第30話 露天風呂
そしてついに——
「そ、そろそろですね」
夕食を終えて部屋で少し休むと、その時間はやってくる。
ほろ酔い気分はとっくに抜けていた。期待と興奮で胸が高鳴り続けている。
「……行く?」
控えめに誘ってくる浴衣姿の祈璃さんが、不思議とますます美しく見える。
「行きましょう!」
いざ、貸切露天風呂へ!
貸切露天風呂——それは大浴場とは別に作られた魅惑の空間。
その暖簾の先へ腕を絡め合ったイチャラブカップルが吸い込まれていくのを、夕方から夜にかけて何度も目にした。
俺もそんなリア充たちと同じように、今、暖簾をくぐった。
「先に入ってて」
小さな脱衣所で、祈璃さんはそっけなく言う。
「了解です」
祈璃さんの着替えシーンはもちろん見たいが、さすがに超えてはいけないモラルがあるかと思った。
「目、瞑ってるから。早くして」
俺の裸を見る気も毛頭ないらしい。
まぁ、見られる趣味はない。
もしもマジマジ見られたりしたら俺の方が根を上げたかもしれない。ここは助けられたと思って、いそいそと服を脱ぐ。
「じゃあ、先に待ってますね」
「……ええ」
ひとりで露天風呂へ出る。
「おお……!」
そこはまるで、大自然の中だった。
炎が揺らぐような淡いキャンドルライトに照らされて、彩りの春の草木が迎えてくれる。
その中央に、石積みの露天風呂があった。サイズは小さめだが、それがむしろこの空間の特別感を増している。
「はぁぁ……」
お湯に浸かると、思わず声が漏れてしまう。
少しぬるめで、いつまでも入っていたいと思えるような最適な温度。カップルはきっとこの温もりに包まれながら、会話に華を咲かせるのだろう。
岩場に背中を預けて、空を見上げる。
「すっげ」
満天の星空とは、このことだろう。
都会の空に慣れ始めてしまったこの瞳には、あまりにも眩しい。
「…………っ」
すっかり気が抜けて夜空を眺めていたら、脱衣所の扉がガラッと開くのが聞こえた。その刹那、脱力していた身体に緊張が走る。
「……お待たせ」
小さな声。草木の葉擦れとお湯の湧き出る音しか聞こえないこの空間では、心地よく耳に届いた。
「そっち、行くわね」
ゆっくりと近づいてくる、生の足音。
見てもいいのだろうか。
いや、いいんだよな? そうじゃなきゃまず、こんな状況にはなっていない。
この状況そのものが、祈璃さんによる控えめなオーケーサインだ。
俺を意を決して、彼女の方へ顔を向ける。
「なっ……!?」
「ど、どうかした……?」
その姿を見た瞬間、俺はもう涙が出てしまいそうだった。
……それくらい、悲しかった。
「祈璃さん、どうして……」
祈璃さんは、胸から太ももが隠れるくらいまでキッチリとタオルを巻いていた。
「……何か文句ある?」
「あります」
「……どうぞ」
「祈璃さんは知らないかもしれませんが、タオルを巻いたまま温泉に入るのは歴としたマナー違反です」
「それくらい知ってる。世間知らず扱いしないで」
ツンと言葉が返ってくる。
しかしそれは、希望のツン。
「そ、それはつまり、これから脱ぐということですね……!?」
そういうサービスに違いない。
さっきは恥ずかしがっていたようだけれど、目の前で裸体を晒してくれるんだ……!
「だから、あらかじめ許可は取ってある」
「へ……?」
「私たちは今日最後の予約客。この後お湯を張り替えるから、タオル巻いたままでもいいって」
「そ、そんなぁ……!?」
俺は湯船に浸かりながら崩れ落ち、沈みそうになる。なんとか両手で持ち堪えた。
「そんなに見たかったの……? 私の……裸、なんて……」
「めちゃくちゃ見たかったです」
「そう、なんだ……」
俺の落ち込みようを見てさすがに思うことがあったのか、祈璃さんは感情の読めない瞳をオロオロと彷徨わせる。
「ご、ごめんね。嫌な気分に、なった……?」
そして申し訳なさそうに俯いてしまう。
「祈璃さん……?」
戸惑いに満ちた、悲しい瞳。
ああ、バカか。俺は。
祈璃さんがここまでしてくれているのに、俺は何をしているんだ。
あの祈璃さんが俺をデートに誘ってくれて、あんなに余裕のない顔でドライブを敢行して、疲れ果てて、一緒に露天風呂なんていう暴挙まで受け入れてくれて……これ以上、何を望むって言うんだ。
祈璃さんの勇気をこんなにももらっている。それだけで充分すぎる。
祈璃さんの胸とかお尻とか、もちろん見てみたいけれど、それはきっと、今じゃないということだろう。
「全然。嫌な気分なわけないですよ」
「蒼斗……?」
「むしろ、すっげぇ嬉しいんです。だから早く、こっち来てください。一緒に入りましょう」
「…………うん」
ちゃぷっと水面を揺らして、祈璃さんが湯船に足を踏み入れた。
近づいてくる祈璃の姿を俺は改めて拝見させていただく。
密着するタオルから伝わる、魅惑のボディライン。綺麗な肌は純白のタオルと変わらないくらいに白くて透き通っている。肩はもちろん剥き出しで、それだけでもドキドキした。
そしてもっとも注目すべきは、丁寧に結い上げられた黒髪。普段は決して見られないうなじが覗いて、さらなる心拍数の増加を促した。
「祈璃さん、めちゃくちゃ色っぽい」
「なっ……ぁ、!?」
祈璃さんは一気にしゃがみこんで、肩までお湯の中へ隠れる。
「何、言ってるのよ……見せてないのに……」
「ごめん、思わず」
「もぉ、バカ」
そのままそろりそろりと歩いて、隣に座ってくれた。
「いいお湯ね」
やっと落ち着いた様子で彼女は、ホッと一息ついた。
お湯に浸かってしまえばもうほとんど見えないから、余裕が生まれるのだろう。
「祈璃さんとお風呂入るのって初めてですよね」
「当たり前でしょ。何言ってるの?」
「幼馴染ならけっこうあるじゃないですか。子どもの頃は一緒に入ってたりって」
「アニメの見すぎ」
「そうですかねぇ」
あの頃の祈璃さんなら、クソガキな俺をお風呂に入れてくれたと思う。
ただ、チャンスがなかっただけだ。
2人の平穏な学校生活は、あまりに期間が短すぎた。
「祈璃さん、空、見てくださいよ」
一足先に満喫させてもらった俺は、我が物顔で天を指さす。
「わぁ…………」
「すごいでしょ?」
「なんであなたが得意げなのよ」
「いいじゃん」
俺もまた、星空を眺めた。
「今だけは、俺たち2人だけの星空だよ」
「……ロマンチックなことを言うのね」
「実は祈璃さんが来るまで考えてた」
「ばーか」
そう言って、笑ってくれる。
その柔らかな微笑みを見ると、今の俺たちはこれでいいんだって、心から感じた。
「祈璃さんって、星座とかわかるの? 教えてよ」
「知らない」
「あれ、そうなんだ。いつも見てるから、てっきり」
「覚えたって、見えないんじゃ仕方ないでしょう」
「まぁ、たしかに」
病院から出てきても、あの都会の星空じゃなぁ。
「でも、今日みたいな時のために覚えてもいいかもね」
「ですね」
せっかく2人して天文学の授業をとってるわけだし。まぁ、あの授業は宇宙の創生から始まったから、星座の話とかなさそうだけど。
「ではでは、今日のところはこの俺が夜空の星々を解説させていただきましょう」
「……知らないんじゃないの?」
「まぁまぁ、いいから聞いてよ」
俺はまず、もっとも強く光輝く星を指さす。
「まず、あの星が祈璃さん。そんで隣のちまっとしたのが俺」
「なにそれ。逆でしょ。あなたの方が大きいわ」
「そんなことないよ」
続けて、その周囲の星々から星座を描いていく。
「あっちの星からこう繋げていったら、ドラゴン座。こっちにネコ座」
「……………………」
「あれは笹団子。カプレーゼ、ローストビーフ、タケノコ、カナッペ。ワインにビール。ラーメン。あっ、大事なの忘れてた。えーっと、あの
どう? って視線を送る。
「わけわかんない。そもそも私、目悪いし」
「……そういや物理的に見えないんでしたね」
俺のちんけな創造力を全開にした努力は全てが無駄だったらしい。
てかこの人いつもベランダで何見てんだよほんと。
「ばーーか」
祈璃さんは楽しそうに罵倒の言葉を口にしたかと思うと瞳を閉じて、俺の肩にこてんと頭を乗せる。
「でも、まぁ、面白かったわ」
「……ですかね?」
「ええ」
温泉よりも頭をのぼせあげてくる、祈璃さんの体温。
ちょっと、心を落ち着けないとやばい。この距離はもはや凶器だ。こう言う時だけ無自覚の彼女は本当に卑怯である。
俺はこっそりと、バレないように、硬直を鎮めることしかできない。
「これからもっともっと、増えていくのね」
「……たくさん思い出、作りましょう」
「……そうね」
星座なんて、わからないならば作ればいい。どうせどこかの誰かが考えた、こじつけのような星座ばっかりなんだ。それなら、俺たちだけの思い出を当てはめて描いてしまおう。
露天風呂の終了時間ギリギリまで、2人で他愛無い話をして過ごした。
本当になんでもない、くだらない話ばかりだった。祈璃さんはそんな俺の話を、そっけなくても、ちゃんと聞いてくれる。昔も、今も、ずっと変わらずに、いつまでも。
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