきり可愛いんだけど」

「……それを俺に言って、どうしたいんですか」

「私はただ、祈璃ちゃんの可愛さを蒼ちゃんと共有したかっただけ〜」

「はぁ……?」


 これは、とんでもない爆弾だ。本気の暴露だ。


「んふふ〜、どうしたどうした〜? キュンした? しちゃったかな?」

「煽らないでくださいよ」

「ふふっ」

「ち、ちなみに言っておきますが、俺、彼女とかいないですからね」

「うんうん。わかってるよ。聞いてないけどね」

「うっ、い、一応ですよ。勘違いされないようにですねぇ……!」


 恥ずかしいやらなにやら、身体がムズムズして仕方がない。

 胸の奥底から湧き上がった原初的な感情の激流が俺を飲み込んでいく。


 ああ、もう。


 あの人は……!

 あの人は本当にもう……!!

 

 マッッジで、バカなんじゃないか!?


 どうして病気が治った後、俺に逢いに来てくれなかったのか?

 それは再会してすぐに俺の頭に浮かんだ、最大の疑問のひとつだった。

 当然だ。こっちはどれだけ心配したと思っているんだ。どれだけ……。


 だから俺は質問しようとしたのだ。神妙な顔して、視線を合わせて。


 それを彼女は「ごめんなさい」の一言で封殺した。


 その理由が、本当は逢いに行ったけど俺が女の子と歩いていたから声をかけることが出来ませんでした……って。


 面倒くさいの極みかあの人はッ!!

 どこまで素直じゃないんだ!?


 はぁ。もう、くそ、なんなんだよ……。


「……あ、今更ですけど、祈璃さんにバレたらマズくないですかこれ」

「その時は、一緒に祈璃ちゃんに怒られようね」

「……殺されなきゃいいですけどね」


 いや、これマジで一生墓まで持っていきたい案件なんじゃないか?


「大丈夫大丈夫。祈璃ちゃんって案外ちょろいから」

「実の母が言うことですか」


 俺は本気で戦々恐々だというのに、汐璃さんはずっとヘラヘラ笑っている。

 母は強しとはこのことか。違うか。


「大丈夫」


 ふいに汐璃さんは俺の手を包み込む。


「キミならいつか笑い話にしてくれるって、信じてる」


「……最終的には俺任せですか」


「うん。祈璃ちゃんのことは、キミに任せるよ〜」


「はぁ…………」


 クソデカいため息が漏れた。


 汐璃さんは10年ぶりに会った俺のことを、曇りのない綺麗な瞳で見つめている。

 

 俺がどんなふうに成長したかなんて、まったく知らないくせに、秘密の暴露までしてしまう。


 これで俺たちは共犯者というわけか。


 夜桜さんちからは一生逃れられないのだろうか。


「はぁ…………」


 もう一度、ため息を吐く。


「汐璃さん、やっぱり一杯もらっていいですか」

「お、飲んじゃう~? どうぞどうぞ~。ちょうど最後の一杯だよ」

「ありがとうございます」


 もらった赤ワインを一気に飲み干す。


 めっちゃ渋い。

 グレープジュースのイメージで飲んだけど全然違う。甘みが少ない。渋い。


 白ワインの方がまだ飲みやすかったな。そんなことを思うが、今はこれでいい。


「……人生には、波があるって言うじゃないですか」


 渋みを口内に残したまま、俺は静々と口を動かす。


「幸せな時があれば、不幸せな時もあって。それが延々と繰り返されていくのが人生だって」


「……そうだね。そういうものかもしれないね」


「だったら、生まれてから何十年も辛い思いばかりしていた人はどうなるんでしょうか」


 たとえば、貧困だったり。紛争の最中で生まれたり。望まれない出産だったり。重い病気を、患っていたり。


 人生には波があるっていうけれど、その波がずっと悪い方にばかり下ブレている人もいる。その逆もまた然りではあるけれど……。


「そういう人たちがもし、自らの危機を乗り越え、幸せを掴み取ったとして、その幸せは一生続くんでしょうか。過去に辛酸を舐めた分だけ、いや、それ以上の幸せを、この世界はもたらしてくれるんでしょうか」


「……………………」


「そうじゃないと思うんです。きっとその先の人生にも辛いことや理不尽なことはたくさんあって。時には死にたいと思ったり、あの時死んでいればみたいことを思うほど傷つくこともあって。あの頃不幸だった分まで幸せに、なんてそんなご都合的な帳尻合わせは行われない。ずっと幸せなだけの人生なんて、ありえないんです」


 せっかく病を乗り越えた彼女を、俺が悲しませてしまったように。

 知らなくても、見えなくても、そんなつもりはなくても、泣いている人はいる。


 それが、人生である。


「でも、そんなのあんまりだって俺は思います。辛いことがあった人には幸せになってほしいです。その未来には楽しいことだらけの人生が待っているんだと信じたいです。だってそうじゃなきゃ不公平だし、やりきれない。そんな人生は俺だったら絶対にイヤだ……!」


 たとえそれが青臭い衝動で、子供じみた夢だとしても。

 そんな人生を受け入れたくはない。


 だって、

 幸せになるために人は生まれる。

 そうであってほしい。そうじゃなきゃいけない。


「だから、俺、俺は…………、俺が——」


 覚悟を決めて、汐璃さんを見据える。


「祈璃さんの幸せになれたらって思います。この先の未来にもしもまだ辛いことがあったとしても、俺が絶対、何度でも、いつまでも、祈璃さんを笑わせてみせるから」

 

「……………………」


 しんと静まり返る室内。


 酒の勢いでなんとか言い切ったけれど、後から後から羞恥が湧き上がってきた。


 ああ、酒って悪い飲み物だ。

 こんなクサイことを幼馴染の母親の前で言えてしまうのだから。本当にサイアクだ!



「……えと、すみません、変なこと言って」


「蒼ちゃん」



 ふいに汐璃さんの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それは次から次へと湧き出てきて、綺麗な顔がボロボロに崩れていった。



「あ゛り゛がと゛ぉ…………」



 ダラシなく鼻水を垂らしながら、あまりにも情けない声で、幼馴染の母は俺に言う。



「祈璃ちゃんのこと、よろしくお願いしま゛ぁずぅ゛…………」



 俺はきっと、とんでもなく重くて大切なモノを受け取った。



 ・


 ・


 ・



 とまぁ、そんな話があったわけだが。


 話の中心である当の本人様にとっては、まったく預かり知らないところだ。

 そして俺が汐璃さんに語ったあの話は、祈璃さんにしてみれば余計なお世話と言いたくなるような、ひどく独善的な想いだろう。


「……なーんで俺に彼女がいたくらいで逃げ出しちゃいますねぇ。この弱虫さんは」


 けれど俺だって祈璃さんのおかげで色々と人生を狂わされているわけなので、お許し願いたい。


「んにゅ……」


 ほっぺをつつく。やっぱり最高の触り心地だ。一生触っていたい。


 でも、嫌そうにブスッとされてしまう。


「まったく……もっと笑ってくださいよ」


 これでも俺、頑張ってるつもりなんだけどなぁ。どうやらまだまだ力不足らしい。


「むぅ……んー、あお、とぉ……」


 何の夢を見ているのやら。人の名前を呼びながらそんなに眉をひそめないでくれ。


「まぁ、この顔も可愛いけど」


 一生見ていても飽きないであろうその寝顔を、寝落ちするまで存分に満喫させてもらった。

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